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蒼天の真竜  作者: 逢河 奏
第三章
41/43

040○此方の解【狼】

 わけのわからない夢を見るなんて日常茶飯事だ。だから今更驚かない。


 巨木の森の中にシランがいて叫んでいた。逃げろ、早く、早く! と。

 叫ぶ先にはシンがいて、その足場はどんどん崩れていた。シンは必死に手を伸ばすがその姿は一瞬にして足元に開いた暗闇に――。


 消えた。


 聞いたことないような、まるで心臓を切り裂かれたような絶叫が響く。

 それでも崩壊は終わらない。

 暫くすると崩れゆく音だけになっていた。声の主もシンも、誰だろうと関係なく破滅は近場の全てを手当たり次第に巻き込んで、奈落の底へ堕ちていく。伸ばす手はなかった。

 続いて浮遊感。

 そして降下する感覚。

 真っ暗闇が大口を開けて待っている――。



○ ○ ○



 次に見えたのは薄暗い灰色だった。


 苦しそうな息遣い。

 喘ぎながらも体を引き摺るようにシンは廊下を進んでいた。遠くにあるざわめきから逃げるように。

 でももう限界なのは明らかだった。重い荷物を背負っている上に、何やら薬まで飲まされている。ドラゴンの象徴のように現れていた赤褐色の鱗も色褪せ、ほとんどが元の人のような肌に戻ってしまっているし、いつもは爛々と輝く朝焼け色の瞳も今は虚ろだ。


「もういいよ。諦めていいから休んで……無理しないで……」


 そう言いたくても言えない。

 ロウはただ見ているだけ。鳥瞰するような斜め上からの視界を持って、シンの辛い背中を見下ろす。それだけしかできない。また夢だから。これも、夢。

 ああもどかしい。

 捨ててくれればいいのに。そもそもロウを見捨ててくれれば、良かったのに。シランを助けに行けば、良かったのに……。

 そんなことを考えていたらシンが力尽きた。

 バタン、と受け身なんてない、顔面からつんのめるように床に倒れたのだ。あんまりな倒れ方にロウは顔を歪めた。

 だってシンが真正面から倒れたおかげで、唐突で勢いのあった倒れ方にも拘わらず、ロウの体はシンの背に守られ、床に叩き付けられることはなかったから……。

 意識が途切れる瞬間ですらロウを庇うなんて……本当に、本当に。


「シンはあほだぁ……」


 夢の中で泣くなんておかしいけれど、なんとなく自分が泣いている感覚があった。なのに拭うための手の感覚はないなんて最悪だ。

 だらだら涙を流して、ぶっ倒れたシンの姿を見下ろしていると、不意に少し先の扉が開いた。思わず息が詰まる。

 見つかった。

 でもシンを介抱して貰えるなら誰でもいい、とも思った。

 息を詰めて見守っていると、扉から長い黒髪を垂らした、非常に気だるそうな顔をした女性が顔を覗かせた。

 首を巡らせ、すぐに倒れたシンとロウに気づくとすっ、と扉の陰から出てきた。

 そこでようやく気づく。ほっそりとした腰の辺りまで届く強情そうな黒髪を引き立てるように、彼女は白衣を纏っていた。

 医者……なら、シンを助けて貰えるかもしれない。手当てして貰えるかもしれない!

 やった、と内心バンザイをしていると彼女がシンに近づいた。彼女はちらっとシンの皮膚に浮き出た鱗を見て、ふむ、というように顎に手を当ててから。

 むんず、とシンの襟首を掴んだ。

 ちょっと「あれ?」と思いながら見守ると。

 彼女はそのままズルズルとシンの体を引き摺って行った。扉の中に放り込むと続いてロウも同じようにズルズル引き摺り込むと、最後に廊下を左右確認してから、よし、と頷くと。

 ぱたん、と扉を閉めた。

 え。

 え?

 シンが……え?


「シンが誘拐されたぁああああああああああ――」



○ ○ ○



「――あああああ、あ?」


 ぱちぱち、と瞬きをする。

 起き抜けの混乱、と言うより夢の混乱により呆けた顔をして固まっていると。


「おはよ、ロウ」


 にっこり笑顔なシンが目の前にいた。にへらにへら、と締まりない笑顔に、急に力が抜けた。


「おは、よ……シン」

「うん。へへっ、良かった。苦しそうだったし、思ったよりなかなか起きなかったから心配したぜ」


 ロウはベッドに寝かせられていたようで、シンはその縁に腰かけながら手を伸ばすと、ぽんとロウの頭に置いた。

 頭を優しく撫でられて、気持ち良くって目を細める。安心する。


「シンこそ……元気そうで、良かったぞ」

「ああ、おかげさまで。ありがとな」


 なぜか超いい笑顔で脈絡もなくお礼を言ってくるシンに慌てた。

 え、なんでなんで? だってロウのせいで辛い目にあった、怖いことした、泣いてた。

 なのになんで!

