雑文6 “観念”なる遊戯
美しい観念は大体において、痩せこけた身体をしている。ならば、その身体は徹底して破壊しなければならない。観念は美しいものしか所望しないのだから。
我らはどこで歩くかを決めかねていた。神保町から靖国通りを西に向かってずっと歩き続ける。我らは歩くのが速い。そして、どこか広い公園に向かって歩いている。そこでベンチに座って、庭園を眺める様を想像する。そこは閑散としていて、ただ草木がいるだけだと、夏の庭はきっと静かだろうと一縷の望みを抱く。
我らは歩きながら、会話をしていた。車の忙しない往来とその騒音の中、一文字でも周りに聴かれまいと、つとめて密やかだった。
F「僕らの話題はどこまでも観念的なんだ。だから、他人の耳に触れるなんてことは決してあっちゃ駄目なんだ。まるで凶器を腹に呑んでいるかのように緊迫していなければ駄目なんだ」
E「披瀝というのが、どんなに醜いかを僕はよく理解しているから、その点は賛成できる。それは恰も病的な子供の自慢であるから。しかし、僕らは現に歩いているじゃないか。僕らの歩くこの行動は、密談とは違い、意識の上から離れていて、コンクリートを踏みつけ前進している。しかも他人の目に触れている。もし君が披瀝を徹底して嫌悪するなら、頭で歩いて見せて欲しい」
F「ああ、確かに、歩く姿は常に曝け出されている。だけれど、君は混同している。他人が見ているのは単なる僕らの姿なんだ。そこには僕らの観念にまつわる事柄は何もない。二人組の歩行者であり、平均的にしか映らない。もし多少観念的な者が僕らを見たところで、愚にもつかぬ無頼の徒、又は未熟で透明な不能者と認めるだけだろう。しかし発話はそうじゃない。ただの空気の振動であるが、異常に人を躓かせる。そこにおいて、通りすがりの会話ほど暴力的なものはないと断言したい。都市的であるということは、無臭で無味乾燥としており、大衆としてよく溶解することだろう。濁った溶液など語義矛盾に他ならない」
F「確かに、伊達者のお喋りな風体を除いて、容姿は語ることはしない。だけれど、僕らは一つ制約をつけている。それは早歩きだ。つまり、この一点で僕らは姿に観念を纏わせているじゃないか。そして、ある他人が、僕らの観念に蝕まれた行動を見て、そこに不純さを感じ取り、躓く乃至立ち止まるのはあり得ないことではない。僕らの信仰心にも似た空漠たる意志が、驟雨に煙る都市の空気に漏れ出て、灰色に滲んでしまうことは、十分にあり得るじゃないか」
E「だとするなら、僕らの観念が秘仏として在ることは望めない。しかし、他人が真に僕らの肉体に対し、アスファルトの臭みを感じているか否かは、僕らに秘匿されているんだ。つまり、可能性の只中にしか懸念すべき他人は存在しない。そうじゃないのか?」
F「確かにそうかもしれない。もしそうなら、僕らは観念がただ観念としてあることを確信することがいつまでもできないじゃないか」
E「それは、疑っているからだろう?つまり、他者なんぞ、はなから僕らの観念に一瞥もくれないだろうと決めてかかればいいじゃないか。そうならば、たとえ大仰に告白したところで、その定義さえあれば、もはや歯牙にもかけなくて済むだろう?」
F「いや、それは既に賭けの場へ、一っ飛びしている。その否定性において他者を矮小化するのは、僕らの観念が穢れているからこそ美しいなどと宣う土民の観念だ。もっとも、プリミティブな存在こそ、素朴で実直な論理を築けるから美しいと感じるのは否定しない。しかし、僕らは観念人であることを忘れてはならない。不躾に境界を越える蛮勇は、奇形児の量産に堕するだろう。美しい現実も、美しい観念も、白金の如く純真だからこそ的皪たるのだ」
E「そこまで純粋を欲するのは何故なんだ」
F「それが僕らの信念であり、たった一つの心の緒だろう?むしろ、何故そんなに訝しむのか」
E「それは、しかし、その白金は果たして真に白金と信じ得るのか?もしそれが水銀だったならばどうするのだ?それは悲劇だ。僕らは奔星に見紛うほど真っ逆さまに落ちてしまい、その狂奔も徒労に終わってしまうだろう。つまり、用心に如くは無しということだ」
九段下駅を通過し、靖国神社の前に来た。参拝はしない。ただ、境内を一瞥するのみである。しかし、我らに省察の話題を与えた。
