雑文9 そんなものはない
もっと対話っぽく、ダブルスタンダードを織り交ぜたりして、会話させてみようとした。
春めくという言葉が、単にその文字だけが浮遊して、何も指し示すものがなくなった、あるいはもう感じられぬようになって、どのくらい経っただろう。通学路のなかほど、葉桜を眺めながら、半ばゆだった頭で思案に余っていた。
路面はつよい反照のせいで白ばむようにまぶしい。そうすると、どうしても瞼が伏せがちになる。視野はあたかも霞んだようで、動いている脚と振っている手に気をとめることはない。そうして、意識は鋭敏に頭の中だけに収斂していくから、暑いことも忘れてしまう。ただ、それでも映る景色は頭に入って、残る。物思いの類いはこの順序のもと浮沈を繰り返す。
昇降口に入って、教室までの道中というのは極めて機械的に、いかなる感情も挟まずに行われる。「039」と番号を合わせてロックを外し、外履きから上履きに替える。そして、細かな雑音と共に階段をのぼる。同じ階、同じ席に、荷物を載せてから座る。中を開けて教科書類を整理し、今日読む本を取り出して、一息つく。机の表面は、未だにおとといの雨を湿りを残していた。私はまだ収斂した頭の中にいたため、机に、「どうしてこんなに未練がましいやつなんだろう」と、心で詰った。
担任が少々くたびれた様子で、しかし最大限の取り繕いをもって、入室してきた。いつものように教室の騒がしさは増していたが、気にならなかった。しばらく窓辺の葉桜の梢を眺めてぼんやりしていると、チャイムが鳴る。周囲は静まり、滔々と小慣れた調子の朝礼を聞き流して、あの頭はこんなことを考え始めた(そういえば、朝礼と凋零が同じ音という事実は、若い冷笑家を喜ばせ、弄言の糧になるだろう)。
あらゆる事において、上昇することは良いことのように感じる。例えば、和音において同じ根音の長三和音から増三和音に移り変わると、眉を顰めるような心地に、官能が快いと言う。実際に増三和音は英語でオーグメントというのだから、何か類似を感じてしまう。だが、あの昂揚はそのままにしておくことができない。解決をしなければ、その音で止めてしまうと、昂揚は非常にむず痒いものになる。
思うと、この例示から常識的にこう言えるだろう。着地を望めない飛躍を敢行する者は、狂人に他ならない、と。
頭の中のままごと遊びに耽楽していると、塵劫のように感じられる退屈な朝礼は、刹那のものとなる。一時間目を前にして、私の頭は鴻毛を得、軽やかさを極めていた。収斂は何も在らぬところに向けられている。
「なあ、君、さっきから妄想が漏れ出ているよ。そこら辺の岩を好き勝手に切り出して、壁紙を貼り、絵を描いて楽しんだって、例示なんて、はなから偏ってるんだから。まあ、さっさと教科書準備して、次の時間移動だぞ?」教室の電気を消して、淡々と言う。
私は不服だったが、黙って従った。廊下を歩く間、腕に教科書の重みがよく伝わった。私は、もう隠す気もなく聞いた。彼の意識を引き摺り出すのだ。
「ねえ、成功してから、側からみると軌道にのって尊敬も名誉も、それと嫉妬すらも手に入れたように見えるのに、辛くなって死にたいなんて言う人は、どうしてそんなことを言うと思う?」
子供っぽい調子で言ったせいか、あからさまに面倒そうな顔をされた。
「さあね、分からないね。俺は成功者じゃない、ただの学生だから」しかし、続ける。
「まあ、そういう成功する人ってのは、何かしら独特の世界観というか、倫理観があるんだろう」
私は彼からもっと言葉を引き出そうと思った。それは彼の望まぬことだとしても、構わなかった。
「独特の世界観・倫理観って、どんなものなの。そんなものあるのかな、ただの偶然じゃなくて?」
彼はまだ煙に巻いたようにする。
「まあ、偶然かもな。自分だけのものだから、何だっていいはずなんだけどな」
移動教室の行程が長くて良かった。この校舎の無駄な広さに、今だけは感謝できる。
「ねえ、その倫理観ってどんなもの?」
彼は明らかに答えをためらうようだった。深まるようなことを言いたくないのだろう。
「まあ、甘えたくない気持ちだな。自分のなかにかっちりした、頑強な筋が自律してねえと、気持ち悪いんだろう」
私は、その自律した筋なるものが、存在しているとは到底思えず、単なる認識の一個に過ぎないとしたが、拭えない浮遊感を伴った居心地の悪さを自分に感じた。それゆえに、正当性に少しでも身を寄せたいと願い、抵抗するのだ。それは頭での理解を拒絶する類のものだった。
「……そんなの、あるのかな。自律してるか、してないかなんて、自分にしか分からないじゃない。それなのに、頑強なの?」
