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蒼天の真竜  作者: 逢河 奏
第三章
32/43

031●傍に居たいだけ【真】

何にもわからずただ生きてる。

すがる思い出も持たず、目指すものもなく。

何のために生きているかわからない世界は灰色だったんだ――。


泣き虫真太郎の第三十一話です。

 今日もシランがいなかった。

 泣き喚いたってシランは戻ってこないし、慰めにもならない。

 もう泣き疲れた。

 それが滞在三日目の朝のこと。



● ● ●



「元気出してシン。シランはほっといても大丈夫だろうし、シンにはロウがついてるぞ?」

「……ありがと」


 でもオレは笑い返すことも出来ず、ただ俯いて、うっすら笑おうとしたように顔面がひきつっただけだった。嬉しいはずの言葉さえ素直に受け取れない、喜べない。オレ嫌なやつだなぁ、と余計に落ち込む。


「……ロウ居ても、何にも出来ないのかな?」

「……ごめん、わかんない」


 膝頭に顔を押し付け、くぐもった声でオレは答えた。ロウが心配して隣にいてくれていることを感じる。でも顔を上げる気力はないし、ずぶずぶと沈み込むだけだ。


 どうしてシランはわかってくれないんだろう。


 昨日だってちゃんと謝ってくれたんだ。申し訳なさそうに、いつもは無駄にピンと跳ねている眉をへなっとさせて、頑張って言葉を選んで。

 なのにシランは今日も、昨日なんて何にもなかったかのように行ってしまった。オレを置いて行ってしまったのだ。もし目の届かないところでシランが危ない目に遇ったらどうしよう。もしもシランが……いなくなっちゃったらどうしよう、なんて。

 考えたくないよ。

 考えさせないでよ。

 やだよ。

 シランはどうして一緒にいてくれないの?


「……ぁ、れ?」


 ふと顔を上げるといつの間にかロウの姿がなかった。隣の部屋も、人の気配はない。シランも勿論いない。

 オレ、独り?

 サァーと血の気が退いた。鏡を見るまでもなく顔は真っ青だろう。もしかしたら土気色かもしれなかった。


「シラン!」


 返事がないとわかっていても呼ばずにはいられなかった。オレは堪らずシランの客室を飛び出した。大嫌いな灰色一色の廊下が出迎え、ギョッとして思わず一歩後ずさったが、直ぐにまた走り出した。


「シラン! シラァアン!」


 廊下を行き交う草色のお揃いの格好をした人たちが変な目を向けてくるのが、意識の隅っこでまだ膝を抱えてる冷静なオレは認識出来ていた気がする。

でもダメだ。普段の感覚は全部へそ曲げて仕事を放棄している。今仕事をしているのはろくでもないのばかりだ。いつもは宥めて諭しておやつをあげて、無理矢理心のどこかにある箱の中に押し込んでいたやつら。そいつらが総出で孤独の看板を振りかぶり、オレを内側から壊そうとしているんだ。

 だからオレはたった一つの名前にすがるしかない。だって世界を変えて、オレの目を覚ませて、手を引いてくれたのはその人だから。独りの虚無から掬いあげて、平穏をくれたのは誰でもない、シランだったから。

 だから。


「シラァアアァァンンンン!」


 頼むから。


「シラァアアァアアン!」


 お願いだから。


「シラァンン!」


 応えてよ。助けてよ。


「シ、ラン……」


 傍にいてよ。

 安心させてよ。

 また呼んでよ。

 名前、呼んでよ。

 それだけで良いんだ。それだけを望むんだ。だって──。


 もう独りは、いやだよぉ……。




● ● ●




 叫び疲れてとぼとぼ歩いている時だった。


「どうかしたの? 泣いてる?」

「……ふえ?」


 のろのろと顔を上げると、針金みたいにピンと長細い男の人がいた。

 真っ黒いコートに身を包むその人は本当に細く、背はオレを優に越していた。しかし顔は何だかやたらと幼い印象で、顔だけならロウと並べても違和感ないだろう。夜が溶け込んだような黒い瞳はすぅっと細く澄んでいた。

