022□痛みの訳【狼】
知ってしまったことをなかったことには出来ないんだよ。
そんな風に語るロウ君視点の第二十二話。ちょっとだけ時間を巻き戻した冒頭より始まります。
司書室から出たロウは、辺りを見渡そうとしてやめた。だってシンは直ぐに見付かったからだ。
「シン」
「うわわ、ロウ?」
と言うか、図書館の扉の前で踞っていて、そこは司書室から丸見えだった。そんなちょっと間抜けなところにに座り込んだシンの目元は腫れ上がり、鼻も赤くなっていた。
シンは目をぱちくりさせて近付いてきたロウを見上げた。でも元々身長の高いシンはしゃがんでもロウの肩くらいにしかならなかったのだけど。
「な、なんだよ、話終わったのか?」
「そういうのはシランに任せてきた。ほら、顔凄いことになってるぞ? ヨミにハンカチ借りただろ、貸して」
しかしシンは困った顔をするだけで渡そうとしない。ロウが首を傾げると、ぼそぼそと言い訳するように言った。
「なんか、悪いから」
「汚すのが?」
「……うん」
「そんなの気にしてたらハンカチ使えないし、ヨミの好意も無駄になっちゃうぞ、良いのか?」
どうするの、と言うように手を差し出す。シンは暫くロウの手とヨミのハンカチを見比べていたが、観念したようにハンカチをロウの手にぽんと置いた。
「……良くない」
「うん、じゃあ拭くね」
涙やら鼻水でぐじぐじになった顔を拭ってやる。ちょっと戒めみたいなものを込めて心なしか強めだった。でもシンは文句もなく、何だかシランみたいなムッスーとした不機嫌顔でされるがままにしていた。
何となくわかる。これは機嫌が悪いと言うよりは、恥ずかしいんだろうな、照れ隠し、あと決まりが悪い。皆の前で泣いたこととか、いじけてるところ見られたとか、そんな感じ。
「はい終わりだぞ」
「……ありがと」
でもぶっきらぼうに答えるシンは、そんな事情を抜いても何だかシランにそっくりだった。
「どうしようか」
「どうしよう、って……」
びくびくしながらシンは司書室の方を見た。
「戻るか?」
「っっ!」
頭をぶんぶん横に振って答えた。よほど嫌だと、恥ずかしいと見える。
「む、無理、却下!」
顔を少し赤くして、声が向こうに届かないよう堪えながら叫ぶという器用なことをして見せたシン。流石に可哀想だよな、と思い苦笑した。
「そうだな、ロウも今から戻るのは気まずいし……本でも読もうか」
「うえっ」
恥ずかしがっていたはずのシンは、ゲッ、という顔に瞬時に替わった。そんなに嫌なのかと、つい笑ってしまうと、シンがまたムスッとした顔になる。だから直ぐに訂正を入れて機嫌を取ることにする。
「大丈夫、ロウが声に出して読むから」
「良い、のか?」
「うん。それに二人の方が楽しいからなっ」
すると一転して曇りのない笑顔になるシン。本当にわかりやすいなぁ。
「シンが選んで良いぞ、何が読みたい?」
自然と出たのは苦笑じゃなく、微笑だった。シンに笑い掛けながら問う。
そして返事は最高の笑顔と共に。
「もっちろん料理の本!」
これ以上があるのかと思う程晴れやかで無邪気な笑みだった。
□ □ □
「あ、シラン」
涙もちゃんと綺麗に拭いていつも通りになったシンが、やっぱりいつも通りの喜色の滲む声で司書室から出てきたシランを迎えた。
ついさっきまで夢中になっていた本は、扉が開いた瞬間にシンの意識から弾かれてしまったようだ。本当にシラン第一主義だなぁ、と思う。
しかしシランは。
「さっきは本当にすまなかった……出るぞ」
とだけ言うと早足に図書館を出て行こうとする。慌ててシンが一緒に読んでいた本を棚にしまい、シランを追った。ロウは立ち上がるともう一度司書室の方を見た。扉は固く閉ざされている。シンが戻した本をちらりと見ると、ロウも急ぎ足で二人を追い掛ける。
「パンドラの箱」
開けちゃったね、と一人呟いた。
□ □ □
