58.英知と調和と、慈しみ
「あら? 珍しいわね、ここにお客様が来るなんて」
美しい調べが止んで、そっと構えが解かれた。扉に背を向けていたユーフォニアが、静かに後方を振り返る。その瞳に二人の姿を映して、彼女の藤色が緩んだ。
「ノーシスもいたのね。私の音を聞きに来たの? それとも、ここの部屋に用かしら?」
弓を手にした方の手を口元にやってたおやかに笑う彼女に、ノーシスも笑って頷く。
「あの二人の邪魔が入らない場所がよくて。隣の部屋を使ってもいいですか?」
「構わないわ。もしあの二人が来ても、私が追い返しておくから」
頼もしい彼女の言に感謝をしながら、いまいる部屋とコネクティングされている隣の部屋に足を踏み入れる。その後ろで、再び弦が震える滑らかな音がしていた。
アクイラたちが入っていった部屋のなか、そこには黒光りしたグランドピアノが二台、向かい合う形で置かれていた。
「綺麗だよね。調律も全部ユーフォニアさんが自分でやってるんだって」
そう笑ったノーシスが、ピアノ椅子を持ってきて近くに並べた。
「さ、座って。アクイラくんは一体、何を俺に聞きたいの?」
腰を落ち着けたノーシスが躊躇うことなく話を振り、アクイラも心持ち背筋を伸ばした。
「レイナードさんが悪魔憑きでなくなったと聞いたんですが、その経緯を詳しく聞きたくて」
「ああ」
得心したように頷いたノーシスは、しかし小さく首を傾げた。
「俺はその場にいたわけじゃないから実際に見てないけど、それでもいいの?」
「むしろ、ノーシスさんが一番事態を把握していると思うんですが」
「まあ確かにね」
英知の神継ぎは、この世の事象を知り尽くしているのだから。
「昔、悪魔憑きについての予言が下されたのは知ってるよね? 『彼らはいつか、慈しみの前に死ぬだろう』。それは彼らが彼岸に送られることを意味してるのではなくて、神継ぎに戻ることなんじゃないかってアマニちゃんは考えてる。そして、俺もそれは正しいと思う」
「じゃあ、兄さんはやっぱり殺されない限り死なない?」
「そうだね。ただ問題は、慈しみの定義だよ。解釈に幅がありすぎて、何が該当するのかがはっきりしない」
抽象的な概念であるからこそ、自由なものに思えてその実不自由なのだ。
アクイラは少しだけ瞳を伏せて、そしてかつてのレーヴの言葉を思い出す。
「慈しみとは他者の存在をあるがままに肯定する勇気だと、そうレーヴさんは言っていました」
「でもそれすらも、とても曖昧なものなんだよね。今回の件では、レイナードさんの妹さんが自分の魂ごと彼を彼岸に繋ぎとめて、その場で二言三言心の内を交わした。それで双方お終いだと思っていただろうに、レイナードさんだけ目を覚ました。神継ぎとしてね」
アクイラは思わず目を見開いた。
「……それじゃあ、その妹さんは……」
「ああ、大丈夫。生き返ったよ。アマニちゃんの異能とヘルモーズさんの異能の合わせ技でね」
「アマニの?」
「そう。手紙に書いてなかった? あの子水を……というか、哀の感情を異能として操れるようになったんだよ。心緒だから第四塔向きではって言われて今回は異動になったけど、蓋を開けてみればゴリゴリの戦闘系だったから、この度めでたく帰任ってわけ」
それならば最初から第四塔に配属していればいいものを、政府の汚い裏側が垣間見える件である。
アクイラが思わず半眼になる。それに笑みをこぼしたノーシスが、ぐっと背中を反らせて唸った。
「でもまあ、結果を見ればハッピーエンドってやつじゃない? 悪魔憑き問題も少し解決に向かったし、この機に体よく始末されそうだったアマニちゃんも含めて誰も死ななかった。君のお兄さんが神継ぎに戻れば、事態はもう一歩進展だ」
「そんな簡単に……」
また一人悪魔憑きから神継ぎになったというのに、手掛かり自体はあまり増えていない。その現状に、アクイラも気が遠くなる。
それなのに、ノーシスは自信たっぷりに笑って言うのだ。
「できるよ。アクイラくんなら、絶対に」
「英知の神継ぎって、未来予知もできるんですか」
「いや、残念ながら過去と現在での出来事しか分からないけど。でも、やってもらわなきゃいけないからね。俺は第五塔に行く車の中で、頑張ってねって君に言ったでしょ?」
「……あれそういう意味だったんですか……」
紛らわしい言い方だと口にして責めはしなかったものの、アクイラは両手で目元を覆って項垂れた。無駄に心配して損した気分である。