 と叫ぶより前にシンはあまりに自然に、安心してと言うようにロウの頬に手を添え、くしゃっくしゃの笑顔で心を込めて言った。


「ずっと傍にいてくれてありがとう」


 あ、と。

 まぶたが震えた。

 目尻が落ちて。力が抜けて。

 ぶわっと、泣いてしまった。


「うおお!? ロウ!?」

「ご、ごめ……でも、だって、だって……」


 絶対に聞けない言葉だと思っていた。

 だってシンが見てるのはいつでもシランで。ロウがいたって、力になんかなれないから。微力なんて言葉すら吹き飛ぶくらい、シンにとっての世界の中心はシランで、他はどう足掻いたってその他の登場人物でしかなかった。

 でも記憶がなくていつも不安定なロウの手を取ってくれた人だったから、それでもいいから守りたいと思った。ただの自己満足だったとしても、そうせずにはいられなかった。

 シンの優しさを他の人と重ねなかったとは言わない。代用品なんかじゃないなんて、言えない。そんな最低なロウだけど……。

 それでもシンが独りにならないなら、少しでも涙を拾ってあげられるならいいと思った。

 シラン中心主義でロウなんて本当は眼中にないシンでも、そんなシンから逃げるシランにどんなに嫌気がさしても。

 いいやって思った。どんなに歪でも、守りたいと思うことに嘘はなかったから。

 そんな一方的でぐちゃぐちゃだった線が。

 繋がったんだ。

 ロウを、見たんだ。

 優しい笑顔で。


「あの時の答え、かな」


 頬を決まり悪そうに掻きながらそんなことを言うシンにきょとんとした。けれど頭の隅っこでは数日前の会話が再生される。


『……ロウいても、なんにもできないのかな?』


 あの時のシンの答えは、そう。


『……ごめん、わかんない』


「その、答え……?」

「今更すぎ、だよな」


 あはは、と空笑いをするシンをロウは抱き締めた。


「ぬあ!? な、なに?」

「ありが、とう……」

「な、なんで!?」

「なんか、言いたかったからぁ」


 涙が溢れてきて止まらなくなってしまった。馬鹿みたいだけど、シンを困らせてるのはわかってるけど、さぁ。

 やっと本当に独りじゃなくなったみたいなんだ。一人相撲じゃなくなったからもあるかもしれないけど。でも。

 やっと、ロウはここにいていいんだなって、今安心したんだ。

 それこそ今更なのに――!


 わんわん泣いて、シンにしがみついて、子供みたいで、シンにまで苦笑いされたけど。


「オレも。ありがとう」


 って抱き締め返して頭撫でて、笑顔で笑ってくれたから、良かった。

 受け取ってくれてありがとう、シン。

 今、(ここ)に、返事(こたえ)はちゃんと届いたよ――。



○ ○ ○



「さて、そろそろ落ち着いたか?」


 泣きやんだ頃合いを図ったように声をかけられ、涙を拭って顔を上げると。

 夢で視た白衣の女の人が立っていた。


「うわっ、誘拐犯!」

「いくら怪しい出で立ちだろうがそれは酷い言いがかりだ。私ですらちょっと傷つくぞ」

「ごめんなさ、い?」

「ふむ。謝る気がないなら謝罪は口にするな。わかった。まあ仮に誘拐犯(仮)として手を打とうか」

「打っちゃうんだ……」


 なんだこの変な人、と見上げる。結構背が高いから立たれると首が痛い。

 剛毛なのか毛先がツンツンしている、腰に届く長い黒髪を無造作に垂らし、ヨレヨレの白衣を着た怪しげな女性。中は黒の上下に黒い靴下にスリッパという、白衣以外は真っ黒黒な人だった。しかしポリシーとかはなさそうで、スリッパなんて元は灰色で汚れて黒く見えるだけっぽい。面倒臭がりだなきっと。

 汚い白なイメージ。

 白衣すら清潔感ないなんてこの人本当に医者なのだろうか?

 場所は医務室で合っていそうだ。ベッドは清潔な白シーツに枕だし、所狭しと並ぶ棚は整然としている。

 ……偽者?


「ここはどこ?」

「第二医務室だ」


 ……やっぱり偽者? 偽者が医者と成り代わってるからこんな医者っぽくない医者がいるのか? だから部屋の雰囲気は清潔感溢れてるのか?


「非常に胡散臭い視線を感じるが嘘ではないぞ。ここは通常の医務室とは別に用意された部屋だから第二を名乗っているだけだ。普通の患者は来ない。存在もほとんど知られていない。逃亡者にはうってつけだな」


 ギョッとして彼女を見るが、全く表情は変わらず、淡々とロウを見ているだけだった。何だか目が……死んでるような。と言うか興味が、ない?


「まあまあロウ、大丈夫だって。悪い人じゃないから」

「この人、本当に医者なのか?」

「うん。おかげでオレはすっかり元気だよ」


 そう言うシンは確かに顔色が良くなっているし、だるそうとかもなく、健康そのものだ。


「じゃあなんでロウはまだ……」


 体は大分楽になったけれどまだまだ重いしだるいし、本調子とは程遠い。なんでロウは治ってないんだ? と白衣の人を見ると淡々と答えてくれた。


「君は何か弄られているだろう? 薬の効きが妙だ。狼の変異種を母に持つ、という診断は間違っているか?」

「ロウ覚えてないけど、狼なのは確かだぞ」


 そう答えるとちょっと彼女の反応が変わった。覚えてない、か、とひとりごちると。


「お前、第八に住んでいるんだろう? あそこは抜け医者がいたはずだから診て貰え。いろいろはっきりさせとかんと後々意外なもので死ぬ危険がある」

「は?」


 訳がわからないことを言われた上に『死ぬ』って……。


「ちょっとちょっと、イチさんいきなり言い過ぎだって! なにそのヌケイシャとかいうの」


 シンが助け船を出してくれた。さりげなくイチさんと呼んでいたのでやっと白衣の人の名前が判明だ、とか混乱しながら思う。


「某研究所系列から裏ルートで抜けてきた医者連中をそう呼んでる。医者じゃない連中も含む時は『抜け者』とも言うな。これ以上突っ込むと面倒だからもう訊くな。とにかくお前らみたいなのを専門にしてた連中がいるから診て貰っとけという助言」


 専門にしてる……って、どういうこと? 某研究所系列って、なに?

