034●ただそれだけを願って【陽】
三章前半戦がこれにて終了します。
ハルの思いを詰め込んだ三十四話です。
『大丈夫です。もしハルさんが道を逸れそうになった時は、私が教えますから。遠く離れてしまったら難しいと思いますが、でも今は私がいます』
ああ。
『だから大丈夫ですよ』
うちが言った言葉や。
美智乃に、うちが……。
懐かしい記憶はいつも鮮やかな緑の翼と共に――。
「本当について来るつもりなの?」
九年前。
短く切ってしまった髪をなびかせ、振り返る美智乃。凛とした表情になかなかそのショートは似合っていた。切ったと聞いた時はショックだったが……結構、いやかなり似合っとるなぁ。
そんなことを考えていたら酷く嫌そうな顔をされた。
「私は真面目に話しているつもりよ。……その顔やめなさい」
「だあって美智乃の可愛さがもう尋常じゃないんやも〜ん。にやけるしかないやん! ああこれがギャップ萌えっつうやつかいな〜」
「だらしないし、気持ち悪いわストーカー」
「ちゃうちゃう、ボディーガードやボディーガード!」
どうしてもニヤニヤしてしまううちに嫌気が差したらしく背を向けられてしまった。でも髪が短くなって見えるようになったうなじがたまらんな〜、とか考えてたら何故か振り向き様に殴られた。
「なんでや!?」
「……変質的な視線を感じたわ」
「変質的やない! まっとうな性癖、あるいは趣味による視線や!」
「……変態ね」
「別にええやないか減るもんでもあらへんし」
「汚されるわ」
「汚れへんわ! むしろ浄化してみせる!」
「……はぁ。バイバイ」
「せやからうちも行くってば!」
慌てて美智乃をとおせんぼするように前に立つと、美智乃はくすりと笑った。
「変な顔ね。さっきよりは一千倍くらいマシだわ」
「うちどんだけ変な顔やったの!?」
「そうね、まさに犯罪を犯している真っ最中の犯罪者の顔だったわ」
「うち犯罪者!?」
ガーンとショックを受けていたらまた笑われた。
「冗談。娘をイヤらしい目で見る父親くらいよ」
「十分最低やん!?」
「これで懲りたらもうだらしない顔はしないで。出来ないなら連れて行けないわ」
「んなアホな!」
美智乃を見てデレデレしないなんて難しい……丸一日動くなと言われる倍くらい難しいでえ……命題かもしれへんぞ。
でも……うちは行かなあかんのや。
美智乃の爺ちゃんが四日前に倒れた。
その翌日、爺ちゃんの遣いの人が来て、万が一の時に渡せと言われていたという手紙を置いていった。中身は簡潔で、要する必要もなく、自分の居ない間の新日本政府を頼むというもの。
美智乃の爺ちゃんは新日本政府の総司令官だ。同封されていたのは美智乃への総司令官代理の辞令書だった。
美智乃は全く迷わなかった。うちも迷わなかった。だって約束していたから。ずっとずっと昔から。
「そうやな。頑張るわうち。だから連れてってや、美智乃。美智乃は約束破ったりせえへんやろ?」
「貴女が一方的に押し付けたようなものじゃない」
「イシシ、そうやったっけ? まあええやないの。護衛がおった方が気が楽やろ? うちは約束守るで!」
「約束、ね……」
「そうや。うちが美智乃の代わりにズバーって突っ込んでって、ザッパーンとビュンビュンボコボコやりまくってな、そんで美智乃がやりたいのはこういうことなんやー! って皆に伝えるんや。皆守るんや! な!」
にひひ、と笑うと何故か美智乃にため息を吐かれた。な、なんでや?
「変わらないわね……流石にの擬音語連呼からは卒業しなさいよ。四年も前のをそのまま言わなくても……」
「あれ、五年前やなかったっけ? ……まあとにかく昔やな、昔」
「まあ貴女も大分マシにはなったわ。あの時は連れていくなんて考えられなかったし。不眠症の人なんて連れていけないと思ったわ」
昔のことをほじくり返されて顔が真っ赤になる。あれは人生最大の汚点やわぁ……あれや。まさに若気の至り。結果オーライっちゃオーライなんやけどなぁ。
「もう無理はせえへんからさあ……その話題は出さんといてえな」
「貴女の行い次第かしらね」
「そんなぁ……」
クスクスと笑う美智乃が楽しそうなのはいいが、軽くトラウマを掘り返されて、うちは傷心ですよ?
