38.
「——つまり、拉致同然にここに連れてこられたと」
「そうなんですよ」
ばりぼり、と煎餅をかみ砕く音が絶えず響いていた。用意された醬油味の煎餅は、食べても食べても癖になってしまって手が止まらない。
紅色の瞳を静かに伏せると、彼女の薄紅の髪もさらさらと流れ落ちて顔に影を落とす。細身で色白なエヴレナは、今にも溶けてしまいそうなほど儚かった。
どうにも第四塔の儚いコンビと醤油煎餅という渋さがミスマッチしていて絵面が面白いことになっているのだが、アマニはむずむずと口元を引き結ぶにとどめた。
「先程ヘルモーズが言っていましたが、私たちも何も知らされていないんです。短期なのか長期なのか、あるいはこれから永続的に貴方はここに身を置くのか。異動の理由も貴方自身見当がつかないとなると、きっとまた大人の事情なのでしょうね」
「これまたエヴレナが大嫌いなやつだな」
菓子入れいっぱいだったはずの煎餅が欠片残らず食べ尽くされ、ヘルモーズがどこからかごそごそとミカンを取り出してきて再びいっぱいに積み上げた。
それに少しだけ眉を顰めて、エヴレナが苦言を呈する。
「お腹を壊しますよ」
「美味しいものを腹いっぱい食べて壊すなら本望だろ」
「なんて暴論……」
果たして腹痛よりも食欲が勝っているのは生命体として大丈夫なのだろうか。そもそもこの小さい体のどこに煎餅とミカンが詰め込まれているのだろうか。
お行儀よく背筋を伸ばしたまま茫然とヘルモーズを見つめるアマニに苦笑いをこぼして、彼はミカンを次々と口に放り込んでいく。
「貴方、異能はまだ満足に使えないのでしょう。それなのに配属から一年経った今頃異動だなんて絶対に裏があると思いませんか」
「さっきの扱いを見る限りは俺寄りだったよな。やっぱ異能使えないってのはかなりマイナスってことか」
「そうでしょうね。あと考えられるのは、貴方が先程言っていた第五塔所属だった理由あたりでしょうか。心緒という神権が、慈愛の災厄を想起させること」
ミカンの皮を丁寧に剝きながら、エヴレナは思案気に呟く。
「アマニさん、今から私が考え得る最悪の事態を話しますね。……ですがその前に」
はあ、とこれ見よがしにため息をついてみせたエヴレナが、部屋の入口の方へと声を投げかける。
「ルディヴィーさん、この際不法侵入については置いておいて、貴方の所感もお聞きしたいのですが」
「うおっいたのか」
「アハ、モゼちゃんは相変わらず気配に鈍感だけど、レイナちゃんは成長したね~」
呼び当てられて特段慌てる様子もなく、ひょこりと顔を覗かせてから部屋に足を踏み入れたルディヴィーは、アマニの傍までよどみなく近づいてくるとそっと指先で亜麻色の髪を梳いた。ゆっくり丁寧に何往復もするうち、ルディヴィーの琥珀の瞳が段々と緩んでいった。
「良かった、ちゃんと第四塔に着けたんだ」
「はい、ご心配をおかけしました」
気持ちがよくて瞳を細めると、ルディヴィーが嬉しそうに笑った。
そのまま流れるようにアマニの隣の席に滑り込んで、食卓の上に視線を走らせる。
「おいしそ~、私もミカン食べていい?」
「ご自由にどうぞ」
「やった~ありがと!」
嬉しそうにそう声を上げたルディヴィーがきっちり一玉食べ切るのを待ってから、エヴレナが話の口火を切った。
「先ほども言いましたが、心緒が慈愛を想起させること、これがお役人にとっての一番の懸念事項だと思います。話に伝え聞く限りでは慈愛の災厄は人類が最も滅亡へと近づいた要因ですから。そして、私が彼らの立場であれば、考えることは一つです。異能を扱えるようになる前に、殺してしまうこと」
「……マ、そうだろうな。神とのつながりが強くなる前に、ってわけだ」
「けれども、故意的に彼らの方からアマニさんを傷つけることは避けたいでしょう。慈愛の災厄が、まさにそういった恨みから引き起こされたとされているのですから」
「それなら膠着状態になりませんか? 殺したいけど殺せないから、現状維持のままで」
自分の生き死にについての話題であるのに、どこか他人事のように首を傾げるアマニに、エヴレナが首を振り返す。
「殺すのではありません。死んでしまえばいいのです。偶然、第四塔の付近に悪魔憑きが、そうではなくとも異形が襲来したら? 偶然、普段そういった討伐に当たる第五塔は手が空いていなかったら? けれども、常ならば戦力不足の第四塔に、元第五塔がいたら?」
「アマちゃんが単騎出陣するだろうね~」
「そうだとしても、第五塔時代からそれ自体は多くこなしてきましたよ」
いまいちピンときていないアマニの様子に、エヴレナが当然だというように一つ頷いた。
