47.
「……美しい場所ですね」
エヴレナが連れてきた真白の蝶が、ぽつりと足元の彼岸花にとまるのを見て言葉が零れた。
けれどもレイナードにはその呟きは聞こえていなかったようで、ただただ警戒の眼差しを向けられるだけだった。
「……治癒の異能者が、どうして先程の一撃を繰り出せるのですか」
「簡単な話ですよ、兄様。あの子の受けた傷を癒し、その痛みを、衝撃を、全て貴方に流し込んだだけです」
さく、とエヴレナが彼岸花を踏み倒しながらレイナードに近づいていく。
けれどその姿はまるで霞のように掻き消え、はためく真白の蝶々が彼女に取って代わったかのように残されていた。
レイナードは瞠目して、そして新たに気配の動いた己の後方を振り向く。
そこには、地面に頽れているヘルモーズの元へ美しく伸ばされた背筋を向けて近づいていくエヴレナの姿。先程のエヴレナの一撃の際に、彼を戒める鎖が消えてしまったのだ。エヴレナの軌跡を引くように、数羽の蝶がはらはらと舞っていた。
そっと彼女の白い指先がヘルモーズへと向かうのを見て、レイナードは即座にエヴレナに向けて斬撃を放つ。先程の二の舞はごめんだった。
けれども、それより早く彼女の人差し指はヘルモーズに触れ、そしてレイナードの想定よりも早く、彼女は全ての傷を完治させていた。
刹那、斬撃から全てを護るように構築された、防壁。
両者の衝突が、衝撃波となって辺りを駆け抜ける。
「……防御にも転じられるのですか」
辺りが再び静まったころ、レイナードはそうエヴレナに問いかけた。
彼女はその紅玉を静かに凪がせて、じっと兄を見つめ返す。
「ええ。ですが残念ながら、私にはもうなすすべがありません。ここにはもう怪我人はいないのですから。……兄様がまだ怪我をしていれば、その力を使って反撃できたでしょうに」
「兄の負傷を願うとはいただけませんね。しかしそれを聞いて安心しました。貴方はもう、ただの平和ボケしたひとと変わらないということです」
ゆっくりと細められた瞳も声音も、全てが平坦で、かつての兄とは似ても似つかない。けれどもその造形も声色も、全てがかつての兄のままなのだから、エヴレナは瞬きをして気持ちを落ち着かせた。
次の瞬間、目に前に迫っていたのは薙刀の刃。アマニが好んで使っていたそれを、レイナードは躊躇いもなくエヴレナの眼前へと突き立てた。
少し左にずれてその攻撃を回避したエヴレナは、けれど完全には回避せずに、その刃を右肩で受け止めた。
切れ味のいい刃が彼女の肩を切断し、右腕がごとりと重い音を立てて地に落ちる。
けれど瞬きをする間もなく彼女の腕が再生し、その手のひらが向けられる先、レイナードへと衝撃波が放たれた。
それを少し後退しながら難なく避けたレイナードは、次の攻撃をすることなく手元で薙刀をもてあそぶ。
「そうですよね、貴方は治癒のエネルギーを他の力に変換するのですから、全ての行動が後手になる。貴方自身の戦闘能力が乏しいこともあって尚更」
彼女を如何にして攻略するかが、現状のレイナードの最大の課題であった。
エヴレナをどうにかするより先にアマニやヘルモーズが起きてしまえば、ほぼ永久的な持久戦が展開され、先に音を上げるのはレイナードになるだろう。そしてそれは、エヴレナだけを相手に戦うときも同じ。
しかしそれは、通常の戦闘展開であった場合である。
レイナードは勢いよく地を蹴って、しかし手中の薙刀の刃ではなく、柄で彼女の体を横から殴打する。
骨は折れないが、衝撃で吹き飛ぶくらいの力の加減、角度、場所。
対人戦の経験に欠けているがためにものの見事に吹き飛んだエヴレナをすぐさま追って、地に伏せる彼女が起き上がる前に上から押さえつける。
「……攻撃しないのですか」
「下手に治癒の機会を与えてしまうと反撃されますからね」
みぞおちに膝が乗り上げている状況で、少しだけ苦しそうに顔を歪めたエヴレナは、自身の喉元を覆う手のひらから伸びる兄の腕にも視線を滑らせる。
