027☆ユメミヨミという名前【狼】
二章最後の話はほのぼので行きます。
大体26話の3~4時間後の道中の話です。
ちょっぴり騒がしい彼らの旅をロウ視点で見る第二十七話をどうぞ。
「ヨミ……観念して背負われろ」
「あ、歩けます!」
と言った傍から何もないところで躓くヨミ。真っ白な髪が浮き上がり、本体に引っ張られて急降下する。それをシンが受け止めた。
「足が生まれたばっかのヤギみたいだな」
「うう、すみません」
シュンとしたヨミはよろよろとシンから離れようとするが、シンが手を離さないので軽く磔状態に。
「あ、あの、もう大丈夫です」
「大丈夫くないよ。さっきから何回転んでると思ってるんだ?」
「十一回目です」
「胸張って言うなよぉ」
シンすら呆れるヨミの強情に、シランだけでなくスバルさん達も心配そうに見ている。しかし頑として自分で歩くと言い張るヨミ。だけどシンも結構頑固だ。シランに似て。
「とにかくヨミはもうお休み。昨日頑張ったから疲れちゃったんだよ、な?」
「シン君離してくださいっ」
「やーだよー」
朝焼け色がいたずらっ子の目になっていた。シンはひょいっとヨミを持ち上げた。まるで小さな子に『高い高い』でもするように。それから器用にヨミを背中に回すと、がっちりと上着の裾を握った。着膨れしてまるっこくなったヨミは普通には背負えないサイズだ。でもそれだけでちゃんと固定されたようでずり落ちる気配はない。ヨミがもう全身の血を集めたくらい顔を真っ赤っかにしている以外は問題はなさそうだ。
「シン君!」
「寝てていいんだぞ? ヨミってこんなに着ても軽いんだな。シランとどっこいどっこいだ」
「どういう意味だ?」
「もっと食えってこと! 女の人より男の方が重いもんなんだろ? 着膨れしたヨミよりシランが軽いって大丈夫か?」
シランはそんなシンの言葉に眉を寄せ、いつもの不機嫌顔で答えた。
「服の分を抜いて考えろ」
しかしシンはあっけらかんとこう答えた。
「だってそうするとヨミの体重がバレちゃ……あ」
「つまり私はシランさんより重いと言うことですね、服を抜いても。シランさん細いですし……気にしてません」
「ご、ごめん」
ちょっと地味にダメージを負ったのか、ヨミがシンの背中にぐったりともたれかかった。シンは慌ててフォローしているが、何だか墓穴を掘っているようにしか聞こえない。シンは自分のペースからはみ出ると弱いなぁ、とちょっと思う。でもヨミが精神的に弱ったので身体的には休めるだろう……どっちの方が良かったかは、まあ、問わないことにする。
と、ゆったりしたところで。
「そう言えばヨミって名前、漢字はなんて書くの?」
ふと思い付いた問いを口にすると、何故かシランとヨミが顔を見合わせた。次いでシランとシンが見合わせると、シンはちょっと申し訳なさそうにはにかんだ。
そんな何かの確認作業を終えたシランは、ロウに向き直ると言った。
「ロウは、知らなかったか」
「……知らないのロウだけなんだな、そんなんだなシラン~」
落ち込むロウ。まさかこんなところで仲間外れにされているとは。酷いや、酷いや~。
「す、すみません、たまたまロウ君がいない時に話してしまって……じゃあ、今お話しますね」
「いいよ別に、ロウは仲間外れだもん、いいもん、ふて腐れてなんかないんだぞー」
やけっぱちになって意味なく土を蹴り上げる。ヨミが困ってあわあわしている、と言ってもシンの背中の上でだけだけど。そしてその傍らでこんな会話が聴こえてきた。
「大体なんでお前は知っているんだ?」
「だってたまたま話してる時に図書館に着いちゃって、入りにくかったからつい外からきいちゃったんだよ。ほら言っただろ? 土下座のと、むぐっ」
「言うな」
「ぷは。手遅れだろー」
確かに手遅れだ。バッチリ聴こえるし。そうか、ヨミに土下座しに行ってたのか、朝っぱらから。いろいろな意味で傍迷惑な。
シンの口を手で塞ぐという無駄な抵抗をしていたシランは小さく肩を落とした。
「もういい」
こうしてご機嫌斜めが二人になった。因みにヨミはもうさっきの体重の話は頭から吹き飛んだようで、とにかく慌てて、ひたすら謝りモードだ。そして一人無傷なシンは途方に暮れたように空を見て、唸って、それから申し訳なさそうに言った。
