039○彼方の問【黄泉】
「おい、大丈夫か?」
そんな声が降ってきて、一気に意識がはっきりしてきた。重い瞼を持ち上げると、シランさんがいた。首を巡らせるとなんだか薄暗くて埃っぽい。空気の重たい場所だな、と思った。
とても狭い部屋で……倉庫、なのだろうか。何か置かれていた跡だけが床に残されていた。扉は一つだけで、天井には電気の灯があったが点いておらず、真っ暗だ。よくシランさん動けるな、と感心してしまう。
しかし……そもそも私はなんで寝ているんだっけ?
「寒いのか?」
「……少し」
なぜだか体中がだるくて寒気がした。温かい布団で寝たい。ここはどこ? どうしてここにいるの?
私が不安な気分で視線をさ迷わせていると、シランさんが仕方ない、と言って服を脱ぎ出して仰天した。
セーターを脱いで、次にワイシャツまで脱ぎ出すからもうびっくり過ぎる。
「なな、ななな何をしているんですかシランさん!? 変態ですか!?」
「……酷い」
しかしシランさんもおかしいと思ったのか、ワイシャツは元に戻し、セーターだけ私に差し出した。
「ほら、着ろ」
「あ、ありがとうございます……」
いきなり脱ぎ出したのは寒がった私のためだったのか……いやでもワイシャツはやり過ぎだと思いますよシランさん。
と思いながら、起き上がってセーターを受け取ろうとしたが――。
ガチャン、という音がそれを遮った。
「え?」
「あ、すまん……手足を拘束されていたんだったな。すまない、失念していた」
シランさんはすぐに納得して、勝手にセーターをコートの下に押し込むと言うか、巻きつけるという手段に変更してきたが、私にはわけがわからない。
混乱しながらも動こうと身をよじるが、鎖に制限されてほとんど動けず、起き上がることすらできない。
しかも両手首と両足首に手錠をつけられ、後ろで一ヶ所にまとめて鎖で壁に繋がれているらしかった。恐らく鎖は30cmもない。
「な、なな――」
「……すまない、本当に」
シランさんは目を伏せ、やるせなさそうに言った。
セーターをコートの下に入れ終えたシランさんはコートの前を閉め、私の下に敷かれているシランさんのコートの袖を引っ張り、私の体を包むように結んだ。
それでもまだ、寒い。
そして違う理由でも震える。
シランさんがいなかったら発狂もののシチュエーションだ。磔でなかった分僅かにマシだが、十分過ぎる程に身動きが取れない、この状況。
私のトラウマ、ドストライクじゃないですか。
「……大丈夫か?」
「一、応……」
震える声で答えると、シランさんが項垂れた。
「すまない……俺は無力だった。見ているだけだった……」
そんなシランさんはシランさんで顔色が悪かった。ここは人間には寒いのでは、と思い至り、慌てて声を上げる。
「あの、セーターもコートもありがとうございます。でもシランさんが着てください」
「いや、いい」
「でも顔色が――」
「……それくらいは、させてくれ」
悲痛な声で言われてしまっては、それ以上は何とも言えなかった。
暫く沈黙が続いた。
沈黙は怖かった。
私は恐怖から逃れるように問いを投げた。
「あの、心配では、ないんですか? シン君とロウ君のこと」
それは放物線を描くようにシランさんへ飛んで行き。
「ああ」
迷うことなく、すぐ様打ち返された。
私は目をしばたたかせる。さっきまでの落ち込みなんてなかったかのようにシランさんは即答した。あまりに淀みなく、迷いない答えに、私は呆気に取られる。
「どうして……?」
「もう言っただろう。あいつらは簡単にはへこたれないし、間違いなく強いからだ」
猪突猛進だったり、泣き虫で馬鹿だったりするけどな。
なんて付け足すようにシランさんは言った。
「自分より強いから、ですか?」
「それも、あるんだろうが……それ以上に心が強いと知っている」
「シン君、シランさんのことで凄く弱ってましたが?」
「……それとこれとは、別だ」
気まずそうに視線を逸らして答えるシランさん。しかし言葉に淀みはない。
「ずっと一人で戦ってきたから、って言っていたことですか?」
「ああ。弱かったら出逢えなかった。あいつらは負けなかったから出逢えたんだ。その必然を、俺は信じる」
「強がり、では……?」
失礼かもとは思ったけれど、自然と口をついていた。
「独り善がりな信頼だとは、思わないんですか?」
「思わなくもない」
即答。これまた迷いなく、だ。
ぽかん、となる。
