39.永劫の罪を背負って生ける者
第四塔での日々は、案外穏やかに過ぎていった。
それはエヴレナとヘルモーズの気質というのもあるのだろうが、彼女たちが朝方に出掛け、夕方まで帰ってこない診療所へ、彼女らがアマニを連れて行かないからという面もありそうだった。エヴレナはヘルモーズですら置いていきたそうにしていたが、そこはヘルモーズが頑として譲らなかった。
故にアマニは、朝に楼閣を出ていく二人を見送ったのち、簡単に家事を済ませると庭に出て体を動かし始める。これまで必死に作ってきた体が鈍らないように、ビーマから教えてもらったことを何一つとして忘れないように。
そうして、疲れ切った顔をして楼閣に帰ってくる二人を温かい夕飯と共に出迎えるのである。
それが崩れたのは、アマニが第四塔にお邪魔してから二週間が経つ頃だった。
この日は、薬草を摘むからと言ってヘルモーズが診療所に行かずに楼閣に残っていた。相も変わらずエヴレナは診療所に行っていたので、アマニはヘルモーズの手伝いを申し出て一緒に近くの群生地へにいたのである。
「——どうして! お前は護魂の神継ぎなんだろうが!」
その怒号が聞こえたのは、二人で手分けして薬草を摘んでいたときだった。
これは火傷、これは痛み止め、と一つ一つ丁寧に区分していた矢先、耳を刺すような男の怒声は、静かな自然の中でよく聞こえた。
「なんで生き返らせてくれないんだ、なんで異能が使えないんだ、この役立たず!」
声を頼りに騒ぎの場に駆け付ければ、そこにいたのは誰かを組み伏せている大柄な男と、その下で目を見開いている、真っ白な。
「ヘルモーズさん!!」
アマニの悲鳴のような声につられて、目の前の男からアマニへとその空色の瞳が向けられる。そこにあったのは、少しばかりの恐怖と、それを覆い隠してしまうほどの諦念。
その左の頬に殴られたような痕を認めて、アマニは咄嗟に走り寄っていた勢いをそのままに、男を蹴り飛ばした。
対人間だからと加減したのと、思ったよりも男が筋肉質だったのが相まってあまり吹き飛んではくれなかったが、とりあえずヘルモーズの上から彼はいなくなった。
ヘルモーズを助け起こすと、彼は腹に力を込めたような声ですまん、助かった、とだけ口にした。そうでもしないと声が震えてしまうと、彼は悟っていたのだろう。
「ハッ、いってえな……。ああ、俺はお前を知ってるぞ、そこの女。お前も異能が使えないんだってな、情けねえ奴。役立たず同士傷のなめ合い、仲良しこよしってか?」
嘲笑うようにそう吐き出す男を、アマニは努めて冷静に見つめた。
「……どうしてヘルモーズさんを殴ったんですか。ヘルモーズさんはある程度なら自衛が可能です。あなた、不意打ちで殴りましたね。どうしてそんな一方的なこと——」
「俺の娘が死んだんだぞ! そいつがちゃんと異能を使えてりゃまだ生きてた、一緒に暮らせた! まだあの子は九歳だったんだぞ!」
「それならなおさらどうして殴ったんです、九歳の子を持つ親なら。見目もそう変わらぬヘルモーズさんを、どうして殴れるんです」
「外見なんて関係ねえだろうが!」
「体躯が幼子のままなら、簡単に遠くまで吹き飛んでしまうんです。怪我をするんです。下手をすれば死んでしまうかもしれないのに」
「本望だね! 役立たずが何百年も生きていたって意味がねえ!」
「……何を、言って」
「そんな奴、さっさと死ねばよかったんだ!」
「どうしてそんな酷いことが言えるの……?」
唇を震わせてそうぽつりとつぶやいたアマニの意識を引くように、そっと後ろに引っ張る力があった。
はっとして見下ろすと、困ったように笑みを浮かべたヘルモーズがいた。
「もういいんだ、嬢ちゃん。あんたにはあまり汚い言葉を聞かせたくねえんだ。ごめんな、俺のせいで聞かなくていい罵倒まで聞いた」
「なんで……」
予想外の言葉に、アマニは思わず先程までの強い不快感を忘れた。彼が、痛々しい頬を精一杯に持ち上げて笑うので。彼が、まったく必要のない謝罪をしたので。
「すまんな、そこの兄ちゃん。俺も概ねあんたと同じ意見だ。俺は俺の神権が心底嫌いだし、役立たずだとも——」
けれども、彼の苦しいほどに自分を貶める言葉は、ヘルモーズの口元を覆った冷たく肌触りの良い手のひらによって遮られた。
