雑文4 愁眉のうぬぼれ
今見返すと、自分は文体を無茶苦茶にしてみたかったのだろう。
糠雨の降る五月の昼間。枯れた向日葵をまえにして、たたずむというか、しおらしく、物憂げに物思いにふける美人画のように、ちょっとばかりパセティックにみせて、所謂お姉さん座りをしていた。
ところどころ、水膨れみたいになって、粉を吹き出しそうな、円い円いちゃぶ台に、頬杖ついて、花の背後、すりガラスの奥、褪せたカラシのようなアパートか何かの壁面を、眺めている。
部屋もしけっている。卓上はぺたぺたしている。不愉快だけど、心地いいとも思える。
二畳半もないほどの、ぼんやり薄暗い部屋で、憂鬱にすましている私は、粋に映じていただろう。
阿呆らしく思えたのか、鼻で笑ってしまった。無意識のうちに出たもので、あまり大きかったから、驚愕してしまう。
こんどは、意識にのぼってなかったものが、にわかにおそいかかり、ヘアゴムに、個室で強すぎる香水をかおったときのような、逃れられない嫌悪が頭をもたげてきた。
堪えられず、うしろの髪留めを、あらっぽく取った。
すぐさま、平静になって、しずんだ。そうやってしずんだら、あれこれと、思い巡らしてしまう。
今思い返してみると、女の子になりたかったんだな、と。よくわかる。
幼稚園の頃は、ままごと遊びに憧れていた。他の子と同じように、人形や道具に役割や設定をあたえて、やりとりを楽しみたかった。ただ単に、興味をそちらにひかれなかっただけであって、特段乗りもの遊びが嫌いで、避けていたのではない。
実際に、ままごとに似たようなこともやったことがある。だけれど、ある時、急激に関心をなくしてしまい、全然つまらなくなってしまうのだ。
悉くお終いにしたいという、欲求に逆らえなかったのだ。ままごとの場所を壊して、関係のない線路や電車も破壊して、傍若無人の限りを尽くしていた。
当たり前だけれど、両方から相手にされなくなっていた。そうして、ひとり遊びに耽溺していく。おもちゃを並べて、たった一人で、何から何まで、自分できめられ、いつでも辞められるし、始められる。無責任だろうと、責められることはない。
糠雨が、変容して、雨音をきかせるようになってきたところで、かえりたい幼児期の、淡く、情けない空想から、我に帰った。
鬱々としている自分は、感傷的で詩的に見えていそうで、そして、そういうのが、いいのだと、本当に感じていた。だけど、心底バカらしく思えてきて、だけど、それだけで済ませるのも、どこか、きまりが悪くて、どうしようもなく、耐え難かった。そんなものは、人形から、言葉遊びに変化しただけで、根っこのところは、なにも、何一つも、変わってないからだ。でもしかし、やっぱり、どう断罪しても、仕方がなかった。
薄暗い部屋の中、すりガラスから差し込む、仄かな、柔らかい光が、枯れた向日葵の背後を、やさしく照らしていた。だけれど、いやそうだからこそ、この子の顔は真っ青で、どんよりとしていて、よほど災難な目にあってきたのだろうと、同情してしまうほど、翳っている。
頬杖をやめ、向日葵を見つめると、もう一度、粋に思えた。
洗面台のへっぽこ娘 青柳の細き眉毛に怨み顔
文章の息遣いというのが、今もまだわかっていない。