「悪かったって。あー、二人共、今度好きなもの作るからさ、なあ?」
「カレーだな?」
「カレーだぞ!」
「へ? あ、うん」
ロウとシランは息もぴったりに言った。そんな二人にきょとんとしたシンだったが、コクンと快諾してくれた。それを見ると少し機嫌も上向きになってくる。
「肉いっぱーいのだぞ! 野菜も溶けそうなくらい煮込んでて、ホクホクのご飯にこんもりかけて~、はう~、最低でも大盛り五杯は行きたいなぁ」
「そうなると炊き出し用の鍋が必要だな。俺の分がなくなる。具は指定しても良いよなシン?」
「……現金だなぁ、シランもロウも」
シンは呆れているが微笑ましそうな笑みを浮かべていた。密かにほっとするヨミもいる。ニコニコとシランの注文を受けるシン。ロウも何だか今から楽しみになってしまった。
「早く食べたいな~」
「そんなに美味しいんですか? シン君のカレー」
ヨミが不思議そうに妙に浮き足立っている珍しいシランを見て訊いた。同じく浮き足立ってるロウが満面の笑みで答える。
「カレーだけじゃなくて何でもおいしいぞ、シンの料理。たまに失敗するらしいけど、ロウはまだ当たったことないんだぞ」
「凄いんですねシン君は。私もシン君のお料理食べてみたいです」
ヨミが羨望の眼差しをシンに向けていると、注文を受け終わったシンがにっこりと笑って言った。
「なら今度シランんちに来なよ。ごちそう、してもいいよなシラン?」
「ああ、問題ない」
「ありがとうございます。……で、どちらにお住まいですか?」
「あ……」
「…………」
「ロウ達はお互いに知らないことばっかだなー。因みにロウ達は第八特区の第六守衛地区に住んでるぞ。鍛冶師の家はどこかって訊けば直ぐわかる」
何だか気まずそうに顔を見合わせたシンとシランの隣で説明をするロウ。ヨミはそんな二人の様子に困った顔をしていた。
「あの、知り合ったばかりですし、あんまり気にしなくていいと思いますよ。段々とわかっていけば良いことですし」
場を取り成すヨミの言葉。しかしシンは納得が行かなかったようで。
「そーはいかん! ちゃんと、せめて好きなものくらいはわかってないと!」
「親睦を深める必要はあるだろう」
とシランまで真顔でそんなことを言う。今度顔を見合わせたのはロウとヨミだった。
「それにスバル達とも! なんか空気悪いし、もっと仲良くしようぜー」
「え、俺ら?」
とシンからスバルら三人衆にまで飛び火。確かに一緒に行動してはいるが、移動中はスバルらが前に、ロウ達が後ろにという二グループに分かれて歩く形になっている。
しかし立場的にあまり仲良く出来る雰囲気でもないけどなぁ。案の定だけどシランがムスッとした顔になると言いにくいことをはっきり、むしろ堂々と言った。
「それは必要ないだろう」
「それはそれで傷付くな……」
「リーダーは繊細なんです、あまりストレートにそういうこと言うのやめて貰えないッスか?」
「そうですそうです! リーダーには見えないけど『割れ物注意』の文字があるんです、リーダーの心はガラス製なんですよ!」
「……お前らのせいでバラバラのぐちゃぐちゃだよ」
今度はスバルさんが落ち込んでしまった。仕舞いには地面にのの字を書きだす始末。いつの間にか皆の足が止まっていた。
結局平和的な話し合いの結果、スバル達は遠慮して、シラン、シン、ロウ、ヨミでの親睦会となった。そういうことで漸く進行を再開する。
「じゃあ言い出しっぺのオレからな。えっと好きな物は温かい人と掃除とか洗濯、あとシランのつくった刀だな」
「で、苦手なのは水だよなっ」
「別に、ちょっとくらいなら大丈夫なんだからな? ちょっと人より……怖がりなだけだぞ?」
結構気にしていたのか、シンは頬を膨らまして不満げに付け足した。そんなシンがおかしくてヨミが思わずクスクスと笑うと、更にムッスーとした顔になってしまった。
しかしそんなのお構い無しなシランが口を開くと、途端にそれが大分緩和される。やっぱり分かりやすいな、シンってば。
「俺は甘いものとシンのカレー、あとはまあ、刀が好きだな。読書もだ」
「あとお菓子作りはー?」
とシンが問うと、少し羞恥心があるのか、眉をひそめ、視線を下の方に向けたシランがぼそぼそと答える。