「どーしちゃったんだよシラン。ヨミは? 結局どういう話したんだよ? 途中で出てきちゃったオレも悪いけどさ……シラン?」
怪訝な顔をしたシンがシランの顔を覗き込むがシランはふさいだままだ。
宿に到着したロウ達は部屋で休んでいた。と言うか、シランが黙って一番端のベッドに座ったかと思うと部屋の隅を向いたまま動かなくなってしまったから、なのだけど。
「具合悪いのか? ヨミに何か言われた? それともさっきの気にしてる? あ、ばかばか言ってごめんなさい。……ええーと」
シンも困ってしまっている。弱った顔でロウを見て、またシランに視線を戻し、懸命に話すがシランは反応がなく、ちょっと泣きそうな目でロウを見て──。
その繰り返し。
流石に見ていられなかった。シンがあんまりにも可哀想だし、シランの落ち込みようも酷い。
また目があった時、今度は頷いて見せた。シンはほっとした顔で頷き返す。ここからはロウの仕事だ。
「じゃあシンはスバル達の部屋にでも行っててくれるか? シランと話したいから」
「……わかった。お願い」
逡巡したがシンはもう一度頷くと、部屋を出て行ってくれた。足音が斜向かいの部屋に向かったことを感じ、素直だなぁと感心のような安堵みたいな感想を抱く。
「……どうしてシンを出した?」
横からのシランの問い掛けに、ロウは微笑んで向き直る。
「居た方が良かったか? シン居たら話しにくいだろうと思ってなんだけど」
「いや……ありがとう」
なんだろうな、と苦しそうな声で、でも安心したみたいな顔をするシランを見る。
「辛かったなら、シンにもそう言えば良いのに」
心配されていることが心苦しかったなら、しばらくほっといてくれと言えば良い。後悔に押し潰されそうなら話を聞いて貰えば良かったじゃないか、と思った。
全部伝わったかはわからなかったが、自虐的な笑みを浮かべてシランは答えた。
「救いを求めることがまず筋違いだ」
「……バカ」
なんにもわかってないじゃないか。
思わず拗ねたみたいに言ってしまった。シランが目を丸くする。シンの時は驚かなかった癖に、なんでロウが一回言っただけでそんな驚いた顔するのさ。
「シランはそれ直す。それ、シンは泣くかもしれないけど、ロウは怒るぞっ」
「……すまん」
「ムカッと来る。せめてシンの前では言わないでよ。そん時は殴るから」
「なぐっ……わかった」
「バーカ」
シンの生き霊でも入ってるのかと自分でも不思議に思う程自然に怒ってた。簡単とは言え罵倒の言葉も平気で飛び出す。調子が狂うな。
……うん。うじうじしてるシランが悪いんだ。
「まあ、でも、考えなしにヨミに『人が怖いのか?』とか言っちゃって傷付けた後じゃそうなるよな」
「んな」
シランが硬直する。それを見てちょっと落ち着いた、と言うか溜飲が下がったロウは、逆に申し訳なくなり小さく言った。
「ごめん、聞いてた」
「な、なな、ど、どうやって? だってお前……」
「あのくらいの距離なら頑張れば聞こえるぞ。ドアも隙間微妙に開けて出たから」
「…………」
絶句したシランがまじまじとロウを見た。それから恐る恐る口を開く。
「シン、は」
「ううん。まず間違いなく聴いてない。まあ実は凄い賢い子でした、というなら聞いてたかもしれないけど、本に夢中だったし聞いてないよ、多分」
「は、ちょっと待って、本に夢中? 字を読めないシンが?」
「ロウが読んであげてたの」
「音読しながら耳を清ませてた?」
「そう」
「…………」
再び絶句のシラン。漸く呟いたのは、器用だな、の一言だった。
「心配だったから、つい。ごめんなさい」
「いや、良いよ」
呆れと感心がないまぜになったような、惚けた顔でシランは許した。それにロウも安堵する。
「じゃあ本題に話戻すぞ?」
「ぐっ……ああ」
口をへの字に曲げた情けない顔で渋々と頷いた。しかし逃げるつもりはなさそうだ。そんなシランににっこりと笑い返すとゆっくりと話し始める。
「ヨミは人が好きなんだぞ。だから怖いという矛盾を隠してたんだ。他の人にだけでなく、自分自身にさえね」
