021□知識の代償【紫蘭】
最初コメディ?、後半真面目な感じです。シランの思い、本音がわかります。
では今更シンやシランのキャラが掴めて来ました、という爆弾発言をしつつ、シラン視点の21話をどうぞ。
通されたのは図書館の奥、司書の控え室みたいなものだろう。
大きめの本棚が一つと、古めかしいどっしりした木の机、それに隠れるように小さな丸椅子が四つあった。あとは細々とした筆記具の類いやメモが、机の隅やラックの上に纏められているだけ。
部屋の主は几帳面らしく、とても整然としている。本棚の中のノートなどの資料も名前の書かれた背表紙は全て手前に向けられ、丁寧に置かれた仕切りで多種多様な資料は秩序を作り、綺麗に分かりやすく並べられていた。
ヨミと名乗った、恐らくこの部屋の主である少女は、俺たちに席を勧めると自分は奥のキッチンに隠れてしまった。それにシンがそわそわしだす。多分ヨミが用意しているお茶が気になるのだ。シンは客が、自分が接待を受ける側になるのが大の苦手だ。落ち着かないらしい。しかし人の家だから勝手に台所に入るのは失礼だろうと何とか堪えているようだ。……ちょっとは素直に好意を受け取れよ、と思う。
「シン」
「なんだよ」
不機嫌そうな声なのに、こちらに向く目はまるで待てをしている犬みたいに真っ直ぐだった。それに思わず苦笑しつつ、尋ねる。
「今から何を話そうとしているか、お前はわからないだろう?」
「ああそうだよ、そーですよ。バカなんでオレにはさっぱり伝わんなかったさ。で、親切に言葉にして説明してくれんの?」
どうやら酷く臍を曲げているシンは、口を尖らせて、全く期待しない目で、でもやっぱり真摯な目で見ている。
しかし俺は未だに答えを出せずにいる。つい月色の瞳を探してしまいそうになるが思い止まった。そこは頼ってはいけないところだと思うから。
しばし黙考する。
シンにとって何が良いのか。シンは過去に囚われない。だからと言って過去が要らないのではない。自分が何者なのかの答えを必要としないわけではない、と思う。
いやそもそもこれがシンに関わる話になるかもまだ俺にはわからない。ロウとシンは根本的に違うものである可能性だってある。
狼と竜。
その二つの間には本当は大きな違いがあるのではないか。実在している動物と、空想の世界の生物。そこの違いはどう受け止めれば良い? どう判断すれば良い?
でも最後にそれを決めるのは──。
「ロウは狼だぞ」
不意にした声に、はっとする。気が付けばティーカップを並べ終え、正面の席に着いたヨミがいた。そしてヨミの隣に座ったロウが好きな食べ物でも教えるみたいに言った。
「狼、なんですか。だから狼君……でも怖くないですね」
「ロウは人間っぽい狼だからなっ」
「そうですか。なら私は兎ですよと答えなければいけませんね」
「ああ兎かぁ。そっかそっか、確かにそんな感じだよなヨミは」
シンまで納得顔で頷く。何と言うか……案外あっさりしてるな、と思った。ついさっきの悶着はどこへ行った。と拍子抜けした顔をしていたようで、ヨミが俺を見てクスクスと笑った。
「すみません。なんだか……ほっとしてしまって。さっきはごめんなさい。話も聞かずに酷い対応をしてしまいました」
そう言って深々と頭を下げるヨミ。それに思わずムスッとした顔になる。
「俺は気にしていない。謝るならシンに謝ってくれ。それより俺こそあんなタイミングで、あんな説明で話を聞かせて欲しいと言うのは……図々しかった。しかもそれをわかって強行した。……すまない」
立ち上がると俺は机に頭突きをする寸前まで頭を下げた。そして更に図々しいことを宣う。
「それでも、そうしてでもこうして話し合いの場が欲しかった。気分を害しただろうが、話を聞かせて欲しい」
「……そんな、仰々しいものでもありませんよ。それに……全て話すつもり、ありませんから」
そう言ってヨミはにっこりと微笑んだ。何と言うか……黒かった。
「では何からお話しましょうか」
一口紅茶を含み、落ち着いたヨミが静かに改めて口火を切った。
「そもそもどこまで知っているのですか?」
「……推測の域を出ない程度、噂程度だな」
「お二人は何も知らない、と?」
その質問に、カップを引き寄せた手を止め、神妙な顔で答えた。
「もしかしたら記憶喪失なのかも、しれない」
「オレは違うからなー、それ」
シンが無駄に自信ありげに、いや、当たり前という風に言った。
そして俺の手を遮るように手を伸ばして砂糖の入った小さな壺を拐って行ってしまった。流れるような動作に唖然となる。目標を失った手が力なく机に落ちた。ギチギチとオイルをさしていないゼンマイのようにゆっくりとシンの顔を見る。