「俺が安心したいがためにそう思い込んでいるだけかもしれない。否定はしない」
「そんなので、いいんですか?」
シランさんはきょとんとした顔をすると、少し考えるように虚空に視線をさ迷わせていたが、すぐに私を見据えて言った。
「……別にいいんじゃないか?」
「もし、捕まってしまっていたら?」
恐る恐る私は問うが、シランさんは相変わらずなんでもないように答えるだけだった。
「なら後で言えばいい、どうしてとっとと逃げない。逃げの天才にでもなるくらいの意気込みで逃げろよお前ら、って言う」
「そ、そんな無体な……」
「まあ……」
と、いきなり遠い目をしたかと思うとシランさんはぼそりと、悲壮感たっぷりに言った。
「多分逆に怒られるんだろうな、俺が……あー」
呻いて頭を抱え出すシランさんに、やっぱり私はぽかん、とするしかない。
自信たっぷりにあいつらは大丈夫だとかっこよく言い切ったシランさん。
独り善がりでもいいと言えてしまう不思議な強さを持つシランさん。
そして今、シン君たちに後々怒られることに頭を悩ますかっこ悪いシランさん。
あまりに違う雰囲気で、あまりに違う内容に私は呆気に取られ、そして。
「ぷふっ」
「……笑うな。真面目にどう謝罪するか今のうちに考えておかなければ後が怖いんだぞ」
言葉の通り、不機嫌そうにつり上がった黒い瞳は真剣そのもので、それがより一層おかしかった。
「ふふ、あは、あははっ、シランさんたらおかしい!」
「おい笑うなと言ってるだろう!」
ふて腐れた顔を少しばかり羞恥心で赤く染めたシランさんがやっぱりおかしくて、私は暫く笑って堪えて、また堪らずに笑って、笑って。
ちょっと気が楽になった。
「…………落ち着いたか?」
「はい、ええはい、ぷふ……はい、大丈夫です。すみませんでした」
「……まだ顔が笑っているぞ」
今にも頬を膨らましてふて腐れているということを教えてくれそうな、そんな不機嫌の滲み出る言葉は笑いの再発を誘うようだったが、なんとか堪えた。
「ほんっとうにすみませんっ」
「……まあいい」
「でもやっぱりシランさんってハルさんに似てますね」
シランさんは顔をしかめて首を傾げたが、私は思いつきのまま続けた。
「ねえ、もしシランさんがハルさんの立場だったら、どうしますか?」
「……まず、似てるか?」
「はい。なんだかんだで面倒見が良かったり、とてもとても優しくて、超をつけて良いお人好しさんなところとか、行動力ありそうでなくてうじうじしやすいところや――」
「……それは共通点を述べているのではなく二人同時に貶しているだけじゃないか?」
全く予想だにしない意見に私は飛び上がった。鎖の立てる悲鳴のような音にシランさんが更に顔をしかめる。
「ええ!? す、すみません。そんなつもりではなかったんですが……」
「……まあ否定は出来ない。謝らなくていい」
「はい……いえ、すみません」
再び沈黙。
鎖の悲鳴の後だから尚更その静寂は痛かった。しかし流石にまた私から話すことは憚れ、冷たく静けさに体が凍ってしまうんじゃないかと思いすらした。
しかし不意に。
「俺があいつだったら、か?」
「え……あ、はい!」
シランさんから話し掛けてくれるとは思っていなくて、慌てて言いたかったことを数分前の記憶から私は掘り起こす。
「ええと、例えば、例えばですね! シン君と二人で暮らすシランさんの下にロウ君がやって来ます。しかしなぜかシン君の差し金で近所の子供たちがロウ君を苛めているということをシランさんが知ります。もしシランさんならどうなさいますか?」
今の状況を例えたつもりの架空の設定の問いを投げ掛け、シランさんの顔を覗き込むと。
呆けた顔のシランさんがいた。
「……まず他人に指示を出してしかも苛めなんてことをするシンが想像できん……よく考えついたな」
「なんか感心するところ、間違ってませんか……?」
つい呆れた視線を送るとシランさんも気づいたのか、ちょっと落ち着いたいつも口調で謝った。
「あ、いやすまん。そうだな、例えだよな。もしそうなら――」
数瞬、視線を宙をさ迷わせると、シランさんは真っ直ぐな眼差しを私に向けた。真摯な黒い瞳は宇宙を映したみたいに厳かな光が在った。
「真意を問う。関係者全員を有無を言わさず並べて訊く。どうしてそうなったのかと」
私はにっこり笑って答えた。
「シランさんらしいですね」
「でもハルはやっていないだろう? 似てないんじゃないか?」
