雑文3 散歩のお話
文章の訓練として書いたもの。
四月の中頃、河川敷の運動公園の鋪装道路を、年老いた大男と一人の少年が、歩いていく。快晴で麗らかな日が差しており、どこも翳ることなく照っていた。
大男は近くのコーポラスに住んでいる。もう働いておらず、暇つぶしにと少年をつれてよく、ここに来ていた。少年は男の部屋の隣に住んでいる。無口で耳はほとんど聞こえない。そのため彼には友達はおらず、さらには片親のため、かわりに日中は男が面倒をみている。
大男の名は羅夢という。澄んだ黒目をしている。肌は浅黒く、彫りが深く、白鬚を蓄えていた。そのため、近所の悪童どもから「仙人」と呼ばれたことがある。
実際は、そこまでの老年ではなかったのだが、彼は歯牙にもかけなかった。
彼らの右隣を自転車とランナーが、数人追い越した。中年の紳士達。キャップを深くかぶって、袖口から浅黒く引き締まった腕を覗かせている。スポーツウェアをぴたりと張り付かせて、颯爽と走り去っていった。
この道は堤防にそってのびている。
時々、列車が橋を渡る轟音がきこえた。しかし、それがやめば全くの静閑だった。汗の滲み出る音にすら耳をかたむけてしまうほどに、一面は閑散としていた。
左側には堤防にのぼるための階段が、目盛のような間隔でおかれていた。全く画一的でつまらない。銀色の手すりの輝きもどこか、厳格なニヒルを炯々とたたえていた。堤防の向こうには、少しばかり背の高い、幾つかのマンションや送電塔の上半身がちらほらみえた。
反対は丁寧に刈られた原っぱがひろがっており、青年らがサッカーなどに興じていた。その奥には川がながれている。
眼前には橋がかけてあった。川を二つこえ、対岸までのびている。このまま真っ直ぐに歩けば、あの下をくぐることになる。あそこには電車が通っている。その往来は頻繁だ。大抵はひどい騒音をきかされる。
羅夢が見ていたのは川だった。小さなボートが流れに逆らい、のぼっていくのが見える。割られた水面からひときわ大きな波が両岸に向かって、他と溶け合い進んでゆく。
「なぁ、昔の話をしてやろうか?」羅夢は懐かしい言葉で少年に話しかけた。周りには人がおらず、彼は耳が聞こえないのでちょうどよかったのだ。その言葉と今までの言葉の流暢さに、そこまでの乖離はなかった。橋の下をくぐり抜け、赤いポピー畑をみたところで、羅夢はいっそう快活に語りはじめた。
少年は彼の目を無言で、その様を、大きな瞳でじっとみつめていた。彼ならば、どの聴衆よりも、真意を汲みとれ、それを眼前に詳らかにしめすことができる、と羅夢はかんじた。
「お前は聞こえなくても、わかってくれるだろう。
まだ、俺が若かった頃、俺はここには住んでいなかったんだ。ずっと西の方に住んでいた。乾季と雨季があって、こちらの夏より暑い時もあった。なにより、長かった。そして、冬になると濃霧が発生して、多少困ったことがあった。空気も汚れていたかもしれない。更には毎日車通りがはげしかった。それでも、俺はデリーを気に入っていた。門だとかの観光地もあったが、俺はそこまで関心がなかった。歴史の厳粛などは、いまだに感得したことがないのだから。
そして、こんな都市でも、新緑に気づける初夏の頃だった。うら若い彼女をもらったのだ。お見合いだったが、性情があっていて、苦痛はなかった。
妻は家に花を置くのが好きだった。俺はまるで花には不案内だったが、丁寧な手入れをしていることくらいはわかった。ポピーは彼女の特別好きな花だった。理由は聞いていないから、わからない。花飾りにも、ポピーはなかった。生活は呑気なものだった。だが、当時の情勢はそうでもなかった。
突然だった。妻は通り魔の男に殺された。そいつは隣国の戦火ですべてを失い、自暴自棄になっていたのだ。彼はあくまでも、敵対民族に対しての、同値の復讐を宣っていたが、その内実は非常にエゴイスティックだった。
その時から、俺は自由になることをめざしたのだ。確かな決意だった。
しかし、妻の葬礼の後、俺には蛆虫が湧いた。自堕落で、退廃的で、以前とは似ても似つかぬ生活をおくっていた。そんな中、まだ残っていた知人が日本でうまく事業をしていることを知った。俺は、未練の多さに嫌気がさして、荒れていたのも相乗して、地元をはなれることにした。もうだいぶ記憶も薄れてきたが、この辺りの事は、依然おぼえている。
日本に来てからは、知人もどこかに散ってしまい、まったく孤独だった。帰ろうにも、永住権を取得したくて、帰らなかった。次第にここで骨をうずめても構わないとおもうようになった。そうして、いたずらに馬齢をかさねた。幸福ではなかった。
だが、偶然、隣の部屋にお前が越してきた。言い方が悪いが、片親なのも俺にとっては、良かったことかもしれない。感謝している。お前は、俺の孤独をよく癒してくれる。」
二人はこぢんまりとした、可愛らしい赤いポピー畑の前に座っていた。既に夕焼けがはじまっていた。早とちりな夜風が、とっくにひいた汗をかわかそうと、肌寒くふいてきた。川の向こうは、藤色から紺色の帷がおりていた。対岸の橋の上─環状線にはスムーズな車両の行き来がみえた。堤防の向こうはまだ、濃い朱色に燃えており、送電塔やマンションの頭には夕闇が染みていた。閑寂の中、列車の往来が微かに耳にはいるが、それも銘々の夕轟となってきえる。
流れる川もポピーのまろやかな花弁もしだいに褪せてきた。羅夢は隣をみた。少年は屈めた膝に顎をのせて、ぼんやりとしていた。羅夢はもう満足して、帰ることにした。
しかし、次の橋をくぐったとき、稲光に似た、一筋の閃光が煌めいた。その一瞬、羅夢は鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。全身は何者かにのし掛かられ、甲冑を着せられた風な負荷と重量におそわれた。にわかに正気ではなくなった。
目を覚ますと、一面、青空だった。原っぱに寝ていた。しかしよく見る空ではない。空も雲も何か、寒々としていた。上体をおこすと、城とそこへつづく道が目にふれた。
城は天空に肅として崛起していた。それは破滅の予感への眩惑とともに、限りなく、揺らぎなく、聳えているのだった。麗々たる黄金の粧飾は、歴々と己の威信と矜持を称えていた。上空には鷲が飛翔していた。少年はすわりこんで、空を見あげていた。鷲を目で追いかけていた。羅夢は突然のことにまごつきながらも、少年の手をひいて、入城した。
城に入るとすぐに、謁見の間か、大広間か、そのような場所が見えた。中央には大きな木枠があり、そこには大量の黄金が無造作につまれていた。
「ようや来たか、約束の時間だ」
黄金の山の奥から、嗄れた声がした。しかし、厳しさはあった。羅夢はその男はまさに異教の神だと、確然と悟った。神は陰から顔を覗かせた。やつれた顔をした神は、しかし威厳を毀損することなく、鎮座していた。
「彼を渡してもらおうか、報酬も用意してある」
羅夢はおぼえのない約束に応える義理はない、ときっぱりと拒否した。
「覚えがないといっても、私は覚えている。約束を違えるつもりか」
彼は約束もなにも、知らないのだからしょうがない。ついさっき眩い光をみて、気がつけばここにいたのだから、と言い返す。
「ならば、状況を説明してやろう。お主はその子を返しにきたのだ。その子は我が城に必要な存在だ。彼にしかできない仕事があるのだからな。帰りたければ、その子を渡してもらおうか。無論、報酬は払うぞ」
彼はそんなものいるか、第一俺はこの子を世話している。つまり、無事に、家へ帰らせてやらねばならん。俺の知っている約束はこれだけだ、と跳ね除けた。
「ならばここに残ってもらおう」
彼はいいさ、一人でも帰る方法を探してやる。この子のためにもだ、といった。
「それは強情だろう。それに、その子も帰りたがっている」
しかし、少年は黙したまま黄金をみていた。そこで羅夢は、彼は目でものを言うが、何も主張していない。その目はただ財宝をながめているだけだ、と反論した。
すると、妙な響きで問いかけてきた。
「本当に、そうか。それはお主の我執だ。この子は果たして今までに、お主と散歩をしたいとのぞんでいたか。又世話をしてほしいと、一度でも要求していたか。よく、考えてみろ」
馬鹿げている。そんな筈はない、と羅夢は神の言うことを欺瞞だと侮蔑の内に一蹴しようとした。だが、少年の黄金に向けられた眼差しをみて、ほんの少し、何か喉に詰まった感覚に襲われ、思いとどまざるを得なかった。
しかし、まてよ、彼を失いたくないと感ずるのは、不当じゃなかろうか。ひょっとすると、俺はいまの今まで、彼に対して不純で、横しまで、悪辣で、太々しい本心を、さも清浄な心意気からくる、良き慮りだと、勝手に誤解していたのではなかろうか。
俺が一番嫌っているのは、妻を殺したような思想の持ち主だ。それは、あたかも、外面では己の絆や縁合い、己が帰依する情念があるかのように謀って、崇高な芯を通したように、思わせた時の尊敬や効力だけを目的としている、誑かしのタネばかり蓄えた、巧言令色の詭弁家達──糞に群がる蝿どもや、石の下の百足のように、ほんの少しでも身に危険が及べば、意地汚く敗走し、あわよくば鞍替える奴等だ。いや、その点では、蠅や百足の方が数倍立派だろう。
しかし、今の俺は、まさに蝿ではないか!百足ではないか!向こうが私利私欲に塗れていようが、少年の所有を叫んでいる時点で、俺も我欲に耽溺しているではないか!
羅夢は殆どパラノイドな撞着に陥った。もはや彼に少年を受け渡さない選択を押しとおすことはできない。その拒否は全くの正当性があるはずだろう。しかしながら、彼にはその主張をする一切の内面的な剛毅さは、とうに霧散していた。
「報酬はやった。さっさと帰るがいい」
少年はほどなく、黄金の山陰に隠れてしまった。
再び、閃光があらわれた。羅夢はあっけなく意識をなくした。
耳をつんざく列車の通過で気がついた。橋の下にいた。あたりは暗く紺色につつまれて、完全に暮れていた。どこを見渡しても、少年はもう、いなかった。空気はよく、澄んでいた。
車の静かな往来を聞きながし、古びた電灯の、ほのかに黄ばんだ灯をたよりに、帰路についた。
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老いがいそぎ足でせまり、男は零落した。少年は二度と帰らなかった。片親も音沙汰なく、日だけは過ぎた。それから男は、窓に入る西日を眺め続けた。空が焼けて、夕闇におかされ、空も地上も燃え尽きるまで、あくる日もあくる日も、眺めていた。
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兵刃と水火は
尽く之れを違けて去る可し
唯だ 老いの到来する有る
人間 避くる処 無し
時に感じて良に已めりと為し
独り池南の樹に倚る
今日 春を送る心
心は新故に別るるが如し
最後の詩は、白居易からお気に入りを引用しました。やっぱり、文体が緊張しすぎており、変です。