「趣味、だな。金がかかるからあまりやらないが……」
「趣味で刀造るよりは断然安いって」
苦笑されて不機嫌そうな黒い瞳でシンを見るシラン。そして刀造りも趣味で良いのかシン? そんな二人に何だかいろいろと驚いたのか、目を丸くして固まるヨミがいた。
「刀を造るんですか?」
「鍛冶師だからな。本当は刀鍛冶を名乗りたいところだが……俺が新政府だかに誘われている理由がそれだ」
「そう、だったんですか。でも多分欲しいのは金属を扱う腕なんでしょうね、刀造りではなく」
「だから余計に嫌なんだ。俺は刀を造りたいというのに……皆が刀を使うなら、俺が好きなだけ造っても誰も文句を言わないだろうにな。刀の良さをわかってない奴らばかりだ」
シランはなんだか子供のような文句を斜め下に吐き捨てるように言った。そんなシランに呆気に取られるヨミ。大笑いするシン。ロウまでにやけて言った。
「無限に材料はないよシラン。それに鉄を刀ばっかりに使ったら、大事な防護壁とか家がつくれなくなっちゃうぞ」
しかしそれにびっくりな回答が返ってきた。シランは至って真剣な顔で口を動かす。
「そもそも中央区の建物も木造にすればいいんだ。そして使わなくなった鉄やらを俺に回してくれれば何も問題なく俺はずっと刀を──」
「あははは、シラン刀鍛冶スイッチ入ったなー」
「笑い事じゃないぞ! シラン何気なく凄いこと、てか怖いこと言い出したー!」
今なおぶつぶつと呪詛のような言葉を呟いてるシラン、怖い! しかもいつも以上に無表情で妙な気迫まであるし。
「わわわ、ストップシラン! そうだ、次はロウの番だよな、な? ねえシラン、いいか?」
「──の柱をシンに頼んで引っこ抜、あ? ああ、それも、そうか。長くなって悪かった、ロウ」
「あは、は、いいんだ、止めてくれるなら、な……」
最後に聞こえた台詞が不吉過ぎる。シラン、その『柱』は中央区の大事な建造物のどれかから、じゃないよな? そこにシンの名前が出てくると洒落にならないんだぞ。とちょっと戦々恐々していたが、ヨミもシランの半ば独り言のような恐ろしい言葉が途切れたのでほっとしたような顔でロウを促した。
「じゃあ今度はロウ君のお話を聞かせてください」
それでようやくロウも落ち着けたので笑顔で応えた。
「任せるんだぞっ。えっとな、ロウは住民名簿では観月ロウって言うんだぞ。シランからちょっと借りたの」
そんなことを意気揚々と言い放つと、ヨミは驚いたというように口に手を当てた。
「そうなんですか?」
「そうなんだぞ。名前しか覚えてなかったからなっ。まあ、名字があったかもわからないけど」
「名前は、あったんですね」
意外そうに相槌を打つヨミに首を傾げる。何だか引っ掛かる、妙な言い方だ。
「どうかしたか?」
「……ロウ君の自己紹介を中断させてしまうのですが、私の名前の話を先にしてもいいですか?」
きっと今ロウが気になっているヨミの違和感の理由を話してくれるんだろう。さっきはあまのじゃくになってしまったが、ずっと気になっていた。だからロウは頷くとヨミを促した。
ありがとうございます、と言って話し始めるヨミは、小さくはにかんだ。傷痕を隠すように。でもあまり怯えの色は見えなかった。
「私は生まれた時、製造番号で呼ばれていました。でも私は人間と兎の子、まあ合成獣と言った方が分かりやすいでしょうか? その中でもイレギュラーだったので、特別な名前を与えられていたんですが……嫌いだったんです、私はそれが」
「だから別の名前をつくったのか?」
するとヨミは照れたようにちょっと俯いて頬に手を添えた。
「泉さんがですね、番号で名乗った私に言ったんです。『そんなものは名前じゃない』って」
「泉さんってだれ?」
シンが遠慮なく質問を口にして首を傾げた。そんなシンにも笑顔でヨミは答える。
「あの図書館の館長さんです。夢見泉さんと言いまして、私を拾ってくださった、無愛想だけどとても優しい方です。お年を召した方だったので、数年前に亡くなってしまいましたが、今も変わらず私の大切な人なんです」
「そっか……居なくなるのはきっとすんごい寂しいことだけど、今ヨミが笑えてるのは、その人のおかげなんだな!」
「はい」
ふんわりと、本当に幸せそうに微笑むヨミに、シンの頬も緩んだ。
「そんな泉さんの言葉に背を押され、考えたんです。名字は泉さんの素敵な『夢見』を頂きましたが、下の名前は自分で決めるよう言われました」
「ヨミって名前にしたのは本を読むのが好きだったからだよね?」
「ええ。逆に言うと私にはそれしかありませんでしたから。でも、当時の私はとても心が弱い私で、名前に酷い意味をつけました。自傷に何の意味もないのはわかっていたはずなのに」
「それでも、置いてきた兄弟への罪悪感から逃げるにはそれしかなかったんだ」
「……そう、私は逃げてばっかりです。……て、私、ちゃんとその辺りのこと説明しましたっけ? 研究所から脱走したとか」
急に我に返ったヨミがきょとんとした顔でロウを見る。やば、と思わず口に手をやりそうになり、でも何とか意思の力で捩じ伏せると平静を装った。
「……ほら、昨日ヨミ達が図書館飛び出す前にヨミとシラン、言い争ってたでしょ? その時だぞ。ちょっとだったけどそれで何となくは事情わかったぞ」
「あんな錯乱した支離滅裂な言葉でよくわかりましたねぇ……そう、私は独りで研究所を脱走しました。賛同してくれる方が、逃げられると信じる方が、誰一人いなかったから……」
肩を落とし、俯き、滝のように流れ落ちてくる罪悪感を背で受け止めるような覚悟を持った背中だった。しかしシンがヨミを背負い直すように揺らしたのでちょっとその悲壮感も薄れた。ヨミはびっくりしたのかシンの頭を凝視して、シンはヨミに見えないけど背中を通して伝えるかのようにシシ、と歯を見せて笑った。
「ヨミは頑張ったよ。希望を捨てず、独りでも頑張ったんだ。独りで出来ることは少ないよ。それでもヨミは勝ったんだ、研究所から逃げ切ったんだ。ならスゴいじゃん」
「……ふふ、そうですね。ありがとうございます」
ヨミは本当に嬉しそうに言った。シンの背中に顔を埋めて、微かに見える口端も笑みの形にして。ちょっとシンの言葉に報われたかなと思う。ヨミの背負うものは重すぎる。しかもそれにヨミの想いまで乗るから、ヨミ自身の重さで潰れてしまうんじゃないかと思った。
でも、きっとヨミは大丈夫だ。独りじゃなければ大丈夫。シンの言う通りだ、ヨミは強い。
「……それにお前の言葉を信じなかった馬鹿な奴らが悪い。何を罪悪に感じる必要がある」
空気が凍りついた気がした。シラン、相変わらず凄いことさらっと言うなぁ。しかしヨミは笑った。シランのふて腐れたみたいな言い方がおかしかったのもあるだろう。
「でもね、勇気と無謀で分けるなら、私の選択は圧倒的に無謀寄りだったんですよ。馬鹿なのは私だったんです。でも奇跡が私を救ってくれたからここでこうして、お喋り出来るんです」
顔を上げたヨミは、そんな時間を、事実をいとおしむように目を細めた。夕焼け色の瞳は温かな思いを湛えるようで、とても優しい色をしていた。
「で結局名前の話から脱線してるな?」
「あ、そうでした、ごめんなさいロウ君」
「ううん。ヨミのこと、いっぱい聞けて嬉しかったから良いよ」
本当にそう思う。ロウが満足げに微笑むと、ヨミもほっとしたように笑んだ。
「では脱線しないように単刀直入に言いますと、私の名前は黄色い泉と書くんです」
困ったようなはにかみ笑いを浮かべ、眉尻を落としてヨミは言った。対してロウは呆けた顔をした。漢字だけは知らなかった。きっと『読』とかそういう単純な名前ではないことは何となく察していたけど……『黄泉』。
「死者の国、かぁ」
「ええ。最初は自分への戒めでした。たくさんの兄弟が生み出されて、殺される中、私だけが幸福だなんて許せなかった。でも助けに戻ることも出来ない臆病者な私は……自分を苦しめて許された気になりたかっただけ」
唇を噛み、切なそうに目を伏せてヨミは言った。
「それでも生きたいと思えたのは泉さんが居てくれたからで、恩人を悲しませるようなことはしたくないと考える内に少しずつ私の考えは変わりました」
ゆっくりと目線を上げたヨミは、ロウを真っ直ぐに見詰めてから──。
「生きてるだけじゃ何も償えない。だからと言って全てを忘れたり、常に自分を責めて生きるのは間違っています。だから、新しい意味を自分の名前に与えました」