彼の目には僅かに反感の色が映った。
「そう言うもんなんだ。在るとしなけりゃ、本当に際限なく何でも出来ちまう。でも、これはいけないって言うのがあるだろう。例えば、エンタメでもこんな作品は面白くもなんともない、だからこんなものを公開する気にはなれないし、そんなものを作る自分に堪えられない。こういうのは在るだろうし、頑強だ」
私は揚げ足をとることを選んだ。とにかく窮地に陥らせて、感情的にさせて、内奥にある私的なものを取り出そうとしたのだ。
「…エンタメは例示だよね。前に言ったことが残るなら、例示なら、それは偏ってるのでしょう。利益だけを追求してると考えることだってできる。倫理なんて全くないという想定もできる」
彼は少し憤懣気味に言う。
「想定できる、できないつったって関係ない。生理的に受け入れられないんだから、仕方ない。どんな奴でもてめえに適用できねえ理屈や倫理があるんだ。そういうのは肌で受け入れられねえって言ってんだからしょうがない。体が眠いのに、気合いで起きてたらいつかぶっ倒れるのとおんなじだ」そして、思い出したように言う。
「また、例えを出すが、昔の有名なテノールにカルーソーがいるだろう。彼はその暗く金属的な声の美しさを持っているが、後世の分析を一瞥すれば、その独学と訓練の方法は非生理的な面が沢山あった。それでもその歌声は美しい。俺の言ってるのは精神の話じゃない、まあ相手に対して論を投げつけるのは、精神の制御がなければ、生理的には何の抵抗もないがな」
私は卑怯にも、また問いを仕掛けていく。
「…成功者は、本人が生理的に受け入れられない倫理を持っているから、成功したとは言えないの?」
彼は的確に躱した様子で答えた。
「…君の想定する成功者は、少なくともそんなことはしないね。つまり、てめえの成功が軌道にのったのに、死にてえなんて喚く奴なんだからな。そう言うのは、生理的に受け入れられて、精神的には反撥する倫理観を持ってるんだ。たとえば、豚になるは誰だって嫌だ。汚らわしく、堕落したように見えるからな。でも、人ならば、いや人を超えた者なら満足できるかもしれないと、どんどん私的な制約が肥大する。こう言うのは、精神じゃなくて、生理的に受け入れられないものが多いからそうなってんだ。精神なんてちょっと考えれば受け入れてくれる。豚と人とそれを超えた者なんて、そもそもいるわけがねえってな」
私は、踏み込んだように聞く。
「…じゃあ、自分自身は、ただの人で満足したくないって思う?」すると即答される。
「いやあ、勘弁してくれ。俺は豚でいいんだ。そして、実際に俺は豚だ。人を超えた人なんて、そんなものはないよ。だいたい、知識と思想如きで人を超えられるなんて想定が、可笑しなもんだね。そんな連中は、まあ邪推だろうが構わんが、大抵てめえが勝手にでっち上げた、よく分からない理念か何かを標榜してるんだ。それだけなら、まだいい。自己意識が高いってだけで済むからな。でも、そいつを説教しちまうから具合が悪い。それでいて、てめえが演説されるのは嫌うからな。そんなんだったら、豚のままでいいんだよ。そもそも、人を超えたいなんて人前で言う奴なんか、信用できるかよ。隠してこそ一丁前ってもんだろ?」
私は、彼の中に二重の前提があるように感じられた。それは極めて怯懦な一面が彼にあるからだと、一人合点した。
「それと、嘘つきは悪かねぇんだ。議論なんてのは嘘つきのするもんだからな。虚言なんて多少頭がねぇと、いくら並べてもバレちまう。堂々と胸張って、完璧な嘘をついてみたいねえ」彼はそこで少し勢いが落ちてきてしまった。階段を登り切って、移動ももう直ぐ終わる。
「それなら………まあ、こんな議論しなくても済むんだろうよ」
彼は一挙に落胆したようだ。私は、彼がそうなった原因を直観することが出来た。しかし私自身は、その隘路から逃れることができているように思えて、何か言いしれぬ快感に魅了されていた。いや、彼を論を持って昏倒させたような気分になって、嬉しかったのだ。
「はぁ、俺もこうやって口車に乗せられて、馬鹿みたいに捲し立てるんだから、駄目なんだよな。油断してんだよ。そうすりゃ………いや、まあ要するに甘えちまってんだ。君は、そんなことしたって、全く知らん顔だろうが。おい、死にてえなあ。何もねえよ」
そう言うと舌打ちして、理科室に入った。一時間目から私は楽しく授業を受けられた。
なぜ場所の設定を学校にしたのだろうか。よく分からない。多分、散歩している時に学校の前を通りかかったためだろう。