例えはちゃんと伝わっているらしかった。しかし私は首を横に振る。
「いいえ。私の例えが悪かったんですね。だって規模が違う。ハルさんがもしそれをやろうと思ったら、組織に関わる人全員を集めなくてはなりませんよ。シランさんだってそれは無理でしょう?」
「それは……まあそうだな、不可能に近い。しかしやろうと思えば無理でもないだろう?」
人望はあるようだし。
あっけらかんと言ってしまえるのは当事者ではないからなのか。
シランさんは澄んだ眼差しで続けた。
「それにそもそも、あいつは多分周りが見えなくなっているんじゃないか?」
しかし少し後ろめたそうに視線を反らしたシランさんは一言付け足した。
「――俺のように」
「あ、自覚はあったんですね。ちょっと安心です」
「……結構気にしているんだからそんな気楽に言わないでくれ」
軽く、じゃなく落ち込んでいる模様だった。ロウ君の言葉はちゃんと伝わっていたんじゃないか、と改めて思う。
「とにかく、だな。別にハルに限った話じゃないが、なんだかここの連中は周りが見えてないやつらばかり、馬鹿ばっかりらしいし……俺が言えたことじゃないが敢えて言わせて貰うと、皆逃げてるだけだ、ってことだ。誰かを理由にして、一人相撲してる阿呆共だ」
「シン君のことばかり考えてるつもりでシン君を一番ないがしろにしていたシランさんとしての見解ですか?」
「……ヨミ、実は根に持っているのか?」
シランさんが冷や汗だらだらに訊いてきたので、ちょっと悪戯心がむくむくと立ち上がってきた。
「そうですねぇ……とりあえずはシン君に謝るところを早く見てみたいですね〜」
「ああ謝る。謝るからそれ以上追及してくれるな」
もう穴があったら入りたい、みたいな主張が全身から出ているシランさんは顔を片手で覆い、右手を「ストップ」と言いたげに突き出していた。
かなり反省している模様なのでちょっと満足。
「ふふ、大丈夫ですシランさん。そんな怒ってませんよ。冗談です、四割程」
「それはもはや冗談と言わないだろ!?」
六割か、六割本気か! と恐れ戦くシランさんに、これも冗談ですよ、と伝えた。うん。シランさんって変に真面目だからからかうと面白いなぁ。
「そう、か……」
胸を撫で下ろすシランさん。
一息ついて静かになり、私がぽつりと呟いた言葉はやけに響いた。
「『誰かのために』って楽な言い訳ですよね」
死んだ兄弟のために。
生き続けなきゃ、強い身体を持って独りだけ生まれてしまったことに意味を与えなきゃ、と思った。兄弟が死ななければならなかった理由になるように、なんて罰当たりなことも思った。
それが私を苦しめたけど、それが私を生かしもした。
泉さんのために。
そう思って図書館の手伝いをしている内に、怖かった人間とも表面上普通に接することができるようになった。
『誰かのために』
それは世界を広げるきっかけだったり、生きる理由にもなる。
でもずっとそれにしがみついていたから、生きなきゃいけないという想いに死にたくなったことがあるし。
図書館から離れられず、どこにも行こうとしない、新しいことをしようとしない、何も変われない独り善がりな強さになってしまった。
それはとても盲目的な生き方で、それは弱さだということはこの間思い知らされた。
『誰かのために』という言葉は高尚で優しいものに聞こえるけど。
実際はただの依存で、自分の理由を誰かに押しつけた、自己満足。
「別にそれが悪いとは言わない。ただそれだけを拠り所にするな、言い訳にするな、と言いたいだけだ……主に自分に、な」
自虐的だなぁ。
苦笑のような呆れのような顔をしていたら、シランが苦く笑んだ。
「すまないがこういう性分なんでな」
「それはわかる気がします。でも、何でもかんでも自分のせいにするのも良くない気がしますけどね」
「何事もバランスが大事、ということかね」
でもそんな風に背負い込みやすい人なのに、あいつらは大丈夫だ、と言えるのはそれだけの確信があるんだろう。
なんだかとても羨ましく思う。
「ねえシランさん」
なんだ改まって、と訝しげなシランさんに私は問う。
「誰かを信じる秘訣ってなんですかね?」
するとシランさんは十分くらい悩みに悩んでから、長々といろいろな考えを並べてから最後にこう答えてくれた。
「――結局はそう」
嬉しそうに。
「そいつがどれほどの負けず嫌いなのかを知ること、だな」
誰かさんの笑顔のような顔をして。