37.一方その頃、アマニは
「——ああ、定刻通りですね」
レーヴの声が不自然に途切れて視界が歪み、次の瞬間には空気が変わっていた。体勢を崩して着地した際に咄嗟に瞑った瞳を恐る恐る開いて、そしてアマニは息を呑んだ。
まるで蜃気楼のような神秘的な世界が、アマニを包んでいたからである。
けれどもすぐさま先程声を発した細身の女性へと視線を移して、警戒を露わにアマニは固い声を出した。
「……どなたでしょうか?」
「一介の役人ですよ、名乗るほどのものでは決して。さあお立ちください。第四塔はもうすぐそこです」
ひらひらとどこからか真白の蝶が舞いおりてきて、アマニの肩口に静かに降り立った。
「さあ、神継ぎ様」
蝶を静かに見つめていたアマニを、役人を名乗る女性が急かすように呼んだ。
なるようにしかならないと一度固く目を閉じて、アマニはゆっくりと立ち上がる。その動きに驚いたのか、真白の蝶が羽をはためかせてどこかへと飛び去っていってしまった。
それを数秒の間見送って、アマニはすでに背中を向けて歩き出している役人の後を追った。
「……おいあんた、心緒の嬢ちゃんじゃねえか。なんでまたこんなところに……怪我でもしたのか?」
「あっヘルモーズさん!」
第四塔だと思われる建物は、まるで楼閣のようであった。
アマニの背後から聞いたことのある声がかけられたのは、彼女がその第五塔とは全くの異なる荘厳さに気圧されていたときのことである。
声の元を振り向けば、記憶の通りに淡い小柄な少年が、薬草らしきものがてんこもりになった竹ざるを抱えてアマニを見ていた。あまりに薬草が盛られすぎて、薬草に隠れて彼の顔は目元からしか見えなかった。
「お久しぶりです、お手伝いしましょうか? 怪我も病気もしていない健康体なのでぜひ!」
顔見知りに出会ったことでひとまずの安心を得たアマニの申し出にやんわりと断りを入れたヘルモーズが、いま初めて気が付いたというように役人へと視線を滑らせた。
「んで、なんでお役人さんがここにいるんだ? あんたらがいるべきは診療所のほうだろうに」
「今日は患者が少なかったですし、皆様にご案内すべきお客様がいましたので」
ヘルモーズがアマニの傍らまで追いついてきて、ゆっくりと眉をしかめる。
「客ってこの嬢ちゃんのことか?」
「はい。しっかりと送り届けるようにとの上からの命でして」
「聞いていないんだが」
「申し訳ありません、伝令が間に合わなかったようですね」
アマニにとってもヘルモーズにとっても騙し討ちの形であるのに、いけしゃあしゃあと女性は薄い謝罪を口にした。
「マ、来ちまったものはしょうがないか。もう夜も遅いし、あんたももう帰りな。嬢ちゃんは俺が預かるから」
「……いえ、そういうわけには。仕事ですし——」
「もう楼閣だけじゃなくて入口まで見えてんだぞ? 心配するようなことは何も起きないって」
「いえ、神継ぎ様——」
「——そうですね、ヘルモーズの言う通り。帰ってくださる?」
凛とした女性の冷え切った声音が響いた。
先程までも大変に居心地が悪かったが、アマニは臓物に冷たい息を吹きかけられたような心地に襲われた。女性の言葉の矛先はアマニではないのにも関わらず、である。
ちら、と役人が視線をそちらに向ける。しかし女性の冷たい透き通った紅色の瞳と交わった途端、役人は頭を下げて了承の意を示し、踵を返した。
あまりの変わり身の早さに瞠目していると、苦笑いをしたヘルモーズが耳打ちしてくる。
「情けない話、俺は政府の人間に舐められててな。エヴレナが言うと一発なんだが」
「どうして……」
「見た目も非力な子どもだし、期待された異能の扱い方もできないからなあ」
案外神権の扱いに困っている神継ぎは多いのだろうか。目を見開いて隣のヘルモーズの顔をまじまじと見つめるアマニを他所に、彼は呑気に女性に声をかけていた。
「エヴレナー、この嬢ちゃんは入っていいんだろ?」
二度、その美しい紅色を瞼の裏へと隠した女性は、静かにアマニをひたと見据えた。
先程の苛烈なまでの冷たさを思い出したアマニは咄嗟に身を固くしたけれど、思いのほかその視線は暖かさを纏っていた。
「いらっしゃい」
それだけ言ってくるりと背を向けたエヴレナの後にゆっくりと続いたヘルモーズが、少し首をひねってアマニを見やる。
「良かったな。詳しい話は中で菓子でも食いながらしようぜ」
「もう夜も遅いですけど……」
「だからいいんじゃねえか。背徳感がたまらないってな」
悪戯っぽく笑ったヘルモーズの後を追いながら、アマニはこの先どうなるのかと強張っていた体から静かに力を抜いた。