──シランに微笑んだ。シランは仏頂面の口元をほんの少し笑みの形にして頷く。それに勇気を貰ったヨミは、胸を張って言い放った。
「死を忘れず、過去を恐れず、日々強く、力一杯に生き続ける。彼らに胸を張って向き合うために、私はそうして行きたいんです。戒めの意味合いはまだありますけど、でも、もう自傷のための名前じゃないんです。それにたまたまですが泉さんからもう一字貰った形になってしまいましたからね。大事な大事な、私の名前であり、泉さんの形見なんです」
「とっても良い名前だな、ヨミ」
「ありがとうございます、ロウ君。シランさんもそう言ってくれて……やっと自信を持って名乗れるようになれそうです」
ほんわかとした空気。しかしシランはどうも空気が読めない気があるようで、いつもの不機嫌な顔で淡々と言った。
「それで。この話を先にした理由は『何故ロウは名前を持っているのか』か?」
「あはい! そうなんです。特異ケースなら別に命名される場合もありますが、大抵の研究所では番号で管理しているはずなんですよね。ロウ君の体にはナンバーは入っていないんですか?」
「なんばー?」
「数字だ。しかし……傷が多少あるだけでそんなものはなかったが」
シランがそう答えると、ヨミは考え込んでしまった。そんなに妙なことなのかと思う。
「……もしかしたら火傷の痕にあったのかもしれないが」
「火傷? ロウ怪我してんのか?」
急にシンが心配そうにロウを見てくるが、ロウは静かに首を左右に振った。
「ただの傷痕だぞ。ほら」
とシャツの袖をまくって見せる。右の肘から手首辺りまで、少し赤く爛れたような痕があった。しかしそれは微かなもので、とうにほとんど治っている。それを見たシンも安心したようで、良かったーと呟いていた。
「……もしかしたら上から傷が出来て治癒したから消えてしまったのかもしれませんね」
「因みにナンバーがあると何がわかるんだ?」
「出身の研究所が大体わかったはずです。その研究所のデータがあれば番号で誰が卵子提供者だとかがわかります。でもはっきり言って、どこの研究所でも不用意に近付くのは危険です……でも記憶の手掛かりにはなったかもしれません」
その言葉に、シランは歯噛みした。でもロウはわからない。思い出したいのか、そうでないのか。
シンとシランと住む理由の一つに記憶を取り戻すことは一応ある。でも微かに残る記憶の残さは、思い出しても酷く辛く苦しく悲しく、ただ虚しいだけだと伝える。
そして大切な人を守れなかったと。それだけは痛い程魂に刻まれている。それが誰なのか全く思い出せないというのに。
どうして忘れてしまったのだろう。逃げたかったのか。でも実際逃げたい。見え隠れする過去は恐怖を助長するだけ──。
「ロウ、大丈夫か?」
「……え?」
いつの間にか足が止まっていたらしい。心配そうにシンがロウの顔を覗き込んでいた。ロウは慌てて魂が抜けたような顔から笑顔に切り替える。
「ごめんなさい。ちょっと考え事してた」
「顔色悪いって。ロウも運ぼうか?」
「ヨミを背負った上にどうやってロウを運ぶつもりだ?」
「……抱っこ?」
呆れたシランが責めるような視線を送ると、シンは誤魔化すように笑ってロウの頭をポンポンと撫でた。
「大丈夫か?」
本当は大丈夫と即答したかった。でもさっきの考えが、不安がなかなか離れなかった。
そのせいで返事が遅れてしまったから、今から大丈夫と言っても明らかな嘘になってしまう。どうしようかと困ったようにシンを見上げると、朝焼け色と並んで夕焼け色の瞳とぶつかった。そしてそこにはいたずらっ子のような誘いがあって。
ロウはそんなヨミに乗っかって開き直ることにした。
「ロウあんまり大丈夫じゃないんだぞぉ、シン~」
「ええっ! じゃあどうすれば大丈夫になる? 何かオレに出来ることあるか?」
すると待ってましたとばかりにロウは両手をシンに伸ばして、満面の笑顔でこう答えた。
「抱っこ~」
隣でシランがずっこけた。シンは呆気に取られていたが、直ぐにくしゃっと笑った。
「いーよ、甘えん坊さん」
軽々とシンに持ち上げられ、抱き抱えられるとヨミと顔が近かった。目が合うと二人揃ってえへへ、とにやける。
「シランもやる?」
「誰がやるか!」
真っ赤になったシランが面白くて、皆でいっぱい笑いましたとさ。