「何故、そう言える?」
「シランも見たでしょ? 司書室にあった資料とかメモ。大体は図書館の学問の本だった」
様々な人が利用出来るよう、しやすくなるように考えるもの、考えられたもの。そんな本や本から書き留めたらしきメモが大量に見受けられた。
「もし自己満足で図書館を守る、って考える人ならそんなことしないし、利用する人のことを大切に思ってなきゃあそこまで出来ないよ」
「……ああ、俺も見た」
「だからあんなヨミを見て思ったんでしょ? 矛盾してる、おかしいって」
「……その結果があれだけどな」
「知ってはいけないことだったんだよ。シランはそれを教えちゃったんだ」
シランは沈痛な面持ちで頷いた。わかっているのかな? でも多分わかってる。結構シランはそういうところは理屈じゃなく感覚、心で感じて理解するから。
だからこそシンと出逢って世界が広がったと感じたのだろうけど。
しかしどうするかはとことん頭で考えてしまうから袋小路に入って、身動き取れなくなり勝ちなのだろう。
「ヨミは今まで独りで強がってたんだ。そうじゃなきゃ立ってられなかったから。矛盾が心に突き刺さるから」
自衛の為には知らないことにしなければいけなかった。無意識の防衛だ。
「でもシランが教えちゃったから、もう知らん顔出来なくなった。ヨミは人が好きで人が怖いという矛盾と戦うことになる。ううん、戦ってる」
「無神経な俺の、せいだな」
「そうだな」
目を丸くした、ギョッとした顔のシランがロウを見た。ロウはニコニコとその驚愕の表情を受け止める。するとシランは直ぐに項垂れてしまった。
「そうなんだ、だから、俺がやらなきゃいけない。俺が、出来ることをしよう……ヨミがちゃんと向き合えるように」
「ロウ達ができること、だぞ?」
「……ロウ、達?」
ゆっくりと顔を上げたシランは、全くの予想外といった惚けた顔でおうむ返しに言った。
「シランの失敗は残酷だったかもしれない。でもきっと踏み出さなきゃいけないものだから、シランで良かったんだよ」
「良かった? 俺が突き付けた事実が?」
あんまりにも情けない、珍しいくらい狼狽したシランに、思わず笑いが込み上げて来る。
「ちょっと違う。ロウが言いたいのはな、たまたま矛盾を指摘した人が、超絶にお人好しで責任感の塊みたいな人だからほっとくことなんか出来なくて、ヨミも問題から逃げずに済むね、ってこと」
シランは林檎でも丸呑みしたみたいな変な顔になった。そして恐る恐るといった体で確認の問い掛けを口にする。
「それは、俺がしつこく何とかしようとするから、ということか?」
「そこは素直に受け取ろうよ。ほら、一人で立ち向かうには、現実って冷たいじゃない。世知辛いって言葉もあるし」
「……今日は一段と子供らしくない発言だな」
「ロウは子供じゃないもん」
そう言って笑うともうシランは何も言えず天井を仰いだ。何だか声にならない悲鳴が聞こえる気がする。
「とにかく伝わったか? シランの問題ならロウもシンも勿論手伝うし、そもそも優しいシランならロウ達居なくても絶対円満解決してくれると思ってるんだぞ」
「……その信頼度の高さは何とかならないか?」
「それは無理だなぁ」
だってシランがシランだからこそだから。
どんなに失敗しても、間違っても、シランがシランらしく正そうとする限り全く信頼は裏切られないから。シランのその眩しいくらいの真っ直ぐさは、どう考えてもシランの性格じゃ曲げられないだろうし。だからもうこの信頼度はどうしようもないんだよな。上がることはあっても下がりそうにない。
渋い顔になった彼を見返しながらそう思い、一人頷く。彼は深々と嘆息した。
「まあまあ、誉めてるんだぞ?」
「笑顔で言われてもな……遊ばれている気しかしないのだが」
「そんなことないぞ? ちょっと楽しくなってきたけど。ヨミの気持ちがわかると言うか」
「…………」
