037○弱虫心【真】
なんだ、これ。
「飲んでくれますよね? シンさん」
簡単に説明するなら。
まずロウが倒れた。
シズカにお茶に誘われて、出されたお茶に何か入れられているとロウが気付いて。そこからロウがすらすらと挙げた推論では何故かシランとヨミがピンチらしくて。呆然として、我に返って、どうしようって手にしていた毒入りのコップを食い入るように見ていたら。
ロウが急に倒れたんだ。コップの中身なんて飲んでないのに。
どうして?
そんな風に思考停止状態になっていたら何か嫌な感じがした。無意識に頭を下げたら、頭上の空気を何かが突き刺して通り過ぎた。
「ひ、ひぃ……」
「駄目ですよ、避けては」
眼球がひっくり返りそうな勢いでシズカに目を向けると、手には何か小さな小さな矢のようなものを持っていた。
あれのせいでロウが倒れたのか?
血の気が退く。
「ななんで、シズカがそんなことすんだよ! やめてよ……」
「申し訳ありませんが仕事なんですよね。大人しく毒を受けてくれませんか?」
シズカは矢を手の中で転がし、遊びながら、そんなことを提案してくる。オレは愕然とした。
「そんなこと出来るか!」
「じゃあロウさんが死んでもいいんですか?」
「――――!?」
シュッ、と再び空が切られたが、動揺の中でも無意識に手が矢の襲来を弾いていた。
「そうですか、ロウさんの苦しみなんてどうでもいいんですね、シンさんにとっては」
「違う! でも……」
「そうですね、本能的に防衛してしまうのは仕方ありませんから……ではそのお茶を飲んで貰えませんか?」
「…………はあ!?」
「そうしたらロウさんを助けてあげますよ。多分ほっといたら危ないですからね。解毒剤を処置しましょう」
オレが食い入るようにシズカを見詰めていても、シズカは涼しい顔で続けた。
「取引です。どうしますか?」
そうしてこの状況は出来た。
…………もう、やだ。
目の前にあるコップに入っているのは本能が危険だと警告するもので、絶対に口に入れるべきでないものだ。
でもロウが倒れてて。
助けたければ飲んでください、って冷たい目でオレを見てるシズカがいて。
コップを持って立ち尽くすオレがいて。
他には誰もいない、だだっ広い部屋の全ての音は、床にべったりと張り付いた絨毯に呑まれていくのみで。
助けてシラン! って叫びたくても喚きたくても、この空気がそんな抵抗の気持ちさえも呑み込む。
それにだってシラン、捕まっちゃってるんだ。助けに行かなきゃ、なんだ。オレが、助けなきゃ……オレが、守るんだ。
そう決めたじゃないか。約束したじゃないか。
なのにどうしてこんなに震えるの?
やだよ。こんな危ないもの飲みたくない。ロウを助けたいけど、だって、だってだって!
怖いじゃないか!
どうなるかわからない。最低限わかることと言えば、危険で悪いことしか起きない、ということだけ。
怖いよ。飲むの、怖いよ……。シラン……。
助けてよぉ……。
「どうしたのですか? ロウ君を見殺しにすることに決めたのですか?」
びくり、と肩が震えた。シズカの禍々しくさえ感じる瞳がオレを見据える。
見殺しに、決める。
だって多分飲んだらオレは動けなくなる。シランを助けるのが難しくなる。
シランは絶対助けなきゃ。
ロウだって、絶対……なんだ。
……いやだ。いやなやつだ、オレ。シランが大事。だからロウを見捨ててもいい? 見捨てるべき?
そんな訳、ないのに……。
そんなこと、良くないのに。
でも考えてしまう。選択肢があるから。
体が震える。涙が今にも溢れそうだ。汗で身体中が気持ち悪い。
だって今目の前にある選択肢は二つ。
オレが毒を飲んで無力化されて、安心したシズカがロウに解毒剤を使ってくれて、二人揃って捕まるけど、ロウが助かる。
もう一つはオレが拒否して、シズカを倒して、ロウを抱えて部屋の外にいるやつらも蹴散らして、逃げてシランを助けに行く。
――途中でロウが、死んじゃうかもしれないけど。
わからない。ロウは普通の人より丈夫なはずだ。でも万が一、解毒方法も見付からず、連れ回した末に――。
それは、いやだ!
だったら目の前にある、確実にロウを助ける方法を選ぶべきだ。
でもオレたちが動けない間にシランが酷いことされたら? 最悪殺されたら?