「それすら、何かの拍子に死んでしまえばいいという考えからの要請だったとしたら? 第五塔には手練れが多いですからいざというときに助けが来たのでしょうけれど、ここではそんな都合のいいことはできません。塔ごとに情報は隔絶されていますから、土壇場で第五塔の方々に報せを届けることもできません」
静かに瞼が伏せられて、美しい紅玉が隠される。
「彼らは貴方を貶めるためならなんだってするでしょう。それこそ、貴方はすでに第五塔で自己防衛のイロハを叩き込まれていることは分かっているのですから卑怯な手だって使うでしょうね。何も知らない一般人を大勢巻き込んで、貴方一人に彼らの命運を背負わせる、とか」
「考えすぎだって思うかもしれねえが、こう見えて現段階で一番裏の大人の事情を知ってるのはエヴレナだからな。それにこの塔は、どこよりも一般人に近いんだ。診療所がすぐそこにあるから、やろうと思えば防壁の外に案外簡単に出られる」
五玉目のミカンもぺろりと平らげたヘルモーズは、さすがに腹が膨れたのか、菓子入れに伸ばし続けていた右腕を柔らかいクッションへと伸ばし引き寄せ、それを抱えた。
ヘルモーズの言葉を否定も肯定もしなかったエヴレナは、けれどもその顔に微かに笑みを浮かべた。
「ですが安心してくださいね、アマニさん。私は彼らが大嫌いですから、絶対に貴方を死なせないと誓いましょう。私の神権だって、後援特化というだけで使い道はたくさんありますから」
平坦な声で過激な言葉を使うエヴレナに、ふとアマニが首を傾げる。
「あの、エヴレナさんの権能って……」
「ああ、そういえばまだ伝えていませんでしたね」
表情に乏しいエヴレナは、いっそ彼女が精巧な人形であるかのような錯覚に陥れられる。
「私の神権は命脈。言葉通り、命を司る権能です。怪我をしたら仰ってくださいね、どんなに小さなものでもすぐに治して差し上げますから」
「お偉いさんが小さなことで頼ってきたら薬を渡して終わりだけどな」
「市販のものを渡してもいいくらいですけれども」
エヴレナの徹底的な政府嫌いに苦笑いをしていると、彼女がついとルディヴィーへと視線を向ける。
「ですから安心してください。貴方が何故ここまで連れてこられたのか、私は分かっているつもりです。みすみすと殺させるような、そんな業腹なことは致しません」
「……そっか」
ルディヴィーは、何かをかみしめるようにそう口にした。
「強くなったんだね、レイナちゃん」
「奪われるだけでは、かつての私が報われませんから」
たったそれだけの短い会話だったけれど、二人が同じ思い出を共有していることは確かだった。
そのまま少しばかり黙ったエヴレナは、先程までとは打って変わって躊躇いがちに口を開いた。
「……ルディヴィーさん、彼女がこの場に現れたときだと思うのですが、……少し、跳躍の気配を感じました。勘違いかとも思ったのですが」
「レイナちゃんは何年もあの子とバディを組んでたもんね」
「はい、誰よりも彼女が異能を行使するところを見てきました。私はてっきり、あの子は亡くなったものだとばかり思っていたので、本当に驚きまして……」
「うん。私も本当のところはよく分かっていないけど、きっとレヴィちゃんが探ってるだろうから何か分かったら教えに来るよ。ただ、四百年も音沙汰がなかったから——」
「ええ、分かっています。過度な期待は厳禁なのでしょう」
ルディヴィーが痛ましげにそっと目を細めて、そして手元にあった最後の一房を口に放り込んだ。
「無理しすぎちゃだめだからね、レイナちゃん。モゼちゃんもだよ、酷いこと言われたらちゃんと怒るんだよ」
「おう、任せとけ」
「アマちゃんも、この二人は見かけによらず逞しいからたくさん頼るんだよ。あっ忘れてたけどアマちゃんの薙刀ここに置いとくね」
「ほー、嬢ちゃんこんなでっかいの振ってんのか」
感心したようにそう独り言ちるヘルモーズは、しかし続いたルディヴィーの言葉によって頬をひきつらせた。
「この二人がため込みすぎて駄目そうだったら薙刀振り回してでも止めてね、アマちゃんのためにも!」
「おいおいそりゃ言いすぎだろ」
ヘルモーズの言い分はまるっと無視して、ルディヴィーはアマニを抱きしめる。
「きっと今回の采配に損があるって分かれば、最悪無意味だって分かれば、また元の生活に戻るだろうから。元気でね、アマちゃん」
「はい、ルディヴィーさんも」
神継ぎになってからずっと、年若いアマニを優しく包んでくれていたルディヴィー。その心地よさにアマニが目を閉じて、そうして数秒後、少女を包んでいた温もりはふっと消えた。




