15.夢を夢と心得よ
第五塔に来てから数日のうちは、目を閉じる前からもうほぼ意識を飛ばしていて、次に意識が覚醒したときには朝日が部屋を照らしているような日々だった。
けれどそれも、体が回復していくにつれて少しずつ目を閉じてから睡眠に入るようになって、朝方の早い時間に数回目覚めるようになって、そしてついに、夢を見るようになった。
「——……兄さん……」
眠りから覚醒してみれば、じんわりと目元に髪が張り付く感覚がしていた。まるで一滴の雨粒が頬を撫でていったかのような、それほどまでに実感のない涙だった。
まだ辺りは暗くて、耳を澄ましても誰の音も聞こえない。先程まで見ていた寂しい夢も相まって、まるで世界に独り取り残されてしまったような感覚に陥った。
あの日から、夢には必ずと言っていいほど兄の姿があった。
兄が無機質な赤でもってアクイラを見る夢。
兄がアクイラとお揃いの金の瞳を柔らかく細めて、微笑んでくれる夢。
兄がまるで雑草を踏みつけるように、アクイラを殺す夢。
兄が幼いアクイラの手を引いて、美しいススキ畑に連れて行ってくれる夢。
兄が他人を殺してしまう夢。
兄が近所の人に次々と野菜を、果物をもたされる夢。
人間時代の兄との思い出も、悪魔憑きとなった兄との記憶も、まだ起きてすらいない悪夢も、全てがまぜこぜになってアクイラを苦しめた。
もう最近は夢の内容もあまり正確には覚えてはいられなくて、ただ後味の悪さをかみしめるしかなかった。
そっと寝返りを打って、深呼吸をする。
眠れなくとも、目を閉じるだけで気休め程度にはなるとなかなか眠れない日に兄が言っていたことを思い出す。
そうして、時間をかけてゆっくりと、アクイラの意識は再び夢の中に吸い込まれていった。
「——……ラ、起きて。アクイラ」
穏やかな呼び声に引き戻されるようにして、アクイラはそっと目を開けた。先程とは違って、暖かな日差しが辺りを照らしていた。
そっと像を結んだその先に、心配そうにアクイラを覗き込む金茶の瞳。
「レーヴさん……」
「勝手に入ってしまってごめんなさい。あまりに魘されていたものだから心配になってしまったの。大丈夫?」
そっと冷たい指先で目元を拭われて、アクイラはまた落涙していたことを知った。
「……兄、が。誰とも分からない人に、惨殺される夢を見ました。あまりにも惨い、夢で……。俺の体も思うように動かなくて、声も届かなくて、何もできなくて……」
「アクイラ」
悲しげに名前を呼ばれて、アクイラはそっと口をつぐんだ。
「アクイラ、夢を夢と心得るのよ。夢は夜明けとともに消える宿命なのだから、何も怖がることはないの」
慈愛に満ちた金茶の瞳が、労わるようにアクイラを映していた。
「怖い夢も、ですけど。俺にとって優しくて幸せな夢を見たときは、余計怖くなります。ずっと、幸せの中にいたいって、そう思ってしまうんです」
「いいのよ、そうなってしまうことを誰が責められるの? 私だってそうだわ。でも、私たちは夢の中ではどう足掻いても生きられない。ときに無情な世界に、私たちは目を向けなければならない。でもね、大丈夫よ、アクイラ」
ゆるりと金茶が溶けて、安心させるように彼女は微笑んだ。
「無情である以上に、この世界の美しいことったら! 私が貴方に教えてあげる。私が貴方を、美しい世界に連れて行ってあげる。そうしたら、消えゆく幻に縋ることもなくなるから」
アクイラの涙はもう止まっていた。もともとアクイラの意に反して流れていた涙だ。ひとつ瞬きをすると、睫毛に乗っていたらしい最後の一雫がぽろりと落ちていった。
「レヴィちゃ~ん? どこ~?」
「はーい、今行くわ!」
遠くの方から聞こえてくるルディヴィーの声にレーヴが返して、そして再びアクイラの方を向いた。
「……俺も、レーヴさんが見ているような世界の美しさを見られますか?」
「ええ、きっと。さあ、朝食を食べに行きましょう? ルディヴィーが焼いてくれたパンのいい香りがここまで漂っているわ」
誘うように差し出された手のひらに、アクイラもそっと手を乗せた。
その日から、レーヴはアクイラたちをピクニックに誘うようになった。それは彼女のよく入り浸る植物園だったり、遠出した先の高原だったり、食材から現地調達するための山奥だったり。
巻き込まれたにもかかわらず文句ひとつ言わないビーマも、むしろこの機会を楽しんでいるアマニもルディヴィーも一緒に、皆でたくさんの景色を見て、たくさんの美味を味わった。
そうしていつしか、アクイラは悪夢にうなされることがなくなった。
アマニからは顔色がよくなったと言われ、ルディヴィーからはよく食べるようになったと、ビーマからは戦闘訓練での動きが格段に良くなったと言われた。レーヴからは、よく笑うようになったと優しく頭を撫でられた。




