032●馬鹿馬鹿しくて【狼】
不器用な彼らの思いはどこへ辿り着けば救われるのか。
彷徨うロウの第三十二話です。
「オレ、シランと話さなきゃ。シランにきかなきゃいけないんだ。『どうして一人で行っちゃうの?』って」
その言葉を口にする時だけ、シンの朝焼け色の瞳は力強い光を秘めていた。
だからロウは。
「じゃあシランが帰ってきたら起こしてあげるから、ちゃんと休むんだぞ」
って言った。
言った、のに。
ロウは約束を破った。
● ● ●
部屋の四つのベッドは、奥の左手がシラン、その右がシン、シンの手前がロウで使っている。因みにロウの左隣は空いていて、ヨミやハルがやってくると使っていた。
昨日はシンが寝付いた後、本を読んでも全く落ち着かず、内容が頭に入って来ないので自分のベッドに腰掛けてぼーっとしていたら、そこへシランが帰ってきたのだ。
シランは部屋に入ると、シンのベッドをちらりと見てからロウに向かって小さな声で「ただいま」と短く言った。ロウは上手く舌が回らなくて「おかぁり」、とぼそぼそと返した。
シランは気にした様子もなく、ロウを通り過ぎてシンとシランのベッドの間で立ち止まった。荷物をラック前に置くと、シンに目をやった。
その時の顔だ。
今思い出しても──むかつく。
シンの寝顔を覗いたシランは、顔面の筋肉の制御を全部放棄したみたいな、そんなふやけた顔で微笑んだんだ。
叫ぼうかと思った。
怒鳴り付けてやろうかと思った。
シンがいなきゃ、寝てなきゃ、きっと実行しただろう。それほど腹が立った。だって今シンが寝てるのはお前のせいなんだ。シランを捜して、彷徨って、叫んで泣いて、疲れきって。叫べないし泣けなくなっても、まだ叫んでいるような、泣いているような顔で。
それでもたった一人。
観月紫蘭を捜していたんだ。
なのにお前が、そんな顔するのか。
「ずるいよ」
「ん、なん──」
音もなくロウはシランに飛び掛かった。シランは驚きのあまり、いや、単に時間がなかっただけかもしれないが、声も出せずに押し倒された。肩に爪を立て、腹の上に膝を揃え、正座をするようにのしかかった。抑え込んだ。
「なん、だ。何をしているんだロウ?」
落ち着き払った、いつも通り過ぎる声音に気持ちを逆撫でられる。
真っ黒い瞳は真っ直ぐ過ぎてムナクソ悪くなるから見ない。目から視線を反らすと首が目に入った。キメの細かい、しかし小さな傷が混じる、薄茶と白に近い肌色の斑な肌。
噛み付いてやろうか?
口を突き出す。
牙を剥く。
きっとシンだってシランが居なくなれば気付くはずだ。……どんなに時間がかかろうとも。
「俺を喰うのか、狼?」
シランのせいでシンは盲目になる。シランが居なければシンは自由だ。囚われる理由はなくなる。
ガブリで、終わる。オワル。
なんて。
「出来るかぁ……ばかぁ」
だってそんなことしたら、シランが居なくなってしまう。シランが居なくなればシンは支えを失って、崩れてしまう。縛る理由はなくなるだろう。けど、生きる理由までなくなってしまうかもしれない。
それはダメだよ。誰も救われないよ。
口を閉じ、瞳からも首からも逃げるようにコツン、とシランの胸板に額を押し付けた。
「どうしたんだロウ。何か、あったのか?」
訊くなよ。お前のせいだよ。
聞いてよ。シンを助けてよ。
そう思うのに嘘はないはずなのに、狼の口は勝手に動く。
「シランには、わからないよ……」
貴方が脇目も振らず、ただ突き進む限り。きっとわからない、気付かないんだろう。シンの懸命な眼差しに。切なくなるような必死な思いに。
シランは残酷だ。
でもロウは、最低で最悪、なんだぞ……。
「わからない、よ、きっと」
シランの口が開きかかるが、ロウはその前に飛び退き、自分のベッドへと逃げた。布団に潜り込み、耳を塞ぐ。
言いたくないんじゃない。シランに苛ついてるから意地悪したい、嫌な気分にさせたい、というのはあるかもしれない。
でも違った。
聞きたくないんだ。
優しい声とか、生温い上にズレた台詞とか、シンを大事にしてるってわかってしまう言葉とか。シンの一番はシランで、シランの一番がシンであること、とか。
つまりロウは、ロウが独りであることが浮き彫りになってしまうのが、怖いのだ。
シンが泣いてるのは嫌だし、シランが空回りしてシンを傷付けたり、シラン自身の思いを否定する形になっているのも嫌だった。
でもロウは最悪だ。我が儘でもう何をしたいのかわからない。
誰かの一番になって、大切にして欲しい。ずっと見ていて欲しい。いなくならないで。ずっとずっと、最後までロウの傍にいてよ。もう独りにしないで。彷徨うのはいやだ、ロウを見て、好きだと言って、一番大切なんだと言って安心させて。どこにも行かないで!
……そう思う癖に、そう願う癖に、心の奥底で叫び続けているのに。ロウは知っている。微かに漂う記憶の残滓の鎖すら振り解けない、臆病な狼は知っている。
きっと誰かの一番になったら、ロウは逃げるんだろうなということを。
また失うのが怖いから。
だからこれは最悪の我が儘だ。
そしてロウは最低だ。シンとの約束を破った。シランに八つ当たりをした。仲立ちになるべきなのに、放棄した。
三人一緒にいるのが居心地良くて、ずっと居たい癖に。二人が見ているのがロウじゃないからとふて腐れて、ひねくれたことしか出来ない。
最っ低だよ、ロウ。
ごめんなさい、なんて、おこがましいよね。
ロウは布団を被って丸くなって、いつの間にか眠りに就いていた。シランは何か言おうとしていたはずなのに、ロウを起こすことはなかった。
そんな優しさ、いらないのに。
それが昨日のこと。
今日は滞在四日目。
シランはいなかった。
シンは泣きそうな顔で、小さく微笑んで「おはよう」と言ったんだ。
ああ! ロウの馬鹿!
お前のせいだじゃない!
……ロウのせい、じゃないかぁ。
● ● ●
シランはシンに助けを求めるべきなんだ。
それがシランの助けになるし、シンの支えになる。それをわかってないシランが巻き込むわけには行かないとか思って独りで動くから、シンが泣いて捜し回る。
そんな馬鹿馬鹿しくすらある悪循環。
シランは本当にわかってないし、シンは不器用すぎる。と言うか二人共不器用過ぎるよ、本当に。なんで少しの付き合いしかないロウがこんなにわかって心配してるんだ。
しかも多分ヨミもわかってる。わかってないのは当事者二人。
あほか、って話だ。
どんだけ一直線ばかなんだ。
そんなことをロウがうだうだ考えていると、ある呟きが耳に飛び込んできた。
「シラン、何してるのかな……」
朝食のため食堂へ向かう道中だ。ポツリとシンが呟いた。何故か手を繋がれているのでシンが保護者みたいだが、どっちもどっちな心境なので、客観的に見てどう思われるのかは少し気になるところ。
じゃなくて。
ロウは変な、明後日な方向へ流れていく思考を止めるように頭を振ってからシンを見上げた。何だかぼんやりしている。瞼がゆっくり落ちて、ゆっくり上がった。瞬きすら億劫そうである。
シラン、か。
シンの頭の中にはそれしかないんじゃないかとさえ思う。溢れそうなため息を飲み下し、答えを探す。
「……多分、探してるんだぞ」
「何を?」
「希望」
「へ?」
「つまり、ここから出ていく手立て。シランはシンを早く家に帰してあげたいんだぞ……ばかだから、それしか考えて、ないんだぞ……」
ちょっとは周り見ろよ、とか、あほでばかで猪突猛進なんて表現をしたら猪に失礼なくらいの愚か者だぞ、とか。もごもごと口の中で文句を転がす。
小さな笑い声がして顔を上げると、シンがおかしそうに口元を緩めていた。
「何かおかしいか?」
「いやさ、むくれるロウが面白かっただけっ」
くふふ、と堪えられない笑いが溢れる。むくれるって……ロウは普通に怒ってるんだぞ? むくれるって、なんかちがくないか?
「ほら、ほっぺた膨れてる」
「これはシンの表現が不適切で不満だからだぞ!」
しかし今一伝わっていないのか、ロウの言葉に首を傾げるシン。まったくっ。わかってない。シランとずっと暮らしてたせいだ。空気読めない病だっ。
「まあ、いいや」
「何が!」
「いや、ちょっとだけ……元気そうに見えるから」
……むう。
頬を掻いて、照れ笑いのような顔をするシン。やっぱりシラン似だ。もしかしたらシンにシランが似た可能性もあるけど。
ずるい顔。
不満とか悲しいとか嫌だとか馬鹿シランとか。どうでも良くなっちゃうじゃないか。
「なあ、シンは良いのか? 放蕩馬鹿シランが、どっか行っちゃってても」
「よくは、ないよ」
寂しそうに目を伏せて、でもどこかに優しさを秘めた横顔。口は緩く引き結ばれていて、朝焼けのような瞳はほんのりと輝くように瞬いた。
「でも、今度シランに会った時にちゃんと訊くって決めたから、いい。それに」
一転して大きく見開いた赤銅色の瞳は、太陽が溢れてもおかしくないくらい力強い温かな光に満ちて。
ロウに向けられていた。
「ロウが独りなのも、だめだよ。だから、いい。ちょっとだけ、ガマンする。オレはロウの傍にいるよ」
救われたみたいに、思った。
目ん玉が転がり落ちそうなくらい不意討ちで、驚いた。そして感心した。
強くなる、って言った。
泣くけど弱さで泣かない、て言った。
ああ凄い。そして思う。ああ、強いな、って。本当だ。本当に言った通りだ。シンは全然弱くなんてなかったよ。
シンには、ちゃんと強さがあったよ。
「はは、ごめんな」
「な、なにが?」
「ガマンする、じゃなくて、へっちゃらだーって言えればいいのに、カッコ悪いなオレ」
あは、はは、と空笑いをするシンの手をグイッと引っ張った。ロウは真剣な顔で大真面目に叫んだ。
「そんなことないぞ!」
シンがまた違う意味で目を見開いた。真ん丸なシンの瞳は本当に太陽みたいで綺麗だなとかいう考えが頭を過る。
「シンは凄い! 胸張って大丈夫だぞ! ロウ、嬉しかった、ほんとに、ほんとに! ありがとう!」
「お、おう」
どうもやっぱりわかってない感じがするが、いい。これでいいよ。
確かに救われたから。
「シランもちょっとは気付いてくれたらいいのに」
そんなことをぼやくとシンは乾いた笑いの後、仕方ない、と言った。そんな諦めがロウは嫌だった。でも、シンほどシランを尊重したいと願う人はいないだろう。
隣に居て欲しいと切望するのも、シンだけ、だろうけど。
ばかだな、シランは。
それと同時に。
ほんとばかだ、シンは。
そうも思う。
客室から出て、長い長い曲がりくねった廊下に階段を進んだ。灰色の無機質な壁はコンクリートだろう。床は何か違うツルツルとした素材が板状に敷き詰められている。壁には時折案内の札がかかっている以外、扉が点々とあるだけだった。
ロウ達はそんな殺風景で、コツコツと二人の靴音が響き渡る廊下を黙々と歩いていた。この辺りはあまり使われていないのか、往来はほとんど皆無だ。客以外には使われないのではないかと思う程。
だから、ある意味必然だったかもしれない。ここを通る人が限定されるなら、数少ない鉢合わせする可能性のある人間は限られる。
でもすれ違うことすら稀だと、思っていたのに。
「あ」
角を曲がると。
「シ──」
──ランがいた。心構えが出来てないというような顔をしたシランは。
最悪なことに。
「──ラ……」
背を向けた。
「ぁ」と、微かな声がした気がする。違う。もっと確かに聞こえた別の音がある。それは。
「う、あ、ぁ……」
何か大事なものが崩れ墜ちる音。
「ぁんで、な、で……や、いぁ――」
意味を為さない音が口から流れ出る。それを止める術をロウは知らず、持ち合わせていない。
手が離された。
シンはしゃがみこんだ。何かを堪えるように、ぎゅっと押し込めるように頭を抱えて。
「シィイイイイラァアアアアンッ!」
何かが破裂した。
腹の底から、心の奥底の方から響く声。気が付いたらロウは叫んで走り出していた。
我慢ならなかった。
どうしてシンのことを一ミリもわかろうとしてくれないのか。ナノでもマイクロでもいい。何でも良いから。
ちょっとは気付いてよ!
「はいストップ」
「ぐぇっ」
飛び掛かろうとした首、襟首を掴まれ、ロウは床に引き摺り降ろされた。意識は一瞬だけ吹っ飛び、次の瞬間は天井がよく見えた。
はい?
「一体何をやっているのですか? よりにもよってシン君の目の前でなんて、浅慮とは思いませんか?」
そう言われて見れば、シンは殺気に気付いたからだろう。ロウを止めた人の後ろで、駆け出そうとしたような中途半端な体勢で固まっていた。
でもどちらかというと、今見てしまった信じがたい出来事に固まっているように見えるが。
「だ、だからってヨミ、何も首締めなくたっていいじゃないか」
引き吊った声で抗議をするが、首を締めた当人、今現在もロウの襟首をしっかり握ったヨミはにっこり笑ってさらりと抗議の言葉を流した。代わりに口にした言葉は向こうにいる人へだ。
「シランさんもどこ行こうとしているのですか? シン君もロウ君もここにいますよ?」
シランは気まずそうな顔で振り返った。口を開こうとして失敗し、もごもごと何か言うように口を動かすが、声にはならない。ヨミは腰に手を当て、全くもう、という顔をしている。
「逃げるのですか?」
「ちがう」
「じゃあこちらに来てください」
「……だめだ」
「何故ですか?」
シランは俯く。
ヨミは静かに待つ。
ロウは体を素早く捻り、ヨミの拘束を外すと飛び起きた。首が締まったのなんてほんの一瞬。何の問題もない。だから早速思いっきり息を吸い込んだ。
「ばっっっかじゃないのー!」
全ての空気を吐き出すように叫ぶ。頭にカァーッと血が昇る感覚に襲われるが、気にしない。周りの視線ももちろんだった。
「勝手にしょいこんでっ! 勝手に暴走してっ! 勝手にだめだとか決め付けて!」
一つ怒鳴っては一歩踏み出す。一つ叫んではは一歩踏み出す。
情けない顔のシランにドシン、ドシン、と大股で歩み寄った。そして顔を近付けて真正面から怒鳴り付けた。
「ばかじゃないか!」
「ばかとは、なんだ……」
「そのままの意味だぞばかあほシラン!」
憤懣やるたかなロウは肩を怒らせ、シランを睨み上げる。
気に入らないな。なんで怒ってるロウが見上げなきゃなんないんだ?
「えいっ」
「ぬあっ!?」
足払いで油断していたシランをすっ転ばす。尻餅をついたシランをロウは悠々と見下ろして、人差し指をピシッ、と突き付けた。
「謝れ」
「……」
「シンに謝れ! シンがどんな思いでお前を待っていると思っているんだ!」
「それ、は……」
浮かんだのは困惑。どういう意味だと訊きたげな視線。
ロウは愕然とした。
違う。ロウが欲しかったのはそんなんじゃない。申し訳なさそうで、眉根が高く上げられた、情けない顔だ。謝るのが下手くそな、でも馬鹿正直で隠し事が苦手なシランだ。
なのに。
「本当に、わからないって、言うのかあ?」
やめろよ。わからないんだ、教えてくれみたいな、曇りない夜色の瞳を、見せるな。
泣きそうだよ。
泣いちゃうぞ、って脅したくなる。でもシランは既に困った顔をしていた。わかってないんだ。本当にわからないんだ。
シンの悲しみも。
ロウのやるせなさも。
「……どうしてシランは、頼らないし相談しないの……どうしてわかろうとしない……どうして──」
──シンを見ようとしないのさ。
「もう知らない……」
何か言いたげなシランに背を向けた。肩を大きく揺らし、歩く。シンの手を強引に掴むと更に歩いた。
「待って……きくんだ……」
背中に投げ掛けられた台詞に、昨日の、意志の込められた朝焼け色を思い出して、直ぐに打ち消した。他ならないあの真っ黒い愚直な瞳が、打ち砕いたんだ。
「今のシランに訊いて、何か変わるのか?」
シンの手をぐいぐいと引き続ける。足は止めない。シンは足を止めようとするが、直ぐに引っ張られてたたらを踏む。
ほら。シンだって信じられないんだ、シランを。シンなら簡単に振りほどけるのに、何もしない。結局はされるがままだ。
シランはだめだ。
シランは応えない。
ロウはぎゅっとシンの手を強く握った。シンまでもがシランを信じられないなら、もういいよな。
もう、シンはロウが連れてく。
シランはいらない。
「必要ない」
あんな、揺らいだ夜色の瞳は、ロウ達にはいらないんだぞ……。