 不審者だ。そう思った。制服を着ていない人をここで見たのは初めてだった。

 大男と呼んでいいくらいの長身だが、顔がそんな印象を打ち消すので何だかちぐはぐ。針金みたいだからとりあえず針金男としとこう。なんか長細くて簡単に曲がりそうだから。それでいて簡単には折れそうにない固さみたいなものを感じるから。

 針金男、は。

 暗雲みたいに垂らしたちょっと伸ばし気味の闇色の髪に封をするような、焦げ茶色の地味な鍔付き帽子を深く被り直すと、鍔の陰の下から覗く、細めた瞳を下へ向けた。つまりオレを見下ろした。


「ねえ、どうしたの?」


 マイペースな、おっとりと間延びした声で再度尋ねられる。オレは急に恥ずかしくなって俯いた。


「な、何でもない!」


 目眩がして、今にも崩れ落ちそうなくらい疲れていることに急に気付き、オレはよろよろと廊下の端へ寄ると、膝を抱えて座り込んだ。ちょっとだけ落ち着く。少なくとも世界はぐらぐらもくるくるもしない。ただ。

 何故か針金男までよろよろ歩いてきて、オレの隣にぽてっと腰を下ろしたのは想定外だった。

 オレは目を丸くしてそいつを見上げる。真似なのか同じように膝を抱えている針金男は、それでもオレより頭の位置はずっと上だったし、膝の高さも勝っていた。

 長い、長すぎる。


「なんだよお前……」

「僕は怪しいけど、君に危害を加えたりはしないよ」

「普通自分で自分が怪しいこと、認めるか?」

「怪しくないって言う方が怪しいよ」

「怪しいって自称する方が怪しいじゃん」

「そうかな?」

「……どっちみち怪しい!」

「そっか」


 針金男は細めた瞳をぱち、ぱち、とゆっくり瞬かせた。


「とにかく話すだけで何もしないから、安心してよ」

「……うん。わかった」


 あんまりこの問答は意味がないだろうなと思い、こくんと頷いた。針金男はにこりともせず、淡々と視線を送ってくるだけだったが、何故だか目の奥の黒は深いのに温かく、怖さはなかった。真っ黒い炎か光が灯されているみたいだ。

 不思議な闇を湛える不審者を、不思議そうに赤銅色の濁った瞳でオレは見上げた。


「何かあったの?」


 三度目だ。

 見掛けによらず相当なお人好しなのかなと思いつつ、何と答えようかと困った。上手く整理出来ず、ぽつぽつと話し出す。


「シランに、置いて、かれて……」

「置いていかれた、ね。『シラン』って人名だよね。それは大切な人?」

「うん、大切な人」


 迷いなく肯定すると、少しだけ針金男の口元が緩んだ。大切な人がいることは良いことだ、と大きく頷いてくれた。その動作はコックン、という感じで何だか人形っぽく、人間味が薄くてほんの少し怖い気がしたけど、本心からの同意なのは真っ直ぐに伝わってきて、ちょっと嬉しかった。


「じゃあ、どうして泣いていたの?」


 小さく首を傾けて、ぼくとつとした調子でまた訊かれたのでびっくりした。


「え? だから、シランが……」

「それは原因で、泣いていたのは結果だよ。原因でどうだったからその結果に行き着いたの? つまり、何が“理由”だったの?」


 濡れたような黒瞳の奥にある不思議な光がちらちらと揺れている、気がした。


「置いてかれて、悲しかったのか寂しかったのか怖かったのか怒りたかったのか嬉しかったのか苦しかったのか、とか。理由はいろいろあるでしょう?」

「置いてかれて嬉しくて泣くわけないだろ!」

「そうかな? 一概には言えないし、可能性はどんなに確率が低くても、その可能性を捨て去れる要素がない限りは無視すべきでないよ」

「そ、そう……」


 ちょっとだけ高めな針金男の声はよく通り、耳にすっと入って来るには来るのだが……なんか面倒臭そうなことを言ってる気がする。


「ほら、置いていかれた君は何を思ったんだい?」

「そりゃ、悲しかったから、泣いてたんだよ」

「そう? 別に涙は悲しい時にしか出ないものではないよ。演技ですら出すことは可能だしね。楽しくて笑っても、涙は出ることはあるよ。頭ごなしの否定や決めつけは、あまり良くない。それに、理由は一つとは限らないどころか、たった一つの純粋な理由であることの方が難しい」

「何が言いたいんだよ、お前……」


 当惑したオレの顔を見て、針金男はちょっと考えるように視線を上に上げた。その横顔はほんの少しだけ申し訳なさそうな、決まりの悪い表情にも見えた。


「そうだね。つまり僕は疑問を抱いてるんだ。確かに君は悲しんだかもしれないし、純粋にそれだけの理由だったかもしれないけど、他の理由もあるんじゃない? それに悲しいにもいろいろあるよ」