F「僕らの観念はいかに育ったのだろうか」
E「やはり、僕らは観念にとどまり続けることはできないだろう。あの神社を見ずとも、歴史や過去に後ろ髪を引かれる。そして、日常の静物が想起できるんだ。とうにへこたれたスポンジがまだある台所。黒子のような黒カビがまた生えつつある風呂場。幾つかの未読の本とコンピュータが占拠し続けている机。若干の埃を載せたままいつまでも吊るされているカレンダー。物が僕を観念から引き剥がすんだ」
F「それは、断捨離が足りないだけではないのか?拘りならばどうすることもできないが、観念を排斥する静物などは……」
E「肉体というものもそうだ。その筋肉や個々の細胞が僕を離さない。僕は絶対に心臓の鼓動を遮断することができない。それ故か、如何してか、僕は血の巡りを考えると立ちくらみがするんだ。気分が悪くなり七転八倒する。何か恐ろしい気がしてならない。だから、そこから離れたいのに、八方塞がりだ。転がっても跳ねても泣いても、目を瞑っていても詮無くて、とにかく度し難い」
F「そんなディレンマがあるのかね。物を眺めるから狂うんじゃなかろうか。僕らのような人間は眺める時に必ず分解したがるだろう?それがいいか悪いかは置いといてだな。そういうものの悪影響に過ぎないんじゃないか?それよりももっと、観念を研ぎ澄ませて、僕らの会話を更に深めることを……」
F「いや、きっとデカルト的なるものから離脱できてないんだな。どこかしらで理解しているし、どこかしらで何か、人工衛星から自己を見下ろしているんだ。鷹揚に映れば幸福だが、そんな人間には一瞥もくれないだろう」
E「しかし、もし仮に他人の視界に、その観念から離脱した人間がいて、そして僕らのような謂わば観念人の両者がいたとして、それらは畢竟、同価の存在として黙殺されるだろう?」
E「それに、デカルト的と言ったが、僕はデカルトはそんな好きじゃないしまともに読んだこともないけれど、少なくとも僕の煩悶は観念と肉体とに分けられないものだったと自負しているよ」
F「なんだかリズムが崩れたように感じる。まるで冬の寒い朝に換気した時のようだ。異質で乾燥していて不愉快な空気が入ってきて、気持ちが悪いあの時みたい……元に戻そう。良い換気をしよう」
E「今は夏だぞ?そんな比喩いうかね。強烈な照り返しと、油蝉のかしましく鳴り響くこの場所で、そんな比喩出てくるのか」
F「何をいうか。僕らの観念は風見鶏ではないんだ。歩き続けて猛暑に茹でられ、汗ばんで不快に足を掛けられたとしても、僕らの観念だけは至って清麗潔白であろうとしなければならないだろう」
E「暑いからこそ、そうありたいと願うのではないか?むしろ、肉体がなければ何も望むべくもないだろう」
F「しかし、観念は、観念であらねばならない。君は無意識的にデカルト批判に落ち込んでいるだけだ。何も僕らの会話までも、そうしなければならないわけではない」
E「なるほど、そうならば、この論議は冷ややかに社交辞令と美辞麗句に堕してしまうのではあるまいか。つまり、僕らの観念は純白で真摯ならねばならない。しかし、ここで諦念してしまえば、僕らの会話は、無の戯れにより否定性の御上に供する饗膳に他ならないだろう」
F「ならば、どうするのだ。内奥に煌めく観念で交際するのが僕らの約束だろう?しかし今、後戸に秘めたる観念そのものが、外界へと、汚濁と時化に満ちた海へ、しかも全ての観念が繰り出そうとしている」
E「ただ、祈る事しかできない。僕にはそれ以外、何も思い浮かばない」
F「祈っては、駄目だ。観念を守るには何かしらの行動をしなければ……もはや観念を僕らの縦にするのは不可能だ」
もう昼過ぎだが、市ヶ谷までたどり着いた。駅と濠の上に架かる橋を渡る。総武線の電車が丁度止まっており、市ヶ谷橋に入る所で発車していった。濠の中には真緑の水が満たしており、背の高いビルをいくつか逆立ちさせていた。桜の木の葉がいつもより淡く霞んで見えた。
F「おい、休むか。まだかかるだろうから」
E「いや、大丈夫だ。むしろ、足を止めない方がいい。それと提案なんだが、何か音楽を聴かないか」
F「何を聴きたいんだ」