「……エヴレナ」
茫然と手のひらの中で落とされた彼の呟きを耳にして、もう先程までの勢いは残っていないと悟ったのだろう、エヴレナの手のひらが離れていった。離れていきがてら、彼女の指先がそっとヘルモーズの痛ましい頬をなぞる。触れた先から、みるみると赤みも腫れも鬱血も引いていくのが分かった。
けれども、彼女の美しい紅玉は、ヘルモーズを一度たりとも映さない。ただ、澄み切ったその瞳で、先の男を見据えていた。
「生命は、いつか死ぬんです」
度重なる乱入者、ひいてはそれが国の誇る薬師であると知って、男は微動だにしないまま目を見開いている。
「生きとし生けるもの、全てに等しく死は訪れる。それは抗いようのない私たちの運命でもあります。故に、それを捻じ曲げる私たちの存在の方が異端でしょう。定められた運命を覆すのは、一種の生命への冒涜ですから」
ただ静かに、彼女は言葉を紡いでいく。
「貴方がこの子を責めるのならば、等しく私のことも責めるべきでしょう。まだ貴方のお子さんに息があるときに、その場に辿り着けなかった私を」
「いいえ……いいえ、誰が貴方様のことを責められましょうか、この世界の、誰が——」
すっと顔色を失くした男が、平身低頭で否定を重ねる。
エヴレナは、彼女自身がどれだけ嫌がっていようといわば政府の贔屓である。そのエヴレナを堂々と責めようものなら、政府がどのような牙を剥いてくるかなど計り知れない。一般人など、簡単に切り捨てられてしまうのが今のこの世界の現状である。
「そう。それなら、貴方は攻撃しても自身により害のない方を選んだことになる。それはただの醜い八つ当たりで憂さ晴らしで、弱い者いじめでしょうね」
震えるようにして息を吸い込んだ男に、エヴレナはいさめるように語り掛ける。
「貴方がすべきことは、お子さんを供養し奥さんと共に立って、そうして天寿を全うした後に彼岸で再開するだろうお子さんに顔向けできるような人生を送ることでしょう」
「……ですが、……俺は、もう一度あの子と会えるんでしょうか、そんなの夢物語では……」
「いいや、必ず会えるぞ。俺の言うことには信用ないかもしれないが」
「ヘルモーズ」
「事実だろうよ、それが世間一般の俺への認識だ」
嗜めるようなエヴレナの声すらさらりと受け流して、ヘルモーズは自身の足でしっかりと立って男と向き合った。
「ちゃんと生きろよ。早く会いたいからって自死は駄目だからな、それじゃ会えなくなっちまう」
茫然と現状をかみ砕いている男に一つ苦笑いを落として、ヘルモーズはエヴレナへと視線を向ける。
「来てくれてありがとな。仕事放り投げてきたんだろ、すまんが戻るついでにあの兄ちゃんも連れていってやってくれないか」
「……頬以外に、殴られた場所はありませんか」
「大丈夫だ。顔の手当てもありがとな」
「いえ……」
安心させるように笑うヘルモーズに何も言えない様子のエヴレナは、そっと立ち上がって男を連れ立ってその場を離れていった。
「嬢ちゃんもありがとな。ホントに驚いたぜ、蹴りの威力もだし、良い感じに脇腹に入ってたしな」
ぺらぺらとしゃべり続けるヘルモーズは、きっと先程から黙ったままのアマニをどうにかして元気づけたいのだろう。散らばってしまった薬草たちを拾い集めながら、彼はいっそ軽快なほどにしゃべる。
けれどもアマニには一つ、思うところがある。
「……ヘルモーズさんは優しすぎます」
「うん?」
「あなたは力でも言葉でも傷付けられたのに、どうして……」
からからの食道に丸めた布を詰めたかのように、息苦しかった。くしゃりと顔を歪めたくて、でも、そういった感情を見せるわけにはいかないと、アマニは静かな深呼吸で不快感をやり過ごした。
少し土にまみれて萎びてしまった薬草を摘まんだ状態で、ヘルモーズは同じようにしているアマニを見た。
「まあ全部的を射てるわけだしな、納得しちまうし。それに俺も経験あるからな、あの状況」
ぽかんと口を開けたアマニにからからと笑って、ヘルモーズは最後の一つを竹ざるに放り込んだ。
「マ、嬢ちゃんの竹ざるも拾って、楼閣に帰ってから話そうぜ」
「……はい」
すっくと立ちあがった彼の後に続いて、アマニも群生地を後にした。