すごい笑顔だった。
しかもいつの間にか俺のカップまで手にしている。全く気付かなかった。お前は手品師か。
「砂糖はあんまり入れちゃうと、せっかくの紅茶の味がわかんなくなっちゃうから程々にな。一番はやっぱり砂糖なしミルクなしそのまんまだよ。元々良い匂いなんだしな」
とか言いながら手際良く俺のカップに砂糖小さじ三杯を入れるとにっこり笑って。
「はいシラン」
「……ありがとう」
カップを受け取ると小さく啜った。スッとした紅茶の香りとほんのりとした甘さが口に広がる。確かに良い匂いだ。
再びシンに目を向けると今度はロウの紅茶を拉致していた。こちらは砂糖二杯。
「仲が宜しいんですね」
ヨミが微笑んで言った。それに俺は苦笑だ。確かに険悪とは程遠い、良好な関係。それは喜ばしいことだが。
「シンが俺の母に似たおかげで、まあ生来のものかもしれないがちょっと度を超す世話焼きになってしまい、いつもこんな感じだ」
「だってよー、シランとかほっとくと砂糖五杯とか平気で入れるんだぜ? とーにょーびょうってのになっても知らねえからな」
「なら放っておいてくれ」
「やーだよ」
そう言うと小憎たらしい顔でにしし、と笑った。俺はため息一つ吐いてもう一口紅茶を口に運んだ。
ロウも俺もかなり甘いものが好きだ。そのせいでたまに半田さんや美崎に「甘党」だの「糖尿病予備軍」だのと言われ、それがシンにまで定着してしまったのだ。……困る。
「ではロウ君が記憶をなくしている、と言うことですか?」
「そうだぞ」
「……生まれが野生ということは
──」
「そういうとこの記憶はすっぽり抜けてるみたいだから良くわかんないぞ」
「そうですか……そうですね、それに関係ありませんし」
「関係ない?」
意外に思い、思わず口を挟む。するとヨミがこっちを見た。何だか哀しげで、微かに青くなった顔で。
「私達が危惧することに、出自は関係ないでしょう?」
その言葉に、目を見開く。ヨミは小さく微笑む。
「知っていますか? 狂った研究者、まさにマッドサイエンティストに相応しい、生命の冒涜者たちを」
「……噂、程度にな。実在、するのか」
「ええ、私が証明ですよ。明らかに人間の枠を越え、変異種の中でも異質な存在。人間のようで人間でない、獣。混ざり者、レプリカ、獣人、劣化ファクター……変異人間なんて呼ばれたりもしましたね」
そう言ってヨミははにかんだ。何だかそれが痛々しかった。俺は自分のカップに目を落とすことで、逃げた。赤褐色に染められた、香り立つ湯気を立ち上らせている境面は、不器用でどうしようもない自分の顔を勝手に映し出している。
「すみません。気持ちの良い話ではありませんよね」
「……謝るな」
まるで弱い自分を責められているようだから。やめてくれ、頼むから。そういう達観したような、諦めた笑みなんて、しないでくれ。
唇をぎっ、と噛み締める。無力感がただただ俺を襲う。
「逆にあなたは、何に対して謝っているんですか?」
再び目を見開く。いつの間にか顔を上げていた。だから固まる俺をよそに、ヨミは不思議なほど穏やかな表情で、緩く結ばれた口をそっと動かしたのがよく見えた。
「あなたは何に罪悪感を抱いているんですか? あなたが悪いことなんて、一片足りともないと、私は思いますけど」
会って間もない、しかも一度拒絶したにも関わらず、ヨミは何故か妙に確信を持った口振りで話す。俺は戸惑うばかりだ。
「どうしてそんなことが言える?」
「だって、シン君とロウ君を見れば一目瞭然じゃないですか」
驚いて二人に視線をやろうとしたが、その必要はなかった。何故なら二人共俺を見ていたからだ。真っ直ぐな目で、迷いなく。言葉で言う必要なんてないと知っているみたいに。
「重たいと、思いましたか?」
「思った……思っている。ずっと、前から」
あの日、鮮烈な赤に出逢い、再会の願いが果たされた、あの瞬間から。
背負って行かなくてはいけないような気がして。それなら決して落とすものかと踏ん張って、歩いて行かなくてはと思って。
でも俺一人ではあまりに無謀で、結局何も出来ずただただ与えられてばかりなのが口惜しく。反面、居心地よく。
だからと言ってそのままで良いはずもなく、そして俺の責任が消えたわけでもない。
「俺に出来ることなんて何もない。だから重かった。何も出来ない、何もしてやれない俺を選んだシンが。その上にロウが。俺は弱くてどうしようもない、何も知らない愚か者だと言うのに」
俯きかけたその動きを止めたのは、盛大に音を立て椅子が転がったのと、乱暴に机が叩かれた鈍い音だった。続くのは悲鳴のような心からの叫び声。