E「シャンソンが聴きたい。とにかく落ち着きたいんだ。長距離且つ長時間運動したからな、脈拍の伝播が酷くわかって、気持ち悪いんだ。だから、落ち着きたい。そうだ、あれを聴かせてくれ。リュシエンヌ・ボワイエの『Parlez-moi D’amour』だ。あれを聴きたい 」
F「シャンソンを選んだ割には有名なものを選んだな。しかし、この曲では雑踏にかき消されてしまはないか。まあ、イアホンで解決することだが…」
E「…ああ結局は、文明に頼ってしまうのだな。僕らはどうしてこんなに不誠実なんだろうか。唯一の素直さを携えて、単純で、一つの瑕疵もない醇乎たる円環に飛び込んだかと思えば、それは忽ち霧散霧消し、数多もの亀裂と陥穽だけが残り、赤恥の記憶を引き摺っていく。それに対して僕らは反応する。これが経験であり寧ろ誠実なんだと居直るか、素直さが翻って忿懣又は冷笑するか、或いは内憤を延々と溜め込んで発狂か圧死かのいづれかの途を辿る。或いは……自分の体に帰って祈り続けるか。どちらにせよ、僕らは何かを出力する。ああ、悩ましい。この悩ましさを抱え続けて、煩いながら生きるのが誠直なのか。現実に身を投げて、まさしく倦怠のうちに死を夢みながら、不条理な死が救済であるかに錯覚して、摩耗していくのが、健全なのか………。ただ、ところで、君はこの曲に対して有名などと放言したな。そこには一つ反論を加えたいのだが、この曲は僕らの間では丸々、観念であろう。いや少なくとも、そう信じていたい。観念ならば知名度など取るに足らないだろう。それに加え、文明即ち現実からの侵蝕を我慢して看過したのだ。なぜなら、所詮文明がなければ観念に耽溺することができないから!だからそこに、この曲が人口に膾炙しているなど、そのような事をどうか持ち込まないでくれ」
F「観念に直通である音楽にくだらない概念を持ち出したことは謝る。しかし、君の心情については、そんな心配は一笑に付してしまえ。文明は文化がなければつまらぬ廃屋に過ぎないことは、黄金律だ」
E「だけれど、腑に落ちないんだ」
F「そうか。それで、聴くのか、聴かないのか」
E「聴くさ、心持ち楽になるから」
しばらく歩くと、駐屯地の前を通った。ここからではケヤキやスギと思しき広葉樹と針葉樹に阻まれて中は覗けないが、あるらしい。
F「市ヶ谷駐屯地か」
E「なあ、君はまだ、僕らの観念がただのゼロではないことを信仰しているか」
F「疑念がないとは、言えない。観念の前では邪でいられないから、そう言う他ない」
E「しかし、そうならば矛盾していないか」
F「そうだな。もし疑惑が正しければ、観念は正ではなく邪となる」
E「観念が僕らに与えた態度と、それ自身の態度が異なるのだからな」
F「僕らには、これ以上擁護をする手立てがない。そんな気がしてならない。五体満足で極めて健やかな観念など、幻想だったのだろうか。過剰な期待と妄念が生み出した、悶々とした自意識から逃れるための、名も顔もなき化物。それがこの散歩でここまで肥え太ってしまったのではないか」
E「もはや否定できまい。僕らと観念との細やかな連関は、乱れ緒となってしまった。纏綿たる恩寵は失せ、しめやかな寂寥感だけが消えないでいる。そうなれば、やはり、祈りしか残されてないだろう。祈りならば、この先に待ち受ける数々の大時化に耐え得る生命力を授けてくれよう。つまり、僕らは貧相で泥舟にも似た一艘の漁船にのっている。仄かな漁火と作業のための弱々しい電灯をもち、これを頼りに暗夜を航海していく。当然、誰も曳航してはくれない。一見、絶望しかないが、祈望は釈迦の如き垂教をしてくれる。それはつまり、ただ海面においては時化ることも凪ぐこともあるが、その深海では常に静謐であるという教えだ。これさえあれば、均衡と共に生きることができるはずだ。たとえ全身が大波にさらわれ、船が転覆したとしても、宿命として甘受できるだろう」
F「いや、それはだめだ。それは祈祷という仮面を被った青ざめた守銭奴、安楽椅子に少しでも長くへばり付いていたい醜悪な存在だ。必ずや祈りは、腥い現実に堕し、倒錯的な目的に飛びつき、神経質な技巧に走り、浅陋な熱狂に踊り、挙げ句の果てには蹌踉めきながら零落して、不躾で不愉快な肯定感を手を合わせながら貪るだけだ。こんなに卑しい者があるか!悪しきものは徹底して浚わねばならぬ。溝川の底が美しき静謐であるはずがないだろう!その水は汚物で飽和し切っており、常に疲労感と熱病感とにおおわれているのだ」