 ……それは気のせいだったかもしれないけど。

 なんなんだ? こいつ何者なんだ? それにどうしてこんなに詳しく訊いてくるんだ? 訳がわからない。

 針金男は退き気味なオレの反応に、小さく首を傾げた。


「ごめん、嫌だったかな? ただね、理由ははっきりさせておいた方がいい。口に出せる形にしておくのも大事だけど、せめて自分の中に答えがあった方がいい」

「どうしてさ」

「勘違いや間違いがあったら、悲しいし、後悔は少ないに越したことはないでしょう? 自分の感情を知り、相手の考えを知ることは、とても大事なことだよ」


 とても、大事。知ることは。

 そんな言葉に、視線は自然と下へゆく。ツルツルとした妙な質感の床を見詰めながら、考える。

 自分が何を思ったか? それを知る。

 でもそんなこと、決まっている。悲しかった、悲しかったさ。シランがいなくて、ロウもヨミもいなくて。

 また、独りになったみたいで。


「怖かったんだ……寂しかったんだ、本当は」


 透明な雫がぽたぽたと落ちていくように。澄んだ思いがぽつぽつと口から溢れていく。


「シランがいないと世界がまた大嫌いな灰色になっちゃいそうで……もういや。独りぼっちはやだよ。シランいなきゃ、オレ、だめだ……『シン』って呼んでくれないと──」


 また戻ってしまいそうで。

 何もなかったことになってしまいそうで。世界が色褪せて消えてしまいそうになる。

 それが怖くて怖くて仕方ない。恐ろしくて仕方ないんだ。


「なら、そう言わなきゃ。伝えなきゃ、伝わらないんだよ」


 不思議だけどこの人の言葉は本当にすんなりと心に染み渡る。飾り気なんてない。けどその分純粋で、温かさが真っ直ぐに伝わってくる。

 気負うことなく、しかし透明ではない、芯のある瞳がオレを映した。


「だから君はその人に今度会ったら訊くんだよ、『どうして僕を置いて行ったの?』って」


 その言葉も染み渡る、のだが……。


「……オレ、『僕』じゃない」


 どうも素直になれない自分が変なところで挙げ足をとる。それでも針金男は変わらず続けるだけだ。空気に揺らぎすらない。嫌な顔一つせずに訂正する。


「じゃあ『どうしてオレを置いて行ったの?』だね。そしてちゃんと理由を尋ねるんだ」

「……もしも、納得出来ない答えだったら?」

「そう素直に言えばいい。納得いくまで、いくらでも、何度でも。脱線した話も、くだらない話でも、いっぱいするといい。仲違いをしてしまうことを恐れちゃだめだよ」


 彼は闇が棲む、細い黒い瞳を遠くに向け、優しい声音で懐かしむように、やんわりと噛み締めるように言った。


「大切な人と大切な時間を過ごすためには、必要なことだよ」


 夜の湖のような瞳がまたオレを映す。


「君はまだ大きくなれるんだから、あんまり怖がらなくていいよ。いろんなことがあって、人生だから」

「じいちゃんみたいなこと言うな」


 そんなことを口にすると、針金男は小さく微笑んだ、と思う。和らいだ目元はひどく優しかった。


「僕は見た目に反して結構長生きだからね。お爺さんみたいなことを言ってしまうんだ」


 つい。


「……きかなきゃ、だめかな」


 ぽつりと溢れた言葉に、彼は真摯に答えた。


「一方通行じゃ、だめなんだ。ちゃんと相手の思いも受け取らないとね。それはやっぱり、とてもとても、大事なことだよ」

「でも……」

「怖い?」

「怖いよ」

「でも逃げるのは許さないよ?」


 急に猟犬のような怪しげな煌めきが黒い瞳に灯り、オレはギョッとした。まるで怒ったロウみたいだった。


「大切な人は大切にしなきゃだめなんだよ。だからちゃんと向き合って、知って、君も彼の望みを知らなきゃいけない。どうしても」


 しん、と再び静まり返った湖は、朝日を浴びてキラキラと輝くようで。


「君はそれを望んでいるはずだよ。それは一緒にいるための一つのルールだ」


 大切な人の思いは、絶対に守られなきゃいけないんだ。


 どこか自分に言い聞かせるような台詞だった。落ち着いた瞳も、その一瞬だけは激しく燃え立った。

 彼の雰囲気は本当に森の主のように、泰然とそこに在る湖のようだ。しかしその奥には決して譲れない激しいものが秘められている。

 絶対という言葉を使ってまで、自分に言い聞かせるように口にする、揺るぎない決意。

 オレはそれを知っている。

 当たり前だ。

 だってそれはオレの意志だから。


「オレ、シラン守りたい」


 けど、そう。それだけじゃ守れてない。だめなんだよ、独り善がりじゃ、自分勝手な正義じゃ、だめなんだ。

 だから、だから──。

 平淡な色の薄い唇がそっと笑んだ。真っ黒な瞳は漆黒の鏡だ。焦るオレが映し出されているのが見えた。


「まあ、ゆっくりで良いと思うよ」


 柔らかな声が、優しく頭を撫でるように耳に届く。


「君はまだまだ子供だから。でも、ね」


 彼は急に目を閉じた。いや、きっとただでさえ細い目を細めただけだ。うっすらと覗く黒がオレを射る。


「君らの時間が永遠ではないことは、知らなくてはならないよ。それは子供でも大人でも、無条件に、無情に、時には理不尽に、襲ってくる化け物だから。逃げる術は──」


 ──誰にもないから。

 その言葉は心臓を貫くようで。無意識の内に胸元をギュッと握り締めていた。服に皺が寄るだけで済まず、気を抜くと破ってしまいそうだった。

 シランがいないなんてこと、考えられない。シランがいない世界なんて。そんな未来、信じたくない。想像したくもない。

 でも。知っている。

 永遠はないってこと。

 どんなに強いシカだって死ぬしクマも死ぬ。花は散るし草木も萎れ、やがて死ぬ。いつかは死ぬ。どんなに自由に空を飛べる鳥だって、永遠には飛べない。遠くない未来に墜ちるのだ。そう決まっているから。

 運命ってやつなんだ。

 だからシランだっていつかは時間の闇に、運命に呑まれてしまうんだ。

 抗いようもなく。

 必然という理由を押し付けられて。

 そんなの、いやだ。信じたくない。いやだ。言うな、教えるな、そんな優しさいらない! やめろ!

