雑文8 ここの音、いつかの音
瞬発力を持ってして、澱みなく書くことを意識した。つまり、試行錯誤したものがない。それ故に、透明感のあるぼんやりした作品になる。
昨日は早く眠りに落ちて、夜明け前に目覚めた。うつ伏せに寝ていた。皆が休日の人であるはずもなく、ただ気怠さの不在に安堵しながら、名前も知らない誰かを憐れんだ。もう少しだけ暗いままで居たかったが、部屋のカレンダーがゆっくり読めるようになってきた。ベランダが目の前で、カーテンを閉めても、ほのかな光は否応なしに差し込んでくる。
家の、玄関のドアが開いた。横開きで最近重たくなっているが、響かせる音は深く低いまま。唯一の同居人である兄が出ていった。彼が何をしているのか、漠然としか知らない。
電気自動車が窓辺を、左から右に、足先から頭のはるか向こうに、静かでどこか軽薄で、洒落た音をもらしながら通った。
遠くで鉄道が線路を通過するのが聞こえる。それに混じって、ジェット機の騒々しいエンジン音が空気を伝って、確かに弱々しくなり、まるで雷の遠鳴りのような不穏な音になったものも、届いた。むしろ、そちらがより聞こえる。
息を大きく吸い込んで、鼻がなり、胸が膨らむ。まだ薄暗い早朝で、脚を動かすと、かすかに衣擦れして、布団を蹴飛ばす。太ももが冷気に触れて、程なくして自身の温もりの残る下に戻す。先ほどから、飛行機の古聲は、決して同一ではないのに、余響。しかも、均等に飛び立って鳴いているのだろうと、想像できる。
烏が声を発した。飛び急ぎながらか、又は電柱の上に凝立したままか。ただ、その濡羽色の全身のうち、頭部だけを唐突に動かして、何を見たのだろうか。
鵯の声が次いで出た。一匹鳴けば、立て続けに数匹が答えて、途端に賑やかになる。空気が澄んでいるのか、よく通る。
付近に駐車していた軽トラックにエンジンがかかった。ため息のような一息ついて、寝屋から起き上がったみたいだ。不愉快な喉に咳払いして、発車する。
夜明け前までは、静まり返っていたというのに、のっそり目覚めて活動を始める。それだのに、未だ空は薄暗いまま。
当然だが、家には誰もいない。朝の細やかな生活だけが、外から聞こえる。足先が冷えて、布団の中に戻して、足裏で脹脛に触れた。ため息を吐いたように車が過ぎる。温もりは自分自身のものと、床暖房によるものだ。床に広げたままのノートには、黒鉛でできたアイデアと意匠が散りばめられている。改めて、夜は怖いものと知る。この宝石の輝きは一夜しか続かず、しかし毎晩磨き上げてしまうものだ。ただ、珍しく上体を反らせて肘で支え、たった一度兄にだけ見せたことのある、作家気取りの自意識を起こして、筆を執った。
『死と生の狭間。生を潰した時、合理の世界は耐えられずに崩壊した。その時、人間がようやく立ち上がった。緊迫した生死の間隙、合理は完全に人間の下に戻る。』
講釈とも構想ともつかないものを、先んじて書いていた。もう満足感を得て、再び寝転ぶと、インターホンがなった。宅配便で、買った本が届いた。紙袋を開けると、ハードカバーが出てくる。なんの気の迷いか、そんな知識など持っていないのに、衝動に逆らわず購入し、しかも内容は経済学である。
表紙にはカール・ポランニーと、立派な著者の名があった。頁を適当に捲ると、抽象的で馴染みのない文章が広がっていた。そっと閉じて、本棚の下段に丁寧に置いた。硬いヒールの音を鳴らして、誰が足速に歩いていった。その性急さに触発されて言葉を編み出す。
『スペイン風の少し下卑たフェリーに乗った。右手の窓の席に座って、眺めていた。
海の綾は死である。死がこちらに迫る。フェリーは白波を蹴立てて、迫る波を覆う。
海の綾に日光の煌めき。煌めきは生である。日照の角度が直角になるにつれ、生の輝きは増す。
白き小虫は窓の奥に貼り付いて、戯れる。この姿は、生き延びることの本質であり、幾度と焼き直された智慧だが、皆遊ぶ。
フェリーは舵を切って、煌めきを押しつぶした。船首の方からコマ送りのような煌めきの血潮が噴き出た。
フェリーのエンジンは停止した、英虞湾の只中で。誰の支えもなく、漂う。
空調、電灯も止まり、愉快な音楽も消えた。夏の残り香を受けて船内は、蒸す。
黒き小虫は窓に遊ぶ。しかし、船員達は縄を手繰り、流れる船を制御する。
別の小船がやって来て引き綱を繋ぐ。これで、流される事は防げる。
桃色の船が横付けしてきた。この矮小な船に乗り移るらしい。
この時間の、なんと慌ただしいことだろうか。景色を眺めるより、故障に例外に瀕した人の働くところ、緊張した場所こそ、質の良い体験。』
旅行の思い出を題材した、お土産文章ができていた。しかし、完成度は低く思えた。夜中に灼ける頭の、熾火に熱された鉄のように真赤な思考で、書き殴ってしまった方が、よっぽど良い。
戸が開き、兄の帰って来た音に、驚いた。部屋の扉が乱暴に蹴破られた。兄は妹である私の頬を引っ叩き、お前で飯を買ってこいと、怒鳴った。ノートは咄嗟に隠されており、列車の轟音は空疎になりゆくほど、素早く微かになり、朝の堪輿に吸い込まれていった。
次は、文体をいつも以上に硬質にしたものを書くつもり。文章を書く練習をしていて、多少なりとも言葉に敏感になっただろうか。カール・ポランニーは書いている最中にたまたま目に入ったため、ねじ込まれた。