「あは、ごめんって。ほら、ヨミのこと、まだ言ってないでしょ、あれ」
「あれ?」
きょとんとした顔で首を傾げるシランに、もう普通の表情を忘れてしまったみたいに自覚できるほど凄い良い笑顔のままロウは言う。
「ほら、俺も行くから一緒に行って話聞いて、で断るなら一緒に頭下げて帰って来よう、みたいなお誘い」
その言葉に、シランは完全に固まり、次に顔を真っ青にすると叫んだ。
「な、なんでロウが知っ、あ、いや…………はぁ。お前は本当に何でもわかるんだな」
「シランのやることって、とっても分かりやすいよね」
シランはちょっと恥ずかしそうに顔を赤くした。けど、直ぐに妙に神妙な顔になるとロウに尋ねた。
「それをヨミはどう受け取ると思う?」
不安なんだろうな、と思う。でもロウはあっさりと首を横に振った。
「それはヨミに聞かなきゃわからないことだよ。シランが聞くことだ。シランがどうするかが大切なんだぞ。心配しなくてもなるようになる」
「……そんな軽く構えられない」
「うん、シランはそれで良いんだよ」
「……そうか。じゃあ立て続けだとヨミも落ち着いて考えられないだろうから──」
「そうだなっ。スバル達が行く前に訪ねてみようか」
「……読心術でも使えるのか?」
「唇の方なら多分出来るぞ」
「それはそれで凄いな」
何となく目を合わせ、二人は動きを止めた。ロウは相変わらずの笑顔で、シランはいつもの仏頂面に戻って、互いの視線を受け止める。
先に降参したのはロウのご機嫌にうんざりしたようなシランだった。
「……シンにちゃんと謝ってくる」
「それが良いな。シンはもう全く気にしてないから、焦らず気負い過ぎないようにな」
そんなアドバイスに苦笑したシランは感謝の言葉を告げると、疲れた横顔で部屋を出ていった。
一人部屋に残される。
「意地悪だったかな」
いろいろな意味で。でもシランにはズバズバ言っちゃった方が良い。一人だと長いから、ひたすら悩む時間が。そういうのが必要な時もあるけど、今回はそんなに猶予はなかったので強引にまとめて答えが出せるよう手伝ってみた。余計なお節介だったかもしれないが、でもシランを助けられるなら助けたいし、ヨミも放っておけない。
でも、だ。
やっぱりああいう読心術みたいなことは控えた方が良いだろうなとも思った。シンやシランだから好意的に受け取ってくれるが、下手すれば気味悪がられる。怖がられる。それは……避けるべきだろう。ロウだって嫌だから。
「──ぅわわシ、シラン!」
不意にシンの声が響いてきた。向こうの部屋が何だか騒がしい。あれだけ言ってもやっぱり土下座とか始めちゃったかなシランは、と思い苦笑する。だってシンの慌てた声がまだするから。
ロウは腰を上げた。このままじゃ苦情が来る。止めて来なきゃな、とドアに向かう。
その道すがらに思う。
これからの未来。ロウは余計なことを散々してしまいそうだ。いや、するだろう。今のことも、今までのことだって余計なことと言える。でも好きな人達だからほっとけないのだ。知ったことを知らなかったことには出来ない。丁度今のヨミのように。突き付けられた現実から逃げる術は生きている限り皆無だろう。だからロウは逃げずに向き合うしかないんだ。やれることをやって、最善を尽くすしかないんだ。たとえ。
たとえその結果が、どんなに悲しい事実に辿り着こうとも。
急に胸が張り裂けそうな気持ちになって、引き吊るような声が、か細い声が溢れた。零れ堕ちた。
「……シ、ラン。シンッ──」
誰か、聞いて。誰か大丈夫だと言って。そんなことないよって慰めて。
「誰か」
誰でもいい。
「だれでも、いいから──」
でもこの声は届かない。ロウがそう望むから。
歪な笑みは笑顔の仮面で隠そう。歪んだ言葉は優しさで包もう。悪夢の未来は誰の目にもつかぬ場所で消してしまおう。
大丈夫。まだロウの世界は温かく優しいから。
「続くための努力をしよう」
幸せのための努力を続けよう。