 ぐるぐる疑問が頭を巡るが答える気はなさそうだった。


「もういいだろう? ほれ、タロもそろそろ寝ろ」


 しっしっ、と手で払うように動作をシンに向かってすると「えー」と心底不満そうな声を上げた。

 ロウは完全に置いてきぼりを食らっていた。


「って、え、『タロ』?」

「なんとか太郎だったから二文字取って『タロ』。シンはもういるからな」


 って、ああ、じゃあ真太郎だったか。とかボケてるイチさん。訳がわからない。


「えっと、なんか人の名前から二文字取ってそれだけ覚えることにしてるらしい。名前を覚えるのが極端に苦手なんだって」

「安心しろ。ロウは一人目だからロウと呼ぶ」


 と一方的に言ってから急にぽんと手を打った。


「そう言えば名乗っていなかったな。私は鎬壱しのぎいちだ。壱と呼ぶといい」


 なんだか。

 性格の雰囲気と合ってるなぁ、と思った。カクカクしている感じとか、二文字というシンプルさとかが。


「よし」


 と一人満足げに言うと、イチさんは再びシンを追い出しにかかった。


「ほら、もうロウの相手は私がするからお前は隣の部屋で寝てろ」

「いやだっ、オレがロウの面倒見るの!」


 ぎゃいぎゃいと噛みつくシンだったが、イチさんに背を押され、どんどん隣室に繋がると思われるドアへ誘導されていく。


「病人が病人の世話をするな。私の仕事だ。お前はとっとと寝ろ」

「でもオレやんなきゃいけないことが!」

「わかっている。朝には起こしてやるから今は寝ろ」

「いーやーだあ!」


 と叫びながらも結局はイチさんに押し出され、ぱたんと閉め出されてしまった。

 シンがほぼ無抵抗で言うことを聞かせられるなんて、この人は一体……、と思って見ていたらイチさんが振り返る。


「なんだ、お前も不服があるのか? 良いだろう、受けて立つ。だが言っておくと私は脱臼癖がついているのでお手柔らかに頼む」

「うわ……」


 なんていう脅しなんだ。

 弱味を逆に武器にして抵抗する気持ちを削ぐだなんて……。だからシンは口では抵抗しても、手荒なことはできないから従うしかなかったのか……。


「あ、ありません……」

「ならいい。病人は大人しくしていることが仕事だ。ほら、薬飲め」


 と言いながら背を向けて薬を用意し出したイチさんだったが……。

 今頃気づいてしまった。


「あの、イチさん……?」

「なんだ?」


 振り返らずに応えるイチさんにちょっと恐る恐る問う。


「なんで、その」

「ああ」

「……帯刀、してるんですか?」

「ああ」

「『ああ』じゃなくて!」

「ん?」


 ようやく振り返ったイチさんはきょとんとしていた。いやでもいくら見慣れてるものでも、お医者さんが腰から刀をぶら下げてるってどうなの? なんか問答無用で介錯されそう。淡々と患者斬りそう。なんか怖いよそれ。


「……おかしいか?」

「ちょっと……いやかなり」

「そうか」


 ふむ、と考えるようにしてからイチさんは語り出した。


「代々刀に携わる家系でな、『鎬』わかるか? 『鎬を削る』とよく言うだろう? あれは刀同士の斬り合いの時に柄の少し上にある鎬という部位が削れるためそう言うらしい。つまり『鎬』という苗字は刀から取っているのだ」

「えと……だから?」

「私は刀を捨て、医療の道を志したため、鎬家からは多少外れてしまった。しかしそれでも私は鎬を名乗り、鎬の心は捨てていないつもりだ。だから常に帯刀することにしている」

「……はぁ」


 なんだかわかるようなわからないような話だなぁ。


「つまりこれは私の心構えだ」


 ……余計にわからなくなった、ような。


「あとは家の宣伝だな」

「あの、完全にわからなくなったぞ」

「そうか? まあいい。とにかく患者を斬るためではないから安心したまえ」

「わ、わかったぞ」


 うむ、と満足そうに頷いているが……そんなすっきりしてないんだけどな。


「お前はあまり私を信用してないようだが、安心しろ。まず一つ目に、私は組織なんてどうでもいいと思っている。追われているようだが私にはなんの命令も来ないし情報も伝わって来ないし報告する義務もない」


 ハブられているからな。

 と胸を張って言っているこの人は本当に大丈夫なのだろうか。


「第二に私はこの組織内に顔見知りは二人しかいない。第三に私は新日本政府本館第二医務室の医者である以前にただの医者だ。患者がいれば無条件に助けるのみ」


 ちょっと医者としてはかっこいいことを言ったけど、前者の発言的に人としては駄目かもしれなかった。


「フフッ」


 怪しげな笑い声に、イチさんの顔を覗くと、目を爛々と輝かせ、口を薄く伸ばし、端を微かに上げて笑っていた。


「なに、患者は私のものだ。誰にも奪わせはせんから安心しろ、ロウ」

「あ、あはは……」


 唯一笑ったその顔は極悪だった。

 やっぱりイチさんは危ない人かもしれません。



○ ○ ○



 薬を飲まされているとリリリリリ、という音が鳴り響いた。うるさいなと思っていたら。


「うるさい」


 鳴き喚くそれを振り返り様、イチさんは刀で斬り払った。

 ええええと内心びっくりしていると、その何かは宙を舞い、イチさんはなんでもないようにその何かをキャッチすると耳に当てた。斬ってはおらず、弾いただけらしい。それは変な形のバナナみたいなものだった。


「うるさいぞチノ」


 何やら会話が成立しているらしく。「ああ」「そう」「いや」「ああ」「わかった」「お前もな」と、相手がいないと絶対に成立しない会話らしきものをすると、バナナっぽい機械らしきものを元に戻した。


「ロウ、もしかしたらお前の仲間が来るのかもな」

「え?」

「今の電話で、ここに患者が来るからあの対の薬をやってから一緒に避難訓練しろと言われた」


 首を傾げた。ひなんくんれん? 避難を、訓練する?

 あとあれが『電話』なんだな、ともちょっと納得する。


「なんで仲間だって?」

「チノがあの痺れ薬を使う相手なんてそう多くない。妥当に考えるならお前の仲間だろう」

「ちょ、ちょっと待って!」


 じゃあ今の会話の相手って……。


「ミチノさんのこと、『チノ』って呼んでるのか?」

「そう言えばそんな名前だったな」


 ふむ、と一人納得したように頷くイチさん。

 いやいやいやちょっと待って!