「しかし、怪我でないのならば反撃もできないでしょう? 息を奪われても、血流を遮られても、治癒の力ではどうにもできませんからね」
冷静に納得の色を浮かべたエヴレナは、ひたと兄の赤い瞳をまっすぐに見つめ返して口を開く。
「扼殺では神継ぎは死にませんよ。それよりも即死……頸椎を折る方が確実なのではないですか」
「……本気で言ってます?」
真顔で恐ろしい提案をしたエヴレナに、レイナードは信じられないものを見るような目で彼女の顔を見下ろした。
「どうしてそのような顔を……。先程まではもっと惨くやり合っていましたでしょう?」
「それとこれとはまた違うとは思いますが……。見ていたのですか」
「ええ。蝶を介して、私が転移できるほどの蝶がその場に集合するまでは一通り。人間の領域への侵入経路は固く閉ざしていても、それ以外には存外寛大な領域で助かりました」
今まで気にしてもいなかった点を突かれて、レイナードは僅かに目を見張った。
けれどもすぐにエヴレナから問いを投げかけられて、たおやかに首を傾げることになる。
「人の生き死にについては興味はないのでしょう? ただ、己の力を思いつくがままに振るっているだけの兄様が、それを妨げる存在を前にして何を躊躇うのです」
「……何故でしょう、貴方が妹だからでしょうか。どうにも決心が鈍くなるようで……」
「私がよいと言っているのに?」
「それこそ何か、胸がざわつきまして。とても不快です、妹とはここまで情に訴えかける存在なのですか。全て等しく個体ではないですか、ただ私との関係値に名称がついているだけであるのに。そうでしょう?」
エヴレナは彼の訴えを聞いて、けれど彼の問いに答えることはせずに、うっすらと唇に微笑みを乗せた。
「それはとても、妹冥利に尽きますが……」
エヴレナがそっと、己の首に添えられた兄の手のひらを上から押さえた。
「どうぞ、私を殺してください。逃げも隠れも致しません。抵抗などもってのほか。あの子たちの死はただただ損失ですが、私の死には意味があります」
「貴方の死をバネにしてあの二人が成長を重ね、敵討ちをするなどという陳腐なストーリーを用意しているわけではありませんよね?」
「まさか」
一向に力の加えられないレイナードに少しだけ笑みをこぼしたエヴレナは、ぐ、と彼の手のひらの上から自身の力で首を圧迫し始める。
「何を……?」
それに動揺した様子のレイナードは、その異様さに咄嗟に手のひらを彼女の首元から離そうとするも、すさまじいほどの力でもって押さえられていてぴくりともしない。
けれども、彼女の細腕からこれほどの力が発せられるとは考え難い。現に彼女の腕には筋肉の盛り上がりこそ少しはあるものの、青筋などは到底見られなかった。
しかしそれなら、いよいよもって異能での強化としか——
「貴方まさか、エネルギーを蓄えることもできるんですか!?」
「ええ。といっても、長期的には無理ですが。先程のヘルモーズから得た力の大半を、このために残しておきました」
流暢に話していた彼女の顔が、しかし会話が終わるころには苦しそうに歪み始める。もともと呼吸の途中で首を絞めたのだから、十分な酸素が吸っていないのに呼吸を止めたような状況になっているのだろう。彼女の白かった頬に、徐々に赤みがさしてくる。けれどそれは健康的な赤みではなく、命の危機に直面したそれであった。
彼女の紅玉がうろ、と虚ろに彷徨って、そして静かに瞼が閉じられる。喘ぐような呼吸が繰り返されて、けれど酸素は取り込めない。
しかし、彼女も言った通り、神継ぎは即死でしか死ねないのだ。だから彼女は、ただ気道を絞めるだけではなく、自分自身の首の骨を折ろうとしている。
いよいよ危険な状態に陥ろうとしているのを目の当たりにして、レイナードは何故か焦る気持ちに襲われた。
今までずっと引きはがそうともがいていた手のひらから力を抜き、無意識のままに額を合わせて瞳を閉じた。
そしてそのまま、彼は異能を発動し、妹の魂を摘み取った。