E「そこまで言うならば、君は一体、矛盾にいかなる手立てを考えたのかね。君はどうやって観念の正邪曲直を正すつもりなのかね」
F「最後まで付き従うのさ。相手は観念だから殉教とも殉難言えないが、とにかく殉ずるんだよ」
E「ああ!君はあの駐屯地で彼に憑かれたというのか」
足先に疲れを感じてきたが、曙橋駅を通過した。二人はどこに行くのかがわかっていた。以心伝心というか、このまま新宿に入ればそこにしか行きようがないと思っていたのだ。残念なことに体力の問題もあり、庭を眺るならばあそこが丁度良いと思ったのだ。
F「なあ、また歌を聴かないか」
E「君が歌えばいいじゃないか。わざわざ聴かなくとも…」
F「それは出来ないな。僕は音楽には、まるで不能者なんだ。濁声で、すぐに裏返ってまともに歌えないよ。音を碌に聴いてこなかったせいだね」
E「そうか。つまり、君は僕より観念に纏い付かれているんだな。そこに骨を埋めたくなるくらいには」
F「僕がちょっと保守的なだけだ。この故郷を愛していて、執着しているんだ」
E「ちょっとかい?だいぶ偏していると思うけれど。それで、何を聴くんだ」
F「あの歌、『薔薇のルムバ』を聴きたい」
E「人のことを言えないが、それも古い曲だろう」
F「古い音楽には多少ノイズがあるだろう?あれがいいんだ。最近の音楽もクリーンで豪華で力強く届くが、ノイズ混じりだと、まるで音楽と官能の間にどんなに頑張っても通過できない透明な膜みたいなものを感じて、切なくてたまらないんだ」
E「なんだか、君はマゾヒススティックだな」
F「なら、君はここまでマゾヒスティックになれるか」
E「なれるさ。僕も似たようなことを思っていたからね」
今まで渡り続けてきた通りを曲がって、新宿三丁目駅まで辿り着いた。そして、新宿御苑へと歩き始める。ここに来て疲労は程よい快感に変していた。二人には初めてのことであった、このような肉体から慰められるような感覚は。
E「脈拍が心地いいと思えるなんて……不思議だ。ただただ不思議だ。今まで疎外され続けてきた肉体に、初めて受け入れられたみたいだ」
F「君は痩せ過ぎなんだ。僕はエスパーじゃないけれど、君の体が服の上からも蒼っ白く見えるよ。これじゃあ裏返しの衣通姫だ。心中を阻害する者は一人もいない」
E「衣裳を裏返せばただの裸さ。皮膚は光らないよ」
F「ならば、尚更君は不健康から逃れられないね」
E「でも、ここまで歩いたんだから、多少丈夫になっただろう」
F「まあ、観念なんかに囚われているようじゃ、僕も同じ穴の狢だろうな」
E「気が合ったのもそのせいだ。同じ極の磁石みたく反発しないで済んでよかったよ」
F「同じ観念を共有しているんだ。当然のことだよ。唐突だけれど、もう、庭などどうでもいいと思えてきたな」
E「僕もそうだな。一番観念に近い静かなところで休まりたくて歩いてきたが、まさかこんなところに逢着するなんて夢想だにしなかったな」
F「理由はわからないが、不思議と清々しい。心の底からそう思える。だけれど、身体は浮き足立っている。観念との心の緒が完全に断絶したとは思えないくらいだ。こんなに暑いのにまるで秋晴れだ」
E「そうだな。本当にそうだ。一つ反論じゃないけど、唯一言えることは、そろそろ日が傾いて、そうしたら暑さも若干落ち着くだろう、ということだけだな。反論にもなってないが」
F「そうか、なら急いだほうがいいな、あそこは閉まるのが早いんだ」
ほどなくして、二人は新宿御苑に到着した。入園料は二人にとって割高と思われるものだったが、払うことを躊躇わなかった。二人は新宿門からゲートをくぐった。
E「こっちの入口はだいぶ開けているな。千駄ヶ谷の方とは大違いだ」
F「さて、庭はどこだ」
E「看板に、日本庭園と書いてあるぞ。少し歩くが、そこまで遠くはない」
F「早く行こう。雲が出て、日が傾いてきた」
E「あっちの鬱蒼としたところの先か」
木々によって空は覆われており、隙間から曇り空が広がっているのが分かる。観光客の多い道を歩き、広場や池を眺めながら苑内の日本庭園に向かった。