無理だ。死んじゃう。オレは無理だ。そんなの、そんな世界、いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや
「シンさん?」
はっ、と我に返る。
シズカが間近にいて、と言うか支えていた。オレの両腕を掴んで、オレの赤銅色の瞳を覗き込んでいた。オレはびっくりして目を見開く。
「息くらいしっかりしてください。薬を飲む必要なく倒れてしまいますよ?」
そう言ってからシズカはパッと離れた。二歩ゆったりと後ろに下がる。
チャンスだった、と思う。シズカを人質に取って、無理矢理解毒剤を渡すように言ったり出来たかもしれない。けど、オレは間抜けな顔をして見送った。でも。
急に気付いてしまった、第三の選択肢。
そう、今からだって出来る。シズカはただの人間なんだから、出来るだろう?
ドラゴンのオレなら。
でも……いやだ。オレは、人間がいい。
でも自分が。自分じゃないような自分がまた言う。いつも寝てる心の真ん中にいるドラゴンとも違う自分が言う。
お前はドラゴンだ、と。
どうしようもなく紛れもなくドラゴンであると。
また息が詰まる。今度はちゃんと認識出来てるが、なかなか上手く息が吸えない。冷や汗が酷い。下手くそな呼吸が何とか叶った時。
ガッ、と足首を掴まれた。
オレは息を飲んで足下を見た。月が、見てた。
「シ、ン……」
顔は真っ青で、唇なんて紫の強い薄い赤だ。青みすら混じる。なのに黄玉の、月のような瞳は強い光を湛えていた。いや、今にも消えてしまいそうな光だ。でも、揺らぎながらも、微かに残る意思の灯火は強く、激しく灯り続けていた。オレはそんな瞳に釘付けにされる。
「だ……め、に、……て――」
足首を握る手は最初の加減を知らない強さはなくなっていた。それでもロウは懸命に顔を、立っている阿呆みたいなオレに向けて、泣きそうな顔をして言った。
わかってる。わかってるよ。
ロウは飲めなんて言わない。だめ、逃げて。そうだよ、わかってたよ。
ロウは守りたいと痛いくらい願って思ってる人だから、逃げろって言うのはわかってる。
そしてもしロウとオレの立場が逆だったら、ロウは迷わないだろう。オレは助けてと泣いて頼んで、きっとロウは悩むことなくあっさりと「うん、助けるよ」なんて言って、飲んでしまうんだろう。微笑みながら。
シランだってそうだ。きっと何にも迷わないんだろう。オレが泣き言を口にする間もなく飲み干してしまうに違いない。
わかってる。痛い程、わかってる。二人だったら絶対に助けようとしてくれるって。オレみたいに弱虫で薄情で人でなしな、今にも泣きそうなことには、ならないんだ。
でも怖いんだよ。
勇気が出ないんだ。
戦うだけなら良いのに。いつだって怖いけど、大丈夫、オレは強いんだって言い聞かせれば何とかなったんだ。
でもこれは違う。
勝つ見込みはないし、第三の選択肢もやっぱり確実じゃない。もしかしたらシズカなんてここの人にとっては大事じゃなくて、全然だめかもしれない。わからないよ。
何が最善?
何が最悪?
シランを助けるか、ロウを助けるか、両方助けるか、誰も助けられないか。
やだよ、やだよ……。
でも。
オレはロウを見た。もう力尽きて、床に伏せ、目も閉じ切ってぐったりしたロウを。もう掴む力もなく、足首にかかっているだけの手を見る。
でも、でもさ。
多分、わかった。
だってオレ、ロウが居なくなってもだめなんだ。
だめだぞシン、と優しく諭してくれる。シン大丈夫だぞ、って力強くてあったかい笑顔で言ってくれる。そんなロウが大好きなんだ。居なくなっちゃ、だめなんだ。
絶対に。
それに、だってさ。
誰がこんなに小さな手を振りほどけるって言うのさ。
「シズカ」
「まだ、そう呼んでくれるんですね」
「当たり前だよ、だって」
オレは笑った。
自分の気持ちにやっと気付いたから。そうなんだ。オレの名前を最初に呼んでくれたのはシランだった。始まりは紛れもなくシランだった。
でも、今のオレを支えてくれてるのは、オレをオレにしてくれてるのは、シランだけじゃない。
オレに光をくれている人は、シランだけじゃないんだ!
気付いてしまえば、そして守りたいって思いに腹をくくってしまえば何てことなかった。だから、オレは笑って答えた。
「信じてるから」
オレはコップを傾けた。