 なんて。

 叫べるはずもなくて。その優しさを踏みにじる勇気もなくて。

 ただただ膝を抱えて、懸命に堪えるオレを針金男は切なげに見ていた。


「難しいことだけど、悔いなく、一瞬一瞬を大事にしなければならないんだよ。特に君は、きっとそうなんだよ」

「なんで、オレは違うみたいに、言うんだよ……」


 ギリギリと引き締められる内臓の痛みに喘ぎながら、けれどそれは幻想なんだと理解しながら、無理矢理針金男を下から睨むように見た。

 答えなんてわかっているのに。

 それでも確認したかったんだ。


「推測だけど、君は人間でも僕らでもないでしょう? だから」


 彼は秋風のように飄々と、何でもないように言う。

 オレは苦しくて痛くて悲しくて哀しくて、行き場のない幻痛に涙をこぼした。受け流すことも誤魔化すことも出来なくて、胸が張り裂けそうで、いっそそうなってしまえば楽だろうに、そんなこともなくて。

 ただうずくまり、自分にしがみつくことしか出来なかった。

 彼はオレが落ち着くまで傍にいて、オレがやっと普通に息が出来るようになると静かに立ち上がり言った。


「どんなに辛くても、苦しくても、怖くても。逃げちゃだめだよ。絶対に後悔するから」


 オレは顔を上げられず、膝頭に押し付けるだけだったけれど、きっと彼はやっぱり笑わなかっただろう。ただ淡々と、けれどどこか力強い光を秘めた無表情で、言ったのだろう。


「でも大丈夫だよ。君の強さを信じてあげて。誰だって大事なものがあるんだ。誰でも、大事なものは大事にしたいと、素直に願っていいんだよ」


 頑張って。

 そんな言葉を残して去っていく彼の背中に、オレは小さく「うん」と応えた。




● ● ●




「シン! やっと見つけたあ」


 声がしてゆるゆる顔を上げると、へにゃりとした安堵の笑みを浮かべたロウがいた。少し疲れているみたいだ。それでもちっとも速度は緩めず、結構なスピードでオレの前までやってくると急ブレーキをかけて停まり、ロウは膝をついてオレの目の高さに合わせた。

 錆びたような黒い髪の下に、虚ろに濁った赤い玉がはまっているのが映し出されているのが見える。

 心配そうな黄玉の瞳が微かに歪んだ。でも直ぐにいつものしゃんとした、お兄ちゃんのようなしっかり者の顔になるとオレの目元に触れた。


「もう、涙でぐちゃぐちゃじゃないか。部屋で顔を洗おう。腫れてるぞ」

「すぐ、治るよ」


 モゴモゴとふて腐れたように言うとロウは腰に手を当て、ちょっと怒ったように眉間に小さなしわを寄せた。


「だーめっ。確かに直ぐ治るものだけど、ちゃんと顔洗って冷やした方がすっきりするよ。そのままじゃ、だめだよ」


 それに、と続けるロウを見て、母ちゃんみてえでもあるなー、とか呆けた思考が呟いていた。


「いくらシンが丈夫だって言っても、今日は真冬の寒さだよ、雪降るかもってくらいだぞ? こんな寒いところにずっと居たら動けなくなって、寝ちゃって、風邪ひいちゃうかもしれないよ」