「痺れ薬って、イチさんがそういう薬を管理してるのか?」


 それに対して衝撃の返答をイチさんはあっけらかんと言った。


「そもそもお前たちが飲まされたり注射された薬は、私がチノに頼まれて作ったものだが」


 ああだから解毒剤も持ってるんだねー……って。


「ええぇえええええ!?」

「そんなに驚くことか?」

「え、え、じゃあなんで自分の作った薬を使われたロウたちを助けたの?」

「だから言っただろう? 患者がいれば無条件に助けるのみ――」


 やれやれという感じにイチさんは改めて宣言した。

 極悪顔で。


「患者は私のものだ」

「シンに変な薬飲ませてないよな! さっきの某研究所って変異種のじゃないのか?」


 立ち上がりかけたが、額にトンと人差し指を突き出され、動けなくなる。

 間抜けな感じにイチさんを見上げて固まったロウに、イチさんはまた生気のないだるそうな顔に戻ると言った。


「別に私は患者を治す以外は興味ない。確かにお前みたいな奴らをつくっているところに囲われていたこともあるが、脱走して今は追われる身だ。チノに匿って貰っている」

「え……」

「薬も頼まれたから作っただけだ。恩があるからな。だから作った」


 ずるずるずると片手間にコーヒーを啜ると続けた。


「半日程効果が持続し、後遺症もないようなもの。それでかつ、解毒すればすぐに効果が消える薬をな」

「それ、は――」

「もちろん殺人には使えない。お前はちょっと特殊なケースだったから危なかったが、すぐに解毒されたようだから大事にはならなかった。しかし通常は行動を多少制限する程度の効能しかないな」


 半日程度だって?

 ……短い。

 定期的に摂取させるものかと問うと返って来たのはノー。弱いものだから連続して使用すると効果が薄れて意味がないそうだ。濃度を変えればある程度は効果があるが、元々ほとんど原液そのままを使っているため、使えても二度。


「どうしてそんな効果の弱いものをわざわざミチノさんはイチさんに作らせたんだ?」


 独り言のようなものだったが、イチさんはあっさりと答えてしまった。


「安全な薬が欲しかったんだろう? お前みたいなのがいるから私に作らせ、万が一の時は私が対応すれば大抵どうにかなる状況にしたかったんだろう」


 『お前みたいなの』っていうのはロウやヨミみたいな変異種の遺伝子を持って研究所で産み出された人間でも変異種でもない生物。


「彼の(むすこ)は有名だからな」


 では、ない?


「『彼、の』?」


 無意識におうむ返しに口にしていた。頭のどこかがガンガン警鐘を鳴らしている。うるさくて痛くて顔が歪む。ついでに視界も歪む。


「お前の父に当たる人間は有名だからな。お前共々、噂は聞いている」


 イチさんはうっすら笑みを浮かべた。


「お前よりも私の方がお前を知っているかもしれんな、ロウ」

「聞きたく、ない――」

「思い出したくないのか?」


 だって、わかるから。知らないけどわかりはするんだ。

 記憶(なくしもの)の先には絶望しかないってことくらいは。


「そうか、逃げるのか」

「うるさい!」


 噛みつくように怒鳴るとイチさんは興味深そうにロウを見た。


「全く覚えていないわけではないのか? それとも感覚や感情のようなものだけが微かに残っているのか?」

「それ以上、言う、な……」


 バキン、とベッドの背面の板が悲鳴を上げた。無意識の内に握り締めていた拳をベッドに突き立ててしまっていたのだ。しかしまだギリギリと軋む音がする。

 我慢、しなきゃ。殺さなきゃとか、考えちゃダメ。

 でも頭がギリギリと痛いんだ。

 殺せばいいんだよ、って言うなよ。わかってる。言ってるのはロウだ。だけど――。


 パンッ。


「――っ!」


 唐突な大きな音に驚いて顔を上げると、手を合わせたままじいっとロウを見るイチさんと目が合った。

 緊張で動けないロウの髪をがしがし撫でると、イチさんはだるそうというよりは不機嫌そうな感じで言った。


「嫌がってる相手に無理矢理話したりはしないから安心しろ、ロウ」


 まるでシランのように。

 なんだか気が抜けて、ロウはベッドにぱすっと横たわった。メキメキ言っていた癖に、それは柔らかくて、真っ白で、温かくて。

 それは忘れてしまった誰かのようで、泣きたくなった気がした。

 しかしそんな気持ちも段々遠ざかる。それでも微かに残る思考が呟く。

 大切だったものから、もうどうしようもなくなってしまったものから逃げることは、罪、なのか?

 でもその答えは此処にはない。


「おやすみ、ロウ」


 全ての答えは遠く遠く彼方に置いてきてしまったから――。




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