50.世界が彼女のために泣くならば
「嬢ちゃん、あれ……」
散々歩き回った末、突然領域が消滅した。周囲の彼岸花は瞬く間に消えていき、代わりに領域に飲み込まれる前に対峙していた異形の亡骸が再び現れていた。
嫌な予感に心臓をざわつかせつつ視界良好になった矢先、ヘルモーズが示した先には、重なるようにして地面に倒れ込んでいる二人の人影。
目を凝らしたアマニは、それが誰だか分かるとすぐに駆けだした。
「エヴレナさん!」
彼女の美しい薄紅の長髪が地面に散らばっていた。それに覆いかぶさるようにして倒れている兄の方を慎重に退かす。
とりあえず並んで横たわらせて、簡易的にエヴレナの様子を見ていたヘルモーズが、少しして沈痛な面持ちで顔を上げた。
「……息、してねえ」
「う、そだ……」
咄嗟に疑いの言葉を紡いでしまったアマニを痛ましそうに見て、そっとエヴレナに視線を戻す。
「心臓も止まってるし、瞳孔も開ききってる」
「こっちの、キツネさんは」
「同じだな。二人とも死んでる。相討ちだったのかもな」
どちらも外傷はなかった。本当に死んでいるのか疑ってしまうような、そんな穏やかな死に顔。
茫然と佇むなか、けれど兄の方の瞼がぴくりと動いたことに先に気が付いたのは、アマニの方だった。
「ヘルモーズさん、キツネさんの目が……!」
すぐに視線を滑らせたヘルモーズもアマニの言わんとしていることを察して、すぐさま警戒態勢に入る。
「死んでたはずだろ、そういう異能か……!?」
赤い瞳が世界を映したのを見た瞬間、ヘルモーズが焦ったようにそう言った。
けれど、茫洋とその赤い瞳を宙に向けた彼は、仰向けの姿勢からぴくりとも動かない。
「……エヴレナ……?」
彼の声が、妹の名を呼ぶ。
「エヴレナ、どこに……」
うろ、と視線を彷徨わせて、そしてついに彼は隣に横たわる妹をその赤に映した。まるで眠っているかのように息絶えた、彼の妹を。
「エヴレナ……?」
彼の声は緊張に掠れていた。
ゆら、と彼の腕が伸ばされて、そしてぺたぺたと姿形を確かめるかのように触れる。
「エヴレナ、何故……。そもそも、私は……?」
状況を理解できない彼が、迷い子のような頼りない声を出す。
「……あの、……」
恐る恐るといったアマニの声掛けにのろのろと顔を上げたレイナードは、目の前のアマニとヘルモーズの姿を認めて目を丸くした。
「何故、貴方がたがここに……?」
アマニもまた、彼と目を合わせた瞬間に驚きで目を丸くした。
彼の赤に、人間らしい柔らかな光が存在していたのである。
「私は、死んだはずでは……?」
「ああ、俺もそう思ったんだが、アンタが突然目を覚ましてな」
「エヴレナ、は……」
「まだ目を覚まさないってことは、あんま期待しない方がいいだろうな」
動揺をその瞳にありありと浮かべたレイナードは、震える指先で妹の頬を撫でる。
「何故……? これからはずっと一緒だと、言ってくれたでしょう……? エヴレナ、……エヴレナ、すみません、貴方のことを忘れてしまって、貴方の名前も呼ばなくて。不甲斐無い兄ですみません、だからどうか、目を覚ましてください。死ぬなら私の方でしょう、私はもう、あの時に死んだ存在なのですから」
まなじりを震わせて今にも泣きだしてしまいそうな彼の声を、彼が吐き出す懺悔を、アマニはどこか現実味の湧かない気持ちで聞いていた。
エヴレナは生きていたはずなのだ、ほんの数分前まで。アマニの体を気遣ってくれて、彼女自身も、健康そのものだったのだ。アマニは施設で、死相を漂わせながら徐々に弱って死んでいく子供たちをそれなりに見てきた。けれど、こんな唐突に喪うなんてことは、経験したことがなかった。
そうして茫然としたままエヴレナを抱きすくめる彼を見つめているうちに、アマニは一つの違和感に気が付く。
彼の額に、角がない。
アマニは唇を震わせて、かつて耳にしたフレーズを口にする。
「『彼らはいつか、慈しみの前に死ぬだろう』……」
「……嬢ちゃん?」
窺うようにアマニを呼ぶヘルモーズの声は、彼女の耳には届かない。
——私が思うに、慈しみとは、他者の存在をあるがままに肯定する勇気。そしてそれは、時に理を越えて人を生かす、根源の光よ。
「うそだ……嘘ですよね、レーヴさん……」
ここにはいない彼女が敬愛する女性の名前を縋るように呼ぶが、当然返事は返ってこない。
膝から力が抜けて、そのまますとんと地面にへたり込んだ。
慈しみの前に死ぬのは悪魔憑きの彼であって、人間としての彼を取り戻すということだったら?