石垣のある通路を歩いて、こぢんまりとした楼閣を過ぎ、しだいにひらけた。芝生が広がっており、草叢は丸く整えられていた。赤松が点在しており、銀杏や紅葉が林立していた。とうに花を散らした桜と梅は葉が色づいていた。全体として深緑に濃く染まっていた。
道なりに進むと、池が現れた。狭く短い橋に繋がれた先に、東屋が草に隠れながら覗いていた。次いで高層ビルが目に入り、風情に満ち満ちた東屋と池の空間を横目に通っていった。人は多くはないが、観光客の往来が目立った。どうやら奥にも池があるらしい。広々としたアーチ状の小さな柵に縁取られたような道を歩き続けると、再び池があり、その水面に美しく映じていたのは枝垂れ桜であった。二人は今にも水に触れてしまいそうなほど垂れた何処か憂い顔の木を黙して眺めていた。いや、二人には入水してしまいそうとも感じられたかもしれない。
そのまま進み続けて、最奥の池に辿り着いた。この庭園の中で最も大きい池で、鯉が泳いでいた。二人はその池水を僅かに小高いところにある東屋から注視していた。そこにどうにか静けさを見出そうと半ば躍起になっていた。謂わば、この丘の上の休憩所は、彼らの最後の砦であった。
事のはじまりは、一つの直感──夏の庭はきっと閑散としており、円満と平穏に溢れていて、池は浩然として、豊饒な濃い夏の光を浴びて、いつまでも揺らめいているはずだという──それは妄想であった。つまり、現実は違っていた。駘蕩たる春を過ぎて、長雨に煙る梅雨をこえて、鬯明なる生命のざわめく夏を迎えて、観念と季節の逢瀬の只中で、快暢な人間になるはずが──観念以上であった現実の庭に、まさか隔絶されてしまうとは──擡頭し得ない完璧に想像の埒外だった出来事に、二人は唖然としていた。いや、正しく言えば、救われぬことは予想していたが、ここまで観念が感じないとは思っていなかったのだ。調整された自然であろうが、実際に蠢く生物をみれば何か閃光や直感が来訪し、その感動を認めるざるを得ない状況に追いやられるだろうと、勘案していたのだ。しかし、彼らの営為を感受しても、無であった。それだからか、むしろ驚愕はしてしまった。次第に可笑しい気がしてきた。二人は池の上に架けられた橋を渡る人集りをみて、深くため息をついた。座ったためである。つまり、草臥れた身体が堂々と休み始めたのだ。
二人は内省し始めた。わかっていたはずだ、夏の庭では、けたたましいほどの蝉の声がして、大して長閑ではないことなどは。知っていたはずだ、新宿御苑には観光客が多く、少なくとも物静かではないことは。
青空が出てきて、亭に陽が差し込んだ。右手に見えた紅葉が、緩やかに揺らめく池水の反射を一身に受けて、まるで脈打つかのようだった。
F「もう、満足というか、十分だな」
E「どこにするんだ。地下鉄にするか、千駄ヶ谷駅にするか」
F「いや、新宿駅にしよう。少し歩くが、かまわないか」
E「どこでもいいさ」
F「そうだ。ココアが一つ飲みたい。自動販売機を確認しながら行こう」
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濃厚な丹朱を迸らせ、二人は消えた。後には浅薄なブルーシートがあるだけだった。しかし、そこには確かに、血潮より赤い薔薇が咲き乱れていた。
ここまで妄想したところで、その人は全ての気力が失せてしまった。はなから、彼は誰とも歩いていない。書斎とも寝室ともいえず、居間あるいは台所のような、言葉の与えられぬ場所で、仰向けになっているだけだ。日が昇ろうが沈もうが、変わりはしない(そして、再びプラットフォームに戻ってきた)。
その人は生きることも死ぬことも一切拒絶した。なぜなら、ここはどちらにも値しないから。質も量も消え失せた至極のデタッチメントの形式にて、観念も現実も茫漠たる無期限の留保の只中で、蓋しくも揺蕩っていた。彼らに残されていたはずの祈望の実態は所詮、この程度に過ぎなかった。祈りが効力を持てるのは、中世的で素朴な生活の中にあるときだけである。
論理的には、生と死の両方を拒絶することは不可能である。つまり、この人もどちらかに振れるよりほかないのである。つまり、祈望そのものが、慄然としてしまうほど、観念的すぎるのだ。
その日は熱帯夜だった。乗降場を蛍光灯が冷たく照らしていた。また一つ咲いた薔薇に手を合わせた者は誰一人としていなかった。
観念的主観的抽象的に偏している。