「そんなことねぇよ! 何言ってんだよ、シンが教えてくれたことも、これも! シランがしてくれたことじゃねえか。オレは、オレにとっては! シランはすげぇ物知りで優しい、本当に、本当に──っ!」
これも、と言って刀を突き出して見せる。俺は鍛えた刀。人間になりたいと言ったこいつにやった刀だ。それを掲げてシンは何故か今にも泣き出しそうな顔で。いや。
「悪かった……だから泣くな」
「な、泣いてねえ! 泣いてねぇよぉ。っ、だいたい、シラン悪い……いっつもいっつも自分は、ダメだとか……なっ、なんでそんな、うぐっ、悲しいこと、言うんだよぉ」
もうぐっちゃぐちゃだった。涙が際限なくぼろぼろと溢れ返り、嗚咽で言葉も隠れてしまう。体裁も羞恥も何も考えていないような泣き方。思いのまま、この大きな泣き虫は泣いていた。
「大丈夫ですか」
「シンの言う通りだぞ。シランは自分を卑下しすぎっ」
ヨミはシンの顔を気遣わしげに覗き込んでハンカチを差し出していた。ロウは駄目でしょと言うように、ちょっと怒った風に俺を見た。俺は小さくなることしか出来ない。
「っばーかばーかシランのばーか! もう知らねえ、っううぅ」
ぐずぐずと鼻を啜ったり涙を拭ったりと忙しいシンはそんなことを言い捨てると、ずるずると足を引き摺るみたいな、死霊のような動きでゆるゆる歩いて部屋を出て行ってしまった。走らなかったのは多分前に感情が高ぶった時に勢いのまま駆け出し、何軒か建物をぶち破った事件を忘れていないからだろう。微妙にほっとしてしまうのは仕方ない。
「シラン。自分が好きじゃないとかロウもわかるけど、でもシラン好きな人はそういうことをシランが言っちゃうとすっごい哀しいし、シンみたいに傷付いちゃうから……特にシンの前では言っちゃダメだからな? 約束だぞ」
「……ああ、すまない……約束だ」
絞り出すように何とか俺が答えるとロウは苦く笑みを浮かべ頷き返した。そしてヨミに頷く、と言うか会釈のようなことをするとロウも席を立ち、シンを追い掛けて行った。
残ったのは二人。
「ではシン君のことはロウ君に任せて、話しましょうか
」
「……ああ、頼む」
微笑むように言うヨミに、我ながら苦しそうな情けない声で応えた。しかし後が続かない。そのことをいぶかしみ、いつの間にか下を向いていた顔をヨミに向けた。ヨミは微笑を湛え、待っている。いや、待っていた。俺が顔を上げるのを。
「何が辛く思うのですか?」
「俺には出来ることがあまりに限られていることだ。俺は何一つ返せない」
「何を貰ったのでしょうか?」
「……意味」
見たことない程透き通った赤から目が離せなくなる。シンとは違う、水晶のような鏡のような瞳を見返して、自分を見詰めて続ける。
「俺は何をしたいのか、わからなかった。知っていてもその意味が解らなかった、解ろうとしなかった。でも、あいつが」
あいつが尋ねたのだ。人とは何か、獣とは何か。何をしている。
お前は誰だ?
言葉ではない何かでそう、訊かれた気がして、それに応えたくて。逆に訊きたくて、知りたくなって。
お前の名前は?
それが始まりで。言いたいことを知らないやつと、言いたいことが解らない馬鹿が会って。
教えられたのはこっちだ。
「あいつが、訊くんだ。これは何だ、どうしてそうなってる。知っていることを教えると言うんだ。本当だおいしいな、すごいな、きれいだ……俺は改めて考えたこともなかった。そういうものだと思っていて、でも理解しようとせずそのままを受け入れていて」
だから改めてシンに教えるために考えて、シンが感じた素直な気持ちを聞いて。
「シンのおかげで漸く解ってきた気がするんだ。世界が急に広がった気さえした。俺は知っていたのにまるで見えてなかった」
「シランさんにとって、シン君は大きな存在なんですね」
「ああ、本当に」
「だから失いたくないんですね」
「そうだ。ロウだって、そうなんだ。欲張りと呼ばれても構わない。ただ守ってやりたいと思う。もう独りで戦わせてやりたくないんだ」
「……ようやく、わかった気がします」
息を小さく吸うと、穏やかな顔で唐突にヨミが言った。声のトーンがまた変わり、虚を衝かれ、さっき以上にまじまじと赤い目を見てしまう。しかしヨミは全く気にしない、マイペースで続けた。
「シン君たちの信頼の理由や、私が安心出来ると思った理由。シランさんは誰よりも純粋で真っ直ぐなんですね」
「んなっ」
意外性が高過ぎてそれ以上の反応が続かなかった。硬直する俺を楽しげに、愉しげに見るヨミ。案外悪女なのか、と膠着を逃れた頭のどこかがそんなことを呟いた。
「研究所は大小様々、無数にあります。でも今のところ気付かれていないならきっと大丈夫ですから、いざというとき動けるよう心構えをