59.
「しばらくはここにいて構わないだろうから、アクイラくんはゆっくりしてな。俺はちょっとやることが溜まってるから先に帰るね」
そう言って一足先に部屋から出ていくノーシスを見送って、アクイラはぼうっとピアノの鍵盤を眺めていた。
慈しみ。
そういった雰囲気をもっていたのはアクイラよりも兄のほうであった。果たして兄に正解(慈しみ)を提供できるのか、アクイラは少し自信がなくなってくる。
「——綺麗に手入れされているでしょう? 音もとても美しいのよ。私が一から育てた自慢の子たちなのだから」
突然声を投げかけられて、アクイラは驚きに体を強張らせる。
声のほうを振り返ると、壁に体を預けてアクイラを見つめるユーフォニアがいた。ヴァイオリンは隣の部屋に置いてきたらしく、両の手のひらは空いている。
「ノーシスとの用事はもう終わったのかしら?」
「はい、少し前に。……あの、育てたって?」
「あら、聞いたことはないかしら? 楽器は奏者の癖を記憶するのよ。管楽器も弦楽器も打楽器も、ベースは初めて触れた人の癖で成り立っているの」
ゆっくりと近づいてきたユーフォニアは、指を鍵盤に滑らせた。透き通ったダイヤが、ころころと零れていくような透明感。
「もちろん、同じ楽器でも奏者が変わるだけで音色は見違えるほどに変わるわ。それでも、ふとした瞬間にかつてのパートナーの影が見え隠れするの」
「……恋人みたいですね」
「あら、言い得て妙ね。一度染まってしまったら、それを忘れさせるにはとても時間がかかるもの」
おかしそうに笑ったユーフォニアは、つ、と藤色の瞳にアクイラを映した。
「ねえアクイラ。あなた、お兄様が悪魔憑きになってしまったんですってね。彼の理性を取り戻すために頭を悩ませているのでしょう?」
「……聞いていたんですか?」
「まさか。耳元で弦が鳴り響いているのにあなたたちの会話なんて盗み聞けないわ。ただタイミングとあなたの表情から、鎌をかけてみただけよ」
レイナードの件については誰からも聞いていないはずなのに彼女が当然のようにそれを知っているのは、独自の情報網が存在するからなのだろうか。
どちらにせよ、憶測を確信に変えてしまったのはアクイラの反応故なので、少しだけ落ち込んだ。心理戦は苦手なのである。
「分かる? アクイラ。あなたのお兄様だって、ぽっと出の悪魔よりも最初の思い出を一緒に積み上げたあなたを忘れられないはずよ」
「……ちょっと待ってくださいね、分かりそうなものが余計分からなくなってる気がします」
「つまりあなたが元恋人で、悪魔が現恋人なのよ。あなたのお兄様にとってはね」
「いったんその例えから離れてもらっても……?」
「恋人って言いだしたのはあなたなのに?」
「そうなんですけどね……!」
不思議そうに首を傾げたユーフォニアは、咳払いでもってして場を切り替えた。
「とにかく、お兄様の本質は変わっていないはずよ。あなたのほうが彼の心の奥深くに潜り込んでいるのだから、その隙を突けるかどうか、こじ開けられるかどうかが慈しみかどうかなのでしょう。人間時代のお兄様を、どれだけ信じられるかがカギなのではなくて?」
「兄を、信じる……」
「ええ。楽器だって、後から付け加えられた癖を取り込んで個性に昇華するわ。あなたのお兄様も昇華の段階に入れるように、先人がきっかけを作ってあげないと」
話は終わりだと言うかのように、彼女はノーシスが先程まで座っていたピアノ椅子をもってきて、ピアノの前に対面した。浅く腰掛けた美しい座姿勢から、余計な強張りなく自由なまでに鍵盤上を駆けていく指先。
美しい旋律を背に、アクイラはそっとその部屋を出た。




