間話 被験体のカルテ
「フランカー殿、もう私たちには手が追えません。どうか、よろしくお願いします」
「もちろんですとも。エッジウッド家の先代様にはご贔屓にしていただきましたから。今後ともよろしくお願いいたします」
「ええ、前金としてこちらを」
「ありがたく。彼の治療に最善を尽くしましょう」
私のもとに訪れた貴族家の男は、一人の少年を置いて去っていった。
「ヴァン君、そんなに怖がらなくていい。今日からここが君の家なんだ」
「先生……僕は……僕は自分が怖いです。もう一人のボクが、日を追うごとに僕を飲み込んでいく。父上も、母上も、妹も、メイドも、みんながもう一人のボクを怖がるんです。僕が悪いわけじゃないのに」
「君の“それ”はある種の病だ。私と一緒に治療していこう。治ればまた、君が家族と過ごせる日も近いさ」
被験体
ヴァン・エッジウッド
魔法
爪刃魔法
病名
双貌乖離症
記録
エッジウッド家の長男である被験体は、すでに三度の殺人を起こしている。
第一の殺人は、従者との口論の果てに起こる。
魔法を発動させた彼は、従者の背後から斬りつけた。
この事件は当主によって隠蔽される。当主は息子の異常な力を恐れ、彼を館の奥深くに隔離することを決断した。
第二の殺人は、両親の留守中に起こる。
両親の留守中、被験体は鍵のかかった部屋を抜け出すと、妹の部屋へと向かう。
机に向かい勉強していた妹を、背後から一閃。抵抗の暇もなく即死。
従者が駆けつけた時、被験体は返り血を浴び、虚ろな瞳で死体の前に座り込んでいた。
当主は再び事件を隠蔽し、今度は地下に監禁。密かに医師を呼び、治療を命じた。
第三の殺人は、計画的に行われる。
厳重な監禁下、被験体は担当医を言葉巧みに利用し、少しずつ信用を得ていく。
やがて自身の中に"もう一人のボク"がいると語り始めた。
当初、疑いを持っていた医師も次第に被験体に同情し、双貌乖離症 の診断を下す。
ある日、治療のために扉が開かれた瞬間、被験体は迷いなく脱走した。
屋敷に戻ると、次々に女性の従者たちを襲い、最後に母親を殺害する。
目的を果たすと、彼は静かに地下へ戻り、抵抗することなく再び監禁された。
この事件以降、彼は"もう一人のボク"を語る人格を完全に使いこなす。
最早、当主の手には負えなかった。
そして、彼は私のもとへと送られた。
「先生……僕は意識を手放したら、もう一人のボクが飲み込んできそうで眠れないんです。一度外を歩いてきてもいいですか?」
「もちろんだよ。でも、あまり遅くならないように。それと、君が欲しがっていた仮面を用意したんだ。これなら、夜じゃなく、霧の間も出歩けるだろう?」
「僕なんかのために……ありがとうございます」
「ここは君の家なんだ。好きなようにしなさい」
「ボクのことを分かってくれるのは先生だけだ」
被験体は、欲望のまま霧の街を出歩くようになった。
彼がこの街の霧に溶け込むのも、時間の問題だろう。
*****
「ゼノン様、おそらくこれが霧裂きヴェイルの正体だと思われます」
「ああ。やはり、エッジウッド家の関係者だったか」
ゼノンは部下と共に、施設に隠されていた記録を解読していた。
何十年も前に書かれた記録であり、筆跡もかなり古いが、辛うじて読み取れる。
「ここに担当医のフランカーとは一体誰でしょうか? 捕まえている関係者にそのような者はいなかったはずです」
「……その名前には聞き覚えがある。確か、10年前に国の重要指名手配となった貴族の名前だ。この国を挙げても、まだ捕まえることができていない」
「そ、そんな人間が存在するんですね」
ゼノンの話を聞き、部下は信じられないと言葉に詰まる。
「さらに先を読んでみよう」
「はい」
「……これは」
ゼノンは神妙な表情で記録の続きを読み進めると、気になる文章を見つけた。
被験体は魔器移植手術初の成功例となる。
第二の魔法が発現し、その魔法にも成長が見られた。
一方で、言語能力が低下し、偽りの症状にも異変が生じ始めた。
彼は魔法と共に、真に新たな人格を手に入れたのだ。
「どういう意味でしょうか?」
「……分からないが、魔器移植手術というのは、人道に反する危険な手術なのだろう。この記録の内容は他言無用だ。私は君を信じている」
「はっ!」
普段、穏やかなゼノンからは想像もつかないような、凄味を感じさせる表情を見た部下は、思わず身を引き締めて返事をする。
部下は部屋から立ち去り、ゼノンは一人で記録と向き合う。
二度目の魔器移植手術は失敗に終わった。
だが、被験体の犠牲は無駄にはならないだろう。
彼から分かったことは、魔法とは……
記録用紙はここで破れており、これ以上は解読できそうになかった。
「ノウス・フランカー……危険すぎる」
ゼノンのつぶやきを聞く者は一人もいなかった。
*****
「先生! 私ね、演奏隊に入りたいの! それでね、私が棒をふって、みんながそれに合わせて綺麗な音を奏でるの!」
「それは素晴らしい夢だ。アリアは指揮者になりたいんだね。なら、私が君に合う楽器を作ってあげよう」
「やったー! 先生大好き!」
被験体
アリア
魔法
屍奏魔法
病名
魔脳変異症
記録
被験体との出会いは、私が墓場で実験材料を収集していた時のことだ。
物音がするので確かめると、彼女は、魔法で子供の遺体を動かし、遊んでいた。
親に捨てられ、孤児だった彼女は、すでに魔脳変異症を発症していたのだ。
魔器が脳に作用し、魔法を使うことによって快楽物質が全身をめぐるこの病気は、現在でも治療法が見つかっていない難病の一種だ。
我慢できずに魔法を使用してしまう彼女にとって、私が与えられるのは実験の失敗作だけだった。
だが、それを最大限に活かせる彼女の魔法は、私にとっても興味深いものであった。
……………
…………
………
叶うことなら、もう一度、アリア君と実験をしてみたいものだ。
「……こんなところか」
男は、記録を書き終えると、それを読み返す。
「想定よりもひと月程早かったな。イレギュラーは付きものだが、素材集めにしくじるとは……。アリア君には申し訳ないことをした」
男は反省を口にする。
「森人から盗んだ資源もなくなってしまったか。まあ、また集めに行けばいい。神火持ちの居場所も掴むことができたことだ。おや? そろそろ彼の来る時間だな」
男は、記録を大事に保管し、客を出迎える準備を始めた。