しかし直ぐに笑いを引っ込めると、美智乃は意味深な笑みを浮かべた。
「でもそうね、そうなんでしょうね……」
「へ?」
「きっと私独りで挑んでも無駄ってことよ」
「そんなことあらへんやろ。美智乃やし、それに孫娘やしな」
「でも祖父の人望で集まった人は多い。そこに孫娘ってだけの私が行って納得してくれるのは極一部よ。まずは信用を得なければならない」
「美智乃がなるより『うちがなった方がマシ!』って思うやつが居るかもしれんってことか?」
「居るでしょうね当然」
薄く笑みを浮かべる美智乃にちょっと釈然としないものを感じた。まあ美智乃らしいっちゃ美智乃らしいが……。
「そんなケンカしに行く訳やないんだし、そう構えんでもええやん。な?」
すると美智乃は仕方ないとばかりにため息を吐いた。しかしどこか楽しげで嬉しそうに見える。うちが首を傾げると更に笑みが深まった。
「なんやなんや?」
「やっぱり私だけ行ってもダメね、って思っただけよ。ケンカはしないわ。大丈夫だから情けない顔もしない」
「えー、そないに情けない顔になっとる?」
顔をぺたぺたと触って確認をしていたら、美智乃に眉間を押された。
「ひゃあ」
とたたらを踏むうちに、また笑い出した美智乃が諭すように言う。
「眉はピンと元気良く跳ねさせてなさいな。こんな風に落としちゃダメよ」
「ふえ〜い」
「返事は伸ばさない」
「イエスッ、マム!」
「日本語で」
「はいっす!」
「……まったく。相変わらずね、貴女は」
困っちゃうわ、と言いながらも楽しそうに柔らかく笑んでいるのを見て、うちはほっとする。
やっぱり笑っていて欲しい。怒ったり、困ったり、はにかんだり、呆れたり、泣いたり、疲れたり、照れたり、しかめたり。そんなたくさんの表情は大事だ。でも最後には笑っていて欲しい。辛いことがあっても最後に嘘なく笑えるのが、一番のハッピーだとうちは思っている。
でもやっぱり笑っていて欲しい。大切な人は尚更、ずっと笑っていて、笑顔でいて欲しいんや。これはうちの我が儘やけど……うちはそう在って欲しい。
美智乃に笑っていて欲しいよ。
「貴女が本気で着いてくるつもりなら、言っておかなければならないことがあるわ。貴女には知っていて欲しいの」
しかしちょっとだけ笑顔が陰る。心の中では気になって気になってしょうがなくて眉を潜めたいくらいだけど、うちまでそんな顔をしてたらいつまで経っても美智乃は笑顔になれないから。
だからうちは笑顔で応える。
「当たり前やろ! うちは本気や! なんや、何でも聞くで?」
「ありがとう……あのね」
美智乃は空を見上げた。釣られてうちも顔を上げる。けれど黄昏時の空は曇っていて――。
「何にも見えないわね」
「そうやな……って、何が言いたいんや!?」
あんまりにも普通の調子で言われたのでついツッコンでしまった。美智乃はおかしそうにクスクス笑っているが意味がわからない。うちがクエスチョンマークだらけになっていると美智乃がごめんなさいと言うとすっ、と腕を伸ばし、あるものを指差した。それは。
「夕陽?」
「太陽よ」
「まあ、そうやけど……えーと」
困惑顔で美智乃を見ると、うっすら微笑んで彼女は答えた。どこか寂しげに。
「例えるなら貴女は『太陽』なの」
「……まあうち、陽やしなぁ」
「名前は関係ないわ。ただ貴女が太陽のようだというだけ。そして私はね」
今度は空に腕を伸ばし、ピンと人差し指を立てた。例えるなら、って話なんだよな。なら……。
「北極星とか?」
「私はそんな人を導けるような、どんな人でも道を指し示してあげられるような大層な人間じゃないわ」
澄んだ声、淀みない答え。けれど何だか寂しく思った。
誰も迷子にならないように。勉強した人もしてない人も。得意なことがある人もない人も。どんな人でも。ちゃんと導ける人に私はなりたいの。そのためにたくさんの本を読んで勉強しなければならないのよ。
そう言った美智乃を見て、うちは本で読んだ北極星みたいだと思ったんや。だけどそれじゃあ――。
「前に言ってたこととちゃうやんか……」
「人は変わるし成長するわ。昔の発言は自分を知らなかっただけ。私が言いたいのはね」
「……うん」
「私は月だと言うことよ」
うちにはその答えは意外で、目をぱちくりさせた。……月なぁ。
「どういう意味や」
「月はね、太陽の光を反射してるだけなのよ。ただ、それだけのこと」
見えない月を探すように空を見詰める美智乃はそんなことを言った。どういう意味なんや? と再度首を傾げる。
月はいつも雲に隠れている。在ることは知っているし、滅多にないが雲の切れ間から見えたりする。しかしそうして知る月のイメージは儚い。うっすらと白く光っていたり、鈍い金色に輝いていたりするが、やはり薄い雲越しなのでぼんやりとしか見えず、何だかあやふやで不安定なもの、という感じだ。探さなければ見付からないような、弱々しく儚いもの。
それが美智乃やって?
なんか……ちゃう。んー。
「なんやようわからんからうちなりな解釈で言うとな」
「え?」
答えとか意見なんて期待していなかった、みたいな驚きの顔で見られてちょっとショック。しかし確かにあれだけじゃわからないし、もう説明する気配がない。だから勝手解釈で言いたいことを言うまでだ。
開き直ると少し軽くなる。自然とニシシと笑っていた。
「月だろうが太陽だろうが北極星だろうが、うちは美智乃を見てるよ。もし隠れて見えなくなってもうてもちゃんと探すからな。だから安心してええで!」
そう、そう解釈したのね。
小さく美智乃が嬉しそうに、どこか満足気に呟いた。それからうちを見て言った。
「……なら、私が間違えないように見ていてくれないかしら」
「おう見てるで。大丈夫。独りだったら不安でも、二人だったら安心やで。美智乃が美智乃らしくなかったらちゃんと教えるから、美智乃は胸張って皆に言いたいこと言いまくるんやで」
大丈夫。
「うちがついてるんやからな!」
「じゃあ……頼らせていただきましょうか」
その時の美智乃のはにかみ顔が最高だったことを記憶の奥の奥に今でも大事にしまっている。
でも。
『貴女には知っていて欲しいの』
そう言った癖にその後はいくら訊いても『月』である理由は答えてはくれなかった。その意味を知ったのは入隊して随分経った頃だった。
理解して欲しくはなかったの、美智乃……?
● ● ●
ぼんやりと明るくなっていく視界を薄く細く、開いているかすら怪しい瞳で見送る。瞼が重い。
「大将さん大将さん。朝のミーティングに遅れちゃいますよ?」
「あう……あと一分」
「本当ですか? じゃああと一分で実力行使に移りますよ? 良いですか?」
「うい〜」
明るくなってくるのが嫌で寝返りを打つ。誰かの悪態が聞こえた気がした。暫しの微睡みの時間。
しかしそれも長くは続かない。
「参りますのですよ〜」
空気が一刀両断された。
「うおお!?」
一瞬、殺気でささくれ立った空気に叩き起こされるようにうちは転がった。さっきまで頭があった場所には薙刀が置かれている。てか振り下ろされている。因みにベッドは無傷だ。何故なら現在、うちが安眠を貪っていたベッドは最早ベッドではなくただの鉄板が敷いてあるだけになっていたから。
特注品なんやって、凄いやろ? 一枚板を抜くだけでただの鉄板の台になるんやで。これなら薙刀を振り下ろしても安心安心〜。
って、何の需要があるやあ!
まあ答えはうちを起こすためなんだけどな。ようこんなもん引き受けてくれたなあ職人はん。そう思った。
まあとにかく今寝惚けていたうちは殺されかけた訳で。
「なあ〜、もうちっとばかし手加減せえへん? 今の避けなきゃもろうちの頭が真っ二つコースやったやんけ、ちづちゃん」
「でも大将さん、手加減すると適当にいなしてまた寝ちゃうじゃないですかぁ。仕方ないのです」
ウンウン、と可愛らしく小さい丸っこい顎をコクコク上下させる小柄な女の子がいた。手には物騒な薙刀。身に付けているのは若草色の新日本政府の制服。胸には鳥の紋章のワッペン。右腕には黄色い腕章があり、「第二部隊長補佐官」の文字。柔らかに波打つ明るい栗色の髪の上には、制服と同色のベレー帽がちょこんと乗っていた。
「朝なのですよ。早く支度してください」
腰に手を当て、少し膨れた顔をしてみせる彼女はちづちゃん、五辻千鶴子さん、という。何だか生まれつきの明るい髪色と名前の和風色の強さの食い違いで妙なことになっているが、可愛いから良いと思う。うん。
二十五歳にはとうてい見えない、コンパクトでキュートな彼女をぼへー、と見ていたら薙刀を向けられた。
「またわたしがボス様からお怒りを頂いてしまうじゃないですか。しゃきしゃき動いてくださいよ、お願いしますよ大将さん〜」
「……いつの間にボス『様』と呼ぶようになったんや?」
「大将さんのせいですー」
ちょっと泣きそうに目を潤ませて訴えられる。申し訳なさでいっぱいになったのでもぞもぞと動き出した。
毎朝毎朝ミーティングって面倒やなぁ、と思いながら欠伸を噛み殺す。でも部隊長なので渋々出る。とことん朝に弱いので大抵遅刻気味だが。
「悪いとは思っとるんやで?」
「態度で示してくださいー」
「ごもっともやなぁ」
「も〜」
怒っているちづちゃんは可愛いのでつい顔が緩む。可愛いを愛でるのに年上だとかは関係ないんや〜。
「デレデレしないでください。はいこれで最後です」
「さんきゅっ」
制服をきっちり纏い、ちづちゃんから受け取った制帽をぽんと頭に置けば終了だ。まあミーティングん時しか被らへんけどな、帽子。
三編みよし、着替えよし、えーと。
「これが今日の資料です。あとこれ、チェックの付いているところが多分今日必要なところです。着くまでに軽く目を通してください」
「ありがとう〜」
薄手の冊子二冊を受け取る。有能な部下を持ててうちは幸せやなぁ、と思いながら自室を後にした。
● ● ●
そう言えばあの後、ヨミと友達になった後の話だけど。
ヨミはすかさず三人に「友達になってください」宣言をした。
多分今まで『友達』というものを知っていても実感のある理解にはなっていなかったのだろう。明確に『友達』という存在が生まれたから、それに近い存在であった三人にも『友達』という自分にとって嬉しい、好きな存在であるという認識に入れたかった。だから、今になっていきなりシンらにも言い出したんだろうなぁ、とうちは勝手に解釈した。
それに対する三人の反応はと言うと――。
「うん、いいよ」
「えあ、うん! 喜んで、なんだぞ!」
「得はないが」「損得なんて関係ありません!」「……好きにしろ」「ありがとうございます!」
なんてやり取りがあった。
続いてうちが「友達になってや!」と三人に突撃すると。
「もちろんだぞ!」
「まあ、怪しいけど悪い人ではなさそうだし……いいよ?」
「……本気か?」
「なんでそないにヨミん時と反応がちゃうの!? シンだけやないかまともに対応してくれてはるの!」
えへへ、と照れたシンが幼げでちょっと可愛かったが、顔立ちからしてまだ幼いはずのロウはちょっと偉そうで全く可愛くなかった。うろんげにうちを見てきたシランは論外やな。
「シラン! うちは本気やで!」
ズン、と迫るとシランは仰け反った。これは面白いし少しだけ可愛いげがあっていい。しかし直ぐに落ち着きを取り戻すとシランは咳払いをした……なんかシランって若さ足りん感じするな、挙動からして。とにかくシランは咳払いすると言った。
「俺と友達になってどうするんだ」
「友達するだけや。仲良うして、助け合って、笑い合う仲になりたいんや!」
「……どうして俺なんだ。ヨミだけで良いじゃないか」
「全員や!」
うちは迷わずピシッと人差し指をシランに突き付けた。てか額にぴったり付けた。
「は?」
「ヨミ、シン、ロウ、シラン! 全員うちが何とかする! やから繋がりを作るんや。信用して貰うために必要なんや!」
「……指差すな、くっつけるな」
椅子に座るシランが下から睨んでくる。普段の目付きの悪さと今の不機嫌オーラと相俟ってかなり怖い。
でもシランは払ったりしなかった。じっと待つだけ。
面倒なのかもしれないが、嫌なことは嫌だとはっきり言ってどけそうなものだが何もしない。多分相手が女だからもあるんだろう。でもそれをシランの不器用な優しさだと思った。
「何を笑っている、どけろよな」
「ひひ。やっぱり友達なりたいよ、紫蘭君とはな」
シランは憮然とした顔で、もう睨むと言うより呆れたような顔で、半眼を向けていた。
「一応言っておくが……ろくなことにならないと思うが?」
「ろくなこと?」
おうむ返しに訊くと、シランは俯いてモゴモゴと何か言った。相性がどうのこうの、何々だから堪えられる気がしな……とか。
それを打ち切るようにバンバンとうちがテーブルを叩くとシランは目を丸くした。
「細かいことはっ、気ーにーしーなーいーんーや!」
グイッと身を乗り出すとシランがまた仰け反るが気にせず迫る。
「問題あったとしても何とかなるもんや。それに下手の考え休むに似たり、つうやん?」
「おい」
「あはは、怒っとるー」
「……はあ」
それでも。
どんなに呆れた顔していても、それでもたくさん考えてくれたんだろう。一瞬の気の迷いなんかで彼は決めないし口にしない。何かを決意して覚悟して。
その答えを口にするんだ。
きっと、そういう人なんだ。
「勝手にしろ」
「じゃあ勝手にさせて貰うな!」
握った白く細い手。握り返す優しい手。
その意味もわからずあの時はとにかく嬉しくてしょうがなくて握手したけど、今思えばシランは本気で考えて友達と認めてくれたんだってわかる。
あんたとの繋がりはうちの誇りなんやで、シラン。
だからそれに胸張れるようにうちは頑張らなあかんのや。ヨミにも……呆れられたかあらへんしな。
頑張るよ、うち――。
● ● ●
ミーティングは長く険しかった。
「眠かったね〜」
「眠かったで済まさないでください! て言うかですね、何のために冊子を大将さんに渡したと思っているのですか? 寝ないでくださいよお! 結局わたしが発言することになってしまったではないですかっ。情けないです恥ずかしいですぅ……」
おいおいと泣く振りをしてみせてくれるちづちゃん。うちはウンウンと頷いて。
「じゃあ今の言葉をちづちゃんが本気で号泣して言った時は真面目に起きている方法考えようか」
「今! この瞬間から考えてみてください!」
肩をいからせずんずん歩くちづちゃん。でも身長差が三十センチ近いので当然歩幅も大差が出来ている。なので普段よりちょっと歩調を上げるだけでちづちゃんには追い付いてしまう。それに彼女も気付いたようで、疲れたように肩を落とし、いつもの速さに戻したようだった。
「理不尽なのです」
「そうやなあ、うちの世話をやれって言われたら絶対イヤやもん、うち」
「自分の世話を放棄しないでくださいっ!」
「例えばの話や、例えば。いやぁ、ちづちゃんは頑張ってくれてるで? いつも有り難うな」
「感謝されたくてやっているのではありませんー。わたしはわたしのために働いているのです。そしてその仕事がたまたま大将さんなのです。そして割に合うか微妙な、でも中隊長補佐より給与がいいから渋々やっているのですー」
可愛い顔を悪そうに歪ませて、唾でも吐くようにちづちゃんが文句を垂れ流す。
そうなんだよなぁ。
何故かうちの周りに寄越される子って、有能だけど何か黒いというか、何か腹ん中に潜んでいるような、癖のある子ばかりなのだ。特に補佐官なんてその筆頭だ。給料が悪かったら寝首でも掻かれ兼ねないような、野良猫みたいな子が多い、気がする。
何だか素直で良い子は秋峰君。ひねくれてるけど仕事は出来る子はうち。淡々と仕事をこなす子は永海さん。という感じで大雑把に分けられている気がする。
因みに永海さんは三人目の部隊長だ。実働部部隊長内では最古参で、年齢不詳。てか何にも教えてくれず、とにかく美智乃の爺ちゃんが大好きな人だ。崇めていると言うべきか。
中性的な顔立ちに真っ直ぐな黒髪、黒目。腰には観月鐵が鍛えた「十刀一」。十本の刀が一本に収束したような重さ、長さ。そこから繰り出される凄まじい斬れ味は最早伝説だ。それもあってここでは観月鐵がやたら有名で、観月紫蘭召集がある程度支持されている理由である。
でも父は父、息子は息子だと思うがねえ。シランだって生業として成り立っているからには腕は良いのだろうが、父が駄目だから息子だとか、別の人間への期待をその人に押し付けるのはあまり感心しないし、うちは嫌だ。
「話は変わりますが大将さん」
「なんや?」
ちづちゃんが神妙な顔になった。うちはきょとんとしながら促す。
「大将さんはどうするつもりなのですか、ボス様――美智乃さんとの対立を」
「別に対立とかケンカする気はあらへんで。……ただ美智乃が全く話を聞いてくれへんのや。報告すらうちには書面だけで良いとか言って、いつの間にかちづちゃんに報告させて終わらせよったし。うちと会ってくれないんじゃどうしようもあらへん」
「大将さんがそのつもりでも、周りは黙ってないのですよ。この状況、大将さんが思ってる以上にかなりやばいのです」
「や、やばいって……?」
視線を彷徨わすうちにため息を吐くちづちゃん。そして当たり前のように言った。
「だって人気のある大将さんが美智乃さんを熱烈に支持し、その大将さんを上手いタイミングで昇進させて来たからこそこの組織は総司令官代理になってもなんとか回っていたのです。その二人が仲違いしたら勿論組織は真っ二つ。下手すると真っ二つどころか美智乃さんの孤立、という形で決着がつき兼ねないのです」
「そんなアホなぁ」
なんでうちと美智乃が上手く行ってないと組織が成り立たなくなってまうんや? おかしいやろ。
そんな呆れ顔をしていたらちづちゃんがまたやれやれと頭を振る。
「大将さんは全く正しく自分を評価出来ていないのでとても困ってしまいます」
「だって部隊長になったのやって、美智乃が勝手にうちを昇進げただけやん。うちに何の力があるっていうんや」
「良いですかー」
困惑するうちに呆れきったちづちゃんが、じとーとした目で見ながらコツコツと床を爪先で叩いた。いつの間にかうちらは立ち止まっていた。
「突然入ってきた子供。でも何故かとんでもなく強くて、入ってきたばかりなのに平気で戦いの最前線に出てくるし、周りにフォローを入れる余裕すらある。普段はアホっぽいが陽気で気が利き、ムードメーカー。あなたは直ぐに誰からも信頼され、支持され、好かれる人になりました」
わたしは見てましたから。
そう言うちづちゃんはその頃副班長だろうか。正式には『副班長』の役職はないが、大抵の班で決まっている。小隊長を班長が補佐し、班長を副班長と隊員が補佐する、みたいな形だ。ちづちゃんはあまり前線に出るタイプではないから、多分良く見てたんだろうなぁと思う。隣の班だったから、同じ任務になる機会も多かったし。
羨望でも嫉妬でもない、真っ直ぐにうちを見る眼差しは何を思っているのだろう。
「そんなあなたが美智乃さんのことばかり話すんです。良いところだけじゃなく悪いところも含めて、楽しそうに散々語ってましたよね。誰もがそんな姿に納得しましたよ、ああこの人は美智乃さんが大好きなんだなぁと。だから皆、総司令官の孫が代理になった、という見方だけでなく、須原美智乃という一個人としてちゃんと見てくれたんです。そうでなければ皆は頭ごなしの否定しかしませんでしたよ。そういう空気でしたから」
「なんでや。だって爺ちゃんは人気あったんやろ?」
「でも所属してなかった十六歳の女がいきなり組織のトップなんて、簡単には受け入れられませんよ。しかも実績がありませんから」
「でも美智乃はたまに仕事手伝ってたんや! それに勉強もぎょうさんやってたんやで!」
「そうなんですか。しかし表にはそういった情報は出てきていません。それは実績がないとイコールです」
「そんな……」
あんなに頑張ってたのに。
遊びもせずにずっと本ばっか読んでたのに。
好きでも……なかったのに。
「そないなアホなことがあって、ええんかぁ?」
頑張って溜め込んだものを噛み砕いて咀嚼して飲み込んで、それを皆がわかりやすい形にして出す。必要な時、必要な形にして使う。
そんな風にして九年の時間を経てきたのに、その頑張りは何一つ報われてないって言うんか? しかも適当に生きてきた榊原陽なんて人間に負けてまうんか?
……ちゃうやろ。
そんな訳あらへんやろ。
なあ、美智乃――。
「あなたはわかっていなさ過ぎます」
「違う、皆が間違ってるんや。誤解してるんや……」
「どうしてそこまで頑なに美智乃さんを持ち上げるのですか? 実は演技だったんですか、あの楽しそうに美智乃さんのことを話す姿は」
冷たい瞳を振り払うように「ちゃう!」と叫ぶ。
「ただうちは美智乃を助けたくて、皆に知って欲しくて、美智乃の努力が報われて欲しくて……そんで美智乃の願いを叶えてやりたかったんや……」
たくさんの人を守りたいっていう、願いを……。それだけだったのに。
俯き、泣きそうになるのを我慢してギッと握り締めた手を見詰めた。
「……あなたが盲目的に美智乃さんを支持しているだけだったら皆着いて来てませんでした。でもあなたは様々な人と話し、意見を聞き、美智乃にわかってもらうから大丈夫だと笑って、実際にそれを実現して来ました。わかりませんか? あなたが居なければ回らない歯車なんですよ、美智乃さんという総司令官代理の存在は」
その言葉にハッとする。蘇る美智乃の言葉。
『月はね、太陽の光を反射してるだけなのよ。ただ、それだけのこと』
月は太陽の光がなければ地上から見えない、光らない星。いや、衛星。地球が在って、太陽が照らし出して、漸く存在出来るもの。
うちが太陽で、美智乃が月。
つまりそういうことだ。美智乃はずっと前からわかっていた。月は太陽がいなければ輝けないと。それをうちらに当て嵌められることを。
だから知っていて欲しかった。
「んな訳あるかあぁあああああ!」
ビクッ、とちづちゃんが肩を震わすが、承知出来る訳がない。手加減出来る訳がない。承服なんて、出来るかあ!
「美智乃はずうっと好きでもない本とにらめっこばっかりしよったんや! 今も頑張っとるんや! 美智乃は何とか出来る人や、一人でもきっと皆を守るために頑張った! 走り回った! うちが保障するで! それでも言うんか? 美智乃は一人じゃ何にも出来ない人間だなんて!」
鼻息荒く、ちづちゃんに詰め寄るとぽかんとした顔で見返されてしまった。
「美智乃は凄いんや! うちはただ美智乃の代わりにやっただけや、うちは手伝っただけー! はい返事!」
「はい! って、ええそんな……」
むちゃくちゃ過ぎる、と口の中で呟く気配があったのでギロリと睨むと直ぐに「すみません」と消え入りそうな声でちづちゃんは謝った。
「わ、わかりました。確かにボス様は凄い人です。それに異論ありませんが……しかし最近の不信感はまた別じゃないですか?」
「それは……」
言葉に詰まる。
そんなうちを悲しそうな目で見るちづちゃんはぽつぽつと続けた。
「わたし達はですね、怖いのです……」
「怖い?」
「……陽さんが泣く結末になることが、です」
「ええ?」
ちづちゃんは言いにくそうに俯いていたが、思い切ったように顔を上げると言った。
「陽さんには笑っていて欲しいのです。皆そう思っています。でもだからこそ陽さんを苦しめている美智乃さんが……憎いのです、怨めしいのです」
うちは今度は唖然として言葉が出なかった。なのにちづちゃんは怖い顔をして続けるんだ。見たこともない本気の顔で、うちを見るんだ。
「……もしもあなたが望むなら……わたし達はいつでも待っています、あなたの言葉を」
「何、の……?」
震える声には彼女の強張った声が応える。
「総司令官代理降ろしです」
「そんなこと言う訳――!」
「ないんですか? このまま、納得出来ないまま、ボスの判断に唯々諾々と従うのですか?」
「従うんやない! けど美智乃を降ろすなんてことうちは言わん!」
「でもあなたが贔屓している客人、今の美智乃さんでは彼らに何をし出すかわかりませんよ?」
「止める! 守る! 今までそうして来たし、これからもそうするまでや」
「……陽さんらしい台詞なのです」
寂しそうに呟くちづちゃんに、何だか切なくなってしまう。
どないしてこんなことになったんや? いつの間にか、美智乃と話が通じなくなっていた。何かを一心に見詰める瞳に、間違っていると言えなくなってしまった。
約束したのに。
うちの、せいやろか……。
「でもお願いです、陽さん……客人をこれ以上構わないでください。これ以上、対立を深めないでください……」
「せやけど……」
「余所者の好感度なんかを気にする前ににこの組織の中を気にしてください。ここにはあなたが必要なんです。美智乃さんと対立しているだけなら良いんですよ。正しい答えを二人が見つけて仲直りすれば、それでハッピーエンドなんです。だけど具体的な対立の要因なんてものがあったら拗れてどうしようもなくなってしまいます」
お願いですからもうこれ以上傷付かないでください、と懇願するちづちゃん。
そんなこと――。
「新日本政府が大事ではないのですか?」
そんなことを言われても――。
「うちは選ばへん」
「陽さん!」
「いやや!」
「そんな我が儘を言っている間に最悪の事態になってしまうんですよ!」
「嫌なものは嫌なんや、順番やなんてつけたくない!」
「いつ抑えが利かなくなるかわからないんです! 暴走した彼らの矛先は必ずボスに向きます! それで傷付くのは陽さんなんですよ……? 嫌なんですよ……でも陽さんが迷う限りわたし達は何も出来ない。だからもう美智乃さんを消す以外にあなたを助ける方法が……思い付かない」
「助けて欲しいやなんて言っとらんわ!」
「苦しむ陽さんは見たくないんです!」
「そっちこそ我が儘や!」
「そうです我が儘です、でも他にわたし達に何が出来るって言うんですか! わたしはあなたの力になりたいのに!」
必死過ぎる叫びが急に怖くなった。
「なんでや……だってうち仕事せえへん嫌な上司やろ? なのにどないしてそんなこと言うんや……」
脅えたように問ううちに、ちづちゃんの眉尻が下がる。
「あな、たは、本当にバカ、です……」
吐き出すように言った言葉は今にも泣き出しそうだったが、急にガバッと顔を上げると突進された。見事に不意打ちだったせいでうちは綺麗に仰向けに転がされた。ちづちゃんがのしかかりながら叫ぶ。
「あなたはバカ過ぎます! 確かにそうです、あなたは上司としては最悪なまでに自由奔放で大人しく仕事なんてしてくれません。でもですね、あなたを一個人として見たら、友人のためにあれだけ奔走する、懸命に語るあなたの背中をずっと見ていたら――嫌いになんてなれるはずがないじゃないですか」
こんなこと言わせないでくださいよぉ……。
拭っても拭っても尽きない雫に困りながらちづちゃんは震える声で言った。うちは何と言っていいかわからなかった。
嫌われてもいいから。
美智乃を守ろう。美智乃を助けよう。
そう思って今までやってきたのに。現実は全く違った、ということなのか?
「なんでや」
嬉しくない訳じゃない。でも……そうするとどうして美智乃が悪役になってまうんや? ちゃうやろ。間違ってるやろ……。
「どないして皆美智乃のこと信じてくれへんのや。うちのことなんてどうだっていい――」
「良くないです! それに信じてない訳じゃないですよ」
涙を拭うのを諦めたちづちゃんは、小さく笑った。楽しそうに苦笑した。
「だって誰よりもあなたが美智乃さんを見限れずにいる。まだあなたは信じている。そんなのわかりますよ。それでもあなたが迷っていることも確かだから……わたし達もどうすべきか迷っています。けれど……あなたはそれでいいんです」
真っ直ぐうちの目を見据えて、ちづちゃんは言う。
「皆が美智乃さんに不信感を抱いている今、あなたが対立していることで『何とかしてくれるんじゃないか』という期待が生まれます。だから何とかもっているんです、この組織は。……だからこそ」
「ヨミ達に関わるな、てか?」
「ええ……」
わかった。
カチリと何かが嵌まった気がした。馬乗りになっていたちづちゃんをひょいとどけるとうちは立ち上がった。呆けた顔で正座してうちを見上げるちづちゃん。
「……五辻千鶴子」
「は、はい!」
「何やようわからんけど暴挙に走りそうなうちのこと好いてくれてる奴ら、暫く宥めといてや」
「良いですが……どうするつもりなのですか?」
「話つけてくる」
「……短期決戦はあまり勧められませんが」
「でもやらなあかん。うちらの大切なもんを守るためには、逃げたらあかんのや……すまん」
今まで逃げてたこと。問題を抱え込ませてしまったこと。頼みを聞いてくれたこと。いろいろな意味を込めた謝罪に、ちづちゃんは笑った。
「あなたが臆病なのは今に始まったことじゃありません。それでも立ち向かうあなたの強さに、皆は憧れ、信頼を寄せ、助けたいって、思ってしまうのですよ」
行ってらっしゃい大将さん。
行ってくるで、ちづちゃん。
うちらは背を向け、歩き出した。
● ● ●
ヨミ。
うち、人のこと言えんよな。やっぱりヨミの言う通りシランにうち、似てるみたいや。
けどな、負けたくないんや。ようわからん大きな流れに呑まれて終わりやなんて赦さない。
きっと満場一致のハッピーエンドにしてやる。
だから。
一緒に戦いに行こうや。
って、言いたかったのに。
不自然に倒れている椅子。
足跡のある袋。
転がっている誰かのおにぎり。
もぬけの殻となった客室。
「ヨ、ミ……?」
まだ始まってすらいなかった物語がキシキシと音を発てて動き始めたのが聴こえたような気がした。