「このくらいで風邪なんかひかねえよ、シランじゃないし」


 そう自分で言ってから、はっと気付き飛び起きた。近くで覗き込むようにしていたロウは驚いて尻餅をつく。けれどオレの頭は今気付いたことでいっぱいだった。


「そうだよ! シランどこ行ってんだよ! 本当にカゼひいちゃうじゃんか!」


 どうしようどうしよう、とあたふたしているとロウが嘆息しながら起き上がった。呆れたような、でも優しげで、悲しげでもある月色の瞳が諭すようにオレを映していた。


「大丈夫だよ。シランだって馬鹿じゃな──」

「バカだよ! 何かに夢中になると周りが見えなくなって自分も見えなくなって、一つのことに全力注いじゃうバカだから充分ありえる!」


 やばい早く捜さなきゃ、と焦る。しかし太く小さな、コンパクトな感じの手に、がっしりと肩を掴まれた。ロウはオレ以上に焦ったような、怖い顔をしていた。


「待って! ねえ、気付いてる? シン、すっごく顔色悪いよ。死にそうなくらい調子悪そうな顔してるんだぞ?」

「だからなに!?」


 思わずまた叫ぶと、ロウは酷く脅えた顔をして、オレは呆気に取られた。 それでも無理矢理言葉を続けた。


「オレはそんなんじゃ死なないけどっ、シランは簡単に──っ!!」自分の言おうとしたことに気付いて一瞬息が詰まった。「──だからっ、オレが守んなきゃ!」

「本気で、そう思ってるの?」

「え……?」


 泣きそうな顔で見上げる満月は、見間違いようのないような哀しみを湛えていた。ロウはそれを隠すように顔を伏せると、オレの手をギュッと握った。

 小さな小さな手だった。


「シンだって生きてるんだぞ? 簡単に死んじゃうんだ、生きているものは皆……だから、皆頑張んなきゃいけないんだ──」


 何かを吐き出すように、ロウは弱々しくオレの手を掴んで言った。


「──生きることを」


 それは途方もない、きっとロウ自身にも理由のわからない重みがあった。さっきの針金男の話と被るものがあって、どこかがキリキリと痛む。そんなやり場のない痛みを適当に胃のせいにして噛み殺すと、無理矢理ロウに笑いかけた。