ともに死のうと自身の身を犠牲にしてまで彼岸に連れて行ったエヴレナの行動が、その場での言動のどれかが、慈しみに該当してしまったとしたら?
「だってそんなの……そんなのって、ないよ……」
彼女はいま、ともにいるはずだった兄妹を失って、どんな気持ちでいるのか。
どれだけの不条理でも、彼女は彼岸から帰ってこない。もう、一緒に薬草まみれになることもないし、あの不器用な優しさに触れることもできない。
そう自覚した途端にアマニは現実から目を逸らしたくなって、ぎゅっと力を込めて目を瞑る。
それなのに、こんな時にばかりエヴレナとの思い出が、彼女の声が、瞼の裏で、耳の奥底で、思い起こされる。
「エヴレナさん……」
刹那、ぽた、と地面に一滴の雫が落ちる。
ハッとアマニが目を開いた先で、レイナードがエヴレナの体を大事に抱きすくめて、できる限り濡れないように庇っているのが見えた。
一粒、また一粒と、大きな雨粒が天から落ちてきて、四人の体を濡らしていく。
アマニは震えそうになる息をこらえるようにゆっくりと吐いて、感情が零れ落ちないようにこれまたゆっくりと瞼を閉じた。暴れ出しそうな心の臓とは裏腹に、何も零れ落ちはしない双眸に手のひらを押しあて、くしゃりと前髪を掴む。
「エヴレナ、さん……」
冷たい雨が、彼らから体温を奪っていく。
苦しかった。どこにも異常はないのに、エヴレナが全て良くしてくれたのに、まるで胸に重りを詰められたかのように苦しくて、痛かった。
そこまで心の臓が痛むのに、アマニの頬は涙では濡れない。その代わりとでも言うかのように、雨が頬を撫でていく。
そんなアマニを見て驚いたように瞠目したヘルモーズは、やがて視線を空に滑らせた。
まるで今の心中を表しているかのような分厚い雲を見上げて、顔に当たる大粒のしずくに少しだけ目を細めて、そして彼は静かに口を開いた。
「……泣いている、空が泣いてるぞ、護魂の神。エヴレナを喪って、世界が涙を流してる。アンタが突き付けた条件は満たしただろ」
——世界が、彼女のために泣くならば。
アマニがその瞳を大きく見開いて、ヘルモーズを見る。
少年にしては深みのある声が、雨の雑音を裂いて、天に届く。
「今ここに、護魂の権能の行使を」
ヘルモーズがほぼ睨みつけるように見上げる先、アマニも見た。
金の瞳を光らせた、人ならざる存在が、神が、こちらを見下ろしているのを。
「——姑息だな。だが好ましい。二度はないが」
地面を震わせるような重低音が、人間の言葉として皆の脳内に届く。
その意味を一拍遅れて理解したアマニは、恐る恐る隣のヘルモーズと顔を見合わせた後、すぐにエヴレナへと視線を送った。
期待と不安が入り混じった表情を浮かべたレイナードの視線が注がれる先で、微かに開いていた口からエヴレナが息を吸いこんだのを見て、アマニは居ても立っても居られずに彼女の元へと駆けだした。
やがて瞼の裏から美しい紅玉を覗かせた彼女は、まず兄を見て、そして駆け寄ってくるアマニを見た。そしてゆっくりとその腕を伸ばして、アマニの頬に手のひらを滑らせる。
「……いつの間に、……どうして、ヘルモーズとお揃いになっているのですか」
「エヴレナさんのことを、たくさん考えていたから……!」
追いついたヘルモーズが、その返答に喉を鳴らして笑った。
あれほど降っていた雨は、もう止んでいた。




