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雑文1 小品あるいはモノローグ 祭りに関して

雑文をいちいち重ねていくのはアホらしいとようやく気がついたため、集にします。今までのやつも整理するつもりです。

 晩夏がひと通り去っていった時分、北参道の辺りを散歩していた。新調したイヤホンの使い心地を試すための漫ろ歩きである。

『The Millionaire Waltz』

 僕が最近気に入っている曲で、徒歩で移動する際は頻繁に聴いている。何処かしらに、叫びの根拠を用意しておかないと、不安になるのだ。そこに外連と音響で優しく答えてくれる。だから、好きなのだ。特に歩くという、通り魔に襲われやすい手段を選ぶ時は重宝する。

———

 まるで盲目の者が星空を眺めるように、あるいは彼が彗星の接近の報せと、その棚引く尾の美しさを力説された時のように、僕には関心の持てぬ催しが迫っていた。日ごとに秋めくことはなく、アンペア計の針先の揺動のごとく神経質な日々が続いていた。唯一秋を感じられたものは、銀杏の匂いと膨らんだ鳩達だけである。

 今に始まった事ではないが、我々は「降りる」という選択ができる。それは究極的には、不愉快なものからは全て降りて、あの愉楽に満ちた世界に耽溺することだ。あちらが魅力的に映るのは生活空間の問題ではない。むしろ、関係という点と線の繋がりの問題である。ただ、こんなことは誰でも承知の事であるが、修辞を弄して焼き直すほかない。紙上に繰り広げられた錯雑なる線は風化してゆき、恰も道路が獣道に凋落するように、点と線の交信が疎らになる。希薄になったそれは孤独といえるだろう。それを感じたならば、たちまち亢進症のように閉塞していく。そして畢竟、虚無からこそ湧き上がる気魄で襲来するか、そのまま凝縮し続けて潰れるかの末路をたどるのである。

 僕は銀杏臭い通りを歩きながら、如何ともしがたく、しかも他見においては阿呆の一人と勘定されるような難題に逢着していた。

『お前は如何に人生を撫養するつもりか』。大言でもっともらしく、迫ってくる。しかしこの難題との付き合いもよくわかってきた。

 コイツは仏頂面でお高く止まっているが、いい衣裳を着せてやると、頬を染めてぼんやりしてくれる。こうなれば可愛いものだ。

『その御召し物、今日もよくお似合いですよ。まるで衣通姫みたいだ云々』

 美辞を弄すれば、蟠る蛇男はこの嬢と愉しむことを許可する。人があらゆる社交に耽溺するのをやめられないように、コイツとの舞踊は蠱惑なものなのだ。ただ、奴の肌を直接見ることは避けたい。これは素人の放言だが、生け花において剣山そのものに眺め入り、見蕩れる者はいないように、コイツの素肌の虚無ほど、直視できたものはないからだ。

 回避の術は一つ、言葉で埋め尽くしてやることだ。囁いてやればいい。どんなレトリックが好きなのか。今日は古風な言い回しか。明日は無頼な雰囲気で妄言を吐露するか。生え抜きの言葉で、実直で生硬に語るのか。放越した撫で回しに、奴の顔が放蕩、淫蕩等の文字でいっぱいになれば、もはや誰もコイツを難題とは思わないだろう。難題でないならば、パズル未満の知的遊戯、又こっ酷くいえば慰みものである。

 僕は剣先の軍団の突撃を、劣情と同等にまで下げて、あしらっていた。しかし、日が経つに従い、難題と称するべき襲来は疎らになった。唯一、紛い物だけが戸を叩いたが、奴らには如何なる被服も与える気にならなかった。あの億万長者になって豪遊するかのような悦楽は、とうとうなくなった。千駄ヶ谷駅を横切ると、ある寂寥感も無視できるものになっていた。

——

 観念の世界は無論、現実に引き戻される道理にある。愛する人の来訪をいつまでも待ち望めるわけではない。それは、最初に書いた「催し」によって強制的に理解させられる。いまは、逃避するために電車に揺られている。

 木枯らしはまだ吹いていない。冬というにはまだ暖かい時分に、佐原に来ていた。小野川の沿岸を散歩して、伊能忠敬の旧宅前、樋橋の人だかりを眺めながら、以前耳にしたお囃子を想い起こしていた。

 どういう理由で選ばれたかは知らないが、古事記や鎌倉時代の偉人の大人形が山車に載せられ、練り歩いていく。黒山の道をゆったり歩いていくうちに、どうしてか口がさびしくなり、割高の焼きそばを食って悔悟する。屋台の数は多く、駅の近くにすら林立していた。日が沈み、帰りの電車から見た風景は暗闇と車窓に映じた自分の顔だった。あれもぼんやりしていたと覚えている。

 佐原の祭りの記憶が、次第に幼時に母に連れられ、よくわからずに行った地域のいろんな祭りと結びついて浮かんだ。どれも夏だったため、こことは違うはずだが、共通していることがあるようだ。それは恐らく、自分が何をしているのか、楽しみと退屈の中間の気分で静止させられているような、この感覚だと思う。言葉の流れが堰き止められたところで、川を揺蕩う紙片に目が止まった。そした、愛しい人が訪ねてきた。

 どうして、最近になって言葉が気になり出したのか。なぜ、ゴミを見ただけなのに、「揺蕩う」という表現で、少しでも修辞を凝らそうとするのか(ああ、僕の元に、再び、愛しい人が訪ねてきた)。僕は欣喜雀躍といえば誇張だが、その呼び鈴に気付き、快く戸を開けた。しかしながら、彼女は絢爛な衣料を身に付けていなかった。そう、彼女はその絢爛が糜爛に変貌する様と、くだらないでは片付けられない空虚さを見逃さなかったのだ。だから、僕は愛しい人が来たと歓喜したのはいいものの、完全に饗する術も、抜け目ない謝辞も、能うる限り全ての小手先を封じられて、未熟に俯くほかなかったのだ。ただ、幸いなことに、彼女が呆れて帰ることはなかった。穏やかな無の顔つきで、見つめ続けているだけだった。

——

 「催し」が始まっていた。近所の広めの公園でいくつかの露店がこぢんまりとしているだけで、地味だというのが正直な感想だ。園の入り口まで、香ばしい肉のかおりが届いていた。増幅されたブラジル音楽もはっきり聞こえる。高架下を通り抜け、リードを握って、桜の林立する散策路を歩いていった。

 僕は初めから来るつもりはなかったが、ここは犬の散歩に丁度良く、更に開催地も忘れていたため、立ち寄ってしまったのだ。普段ならば、グラウンドで野球やサッカーの練習が行われているだけで、人集りというのがまずできない場所だが、今日は一段と混み合っていた。

 園内を一周したら帰ろうと決めていた。何故なら、犬が先程から尻尾を丸めて、辺りを見回しながら歩いているからだ。このような環境は彼女にとっては苦痛なのだろう。憶測は的中し、半周程度で脚を止めてしまった。そこからは犬を抱きかかえて歩いた。

 出入口の前まで戻ってきた。入った際に見落としていたのか、射的の屋台があった。ちょうど一人の女性が遊んでいた。紺色の浴衣を着ていた。髪は簪で纏められ、銃身をしっかりと支え、構えていた。

——

 軽い空気砲の音が響いた。酔うとは、このような感覚なのだろう。ここに、言葉の限り、麗辞を尽くしたいと思った。流麗な詞藻に富んだ文で、能う限りの玉詞によって、口清らかに、言美はしく、着飾りたいと切に願った。コルクの突進を受けた景品らが、玲々と地面に星散した。次々と撃ち抜かれてゆく。僕は、語彙を探し始めた、あの人を佳く名状して、あの舞踊の高揚を味わうために。

 しかし、愈々残り弾数が僅かになってきた時、それが全く不能であり、抒情と叙景による漸進的な戦略は失敗に終わるのだと、悟ってしまった。すると、美しい花々であったはずの言葉たちは、枯れ朽ちてしまい、悍しい腐乱臭を放つようになった。綾は、人の着るものではなくなった。僕は慄いた、どんな虫害よりも忌ま忌ましい、愛しい人の肌に夥しい白蟻どもの集るその様態に。僕は紡ぐことをやめた。そうして、コルクの弾は無くなった。

 彼女はおもちゃの散弾銃で、僕の観念を全て射殺してしまった。言葉から鮮血が迸ることは、決してなかった。犬を家に置いてから、もう一度公園に戻った。「催し」はとうに閉会していた。

 ベンチから空を仰ぎ見れば、夕映えだった。その夕暉は遮光する鱗雲を焼き溶かしてしまいそうなほど、赫然と空を染めていた。

今回も含め、散漫なモノローグばかりでそろそろうんざりしてきました。生意気にも、ずっと正座しているのではなく、たまには胡座をかきたいと思っております。

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