 ロウは顔を上げない。でもその方がいい。きっとろくな笑顔になってないから。慣れないことはするもんじゃない。それでもそうしたかった。

 そうでもしなきゃ一緒にこの寒さに押し潰されてしまいそうだったから。


「オレはいっつも一生懸命だよ。生きること、頑張ってるよ。だから大丈夫。そうだろ?」


 しばらく沈黙が続いて、何かが切り替わった気がした。ロウはゆっくりと顔を上げた。そこにあるのは明らか過ぎる作り物。貼り付けたような、取って付けたような笑顔だった。

 ひゅお、という変な音がして数瞬後、それが自分の呼吸音だったと気が付いた。

 完璧過ぎる笑顔の仮面が怖かった。


「そうだな。シンは頑張り屋さんだからな」


 ニコニコと口にする言葉と、ロウの奥の方にある心の温度との酷い落差にクラクラした。


「ロウ、笑うなよ……無理して、笑うなよ」

「シンが言わないでよ。シンだって無理して笑ったじゃない」

「違う」


 オレはそんな完璧じゃない。感情を圧し殺したわけじゃない。ただ面を取り繕って、ただロウに笑えるだけの力をあげたくて。

 それだけだったのに、どうして。


「どうしてそんなウソで笑うの? オ、オレ、そういうのいやだ。ロウも、知ってるだろう? だって、いつも──」

「笑顔は得意だぞ? いつもはもうちょっと上手なだけ。それにな」


 絶対零度の笑顔なんてのがあるだなんて、オレは知らなかった。瞳だけ全く笑わないのに、きれいな笑顔だった。


「ロウ、シン達が思ってるほど、いい子じゃないんだぞ? 嘘つき狼でも、あるんだぞ?」


 そんな言葉が、告白が突き刺さるようで我慢出来なかった。だってこれはきっとロウにも返る痛みだから。

 オレはロウの肩を掴もうとしてするりとかわされ、逆に手を掴まれるといきなりずんずんと歩き出したロウに引きずられた。


「ちょ、ちょっと待って、待ってったら!」


 足で突っ張ろうとするがロウの手は容赦なく引っ張ってくる。もう声で、言葉で抵抗するしかない。


「ねえ、どうしてそんな顔するの! 泣きたいなら泣けばいいじゃんか! ねえやめてよ、お願いだから……」

「シンって我が儘だ。でも、ロウの方がずっと、我が儘だ」

「え?」


 呆けた顔でロウの背中を見詰める。でもロウは振り向かないし力も緩めなかった。オレは話を聞きながら引き摺られていくしかない。


「ロウ、シンに泣いて欲しくないんだ。ロウが泣いたら、やっと泣き止んだシンが泣いちゃうから、泣かない。ロウは泣かないよ」

「なんでそんなっ、やめろよそんなの! 強がりやめろよ!」

「やだ」

「泣かない、もう泣かない! オレ泣かないから、約束するから、ねえ!」

「無理だよ。シンは凄い泣き虫さんだもの」


 知ってる。そんなの自分がよく知ってる。

 手を引く背中を遠くに感じながら、思いを遠くに感じながら、オレは自分を省みる。

 わがままでどうしようもない上に堪えるのが下手くそ過ぎて直ぐに泣いてしまう。情けないくらいに心が弱い……ドラゴンだ。体が丈夫なだけ。

 シランにすがってようやく居ることが出来る。ロウやヨミがいるからやっと立っていられる。

 そんな弱々しい、情けないやつだ。オレはそんな頼りないやつだ。

 でも。


「変わりたい」


 そう思ったんだ。


「ロウが思ってる程オレは弱くない!」


 オレは引っ張ってくるロウの手を逆に引っ張ってロウの動きを一瞬止めると、ロウに迫ってその腕を掴んだ。

 もう逃がさない。

 手を繋いでいたけど心なんてちっとも繋がってなかった。人の話を聞かないロウは、勝手にオレから逃げようとしていた。

 でももう逃がさないんだ。


「ロウ! オレ、強いよ。ロウが思ってる程弱くない!」

「……なんで? 弱虫の泣き虫が、何を言ってるの?」


 俯いて発された言葉は床に当たって跳ね返る力もなく、溶けてしまいそうだった。それがいやで、オレはロウの腕を強く引いた。

 こっち向けよとばかりに。


「弱虫の泣き虫だよ! 知ってる、知ってるに決まってる! だからだからだから!」


 わがままだ。わがままだけどオレの望みだ。

 腕を引っ張られて振り返るロウを見ながら、オレは叫んだ。

 どこかへ届けと。

 ロウに伝われと願いながら。


「信じてよ!」


 呆けたロウの目を口を、赤銅色に焼き付けるように、目を大きく見開いた。


「今は弱虫で泣き虫だけどっ、強くなるから! 強くなるから信じてよ! なるって、なれるって信じて!」

「今、泣いてる癖に?」

「そうだよっ、悪いか!」


 なんでまだ涙は渇れていないのだろう。

 散々泣いたのに、まだ残ってる。ぼたぼたぼたぼたと、情けないったらありゃしない。

 でももういい。今はそれでいい。

 これからも、それでいい!


「弱さでは泣かないやつになる。甘えで泣かないやつにっ、泣いても負けない、ドラゴンになるよ! だから!」


 弱っちいオレを、まだ見放さないでくれるなら。


「見ていて。信じていてよ」

「そしたら、どうなるの……?」


 恐々と、震える声は真っ直ぐ斜め上に、オレに向けられていて。真ん丸なお月さまは今にも雫が溢れそうな、不思議な色をしていて。

 オレは涙を溢して笑って答えた。


「そしたら、強くなれる」

「ほんとうに?」

「ほんとに!」

「単純……ほんと、シンは単純だぁ」

「シンプルは良いことだ! シンプルは一番だって言うだろ?」

「なんか、違うよ」

「そうかな? 別にいいだろっ、笑えればさ」


 ロウの泣き笑いの顔を見て、オレはお揃いの顔で微笑んで言うと、ロウの手を掴んだ。今度は横に並んで、お互いの顔を見て歩く。元気になってと願って、ぎゅっと握っていた。

 もう片方の手は、あの人のために。

 そんなことが頭を過ってまた痛みが少しだけ戻ってくる。でもオレはロウの手を離さない。離したくない。

 ロウが離さない限り、ずっと、一緒に歩こう。手を繋いで、オレたちらしい速さで。

 どこまでもどこまでも。

 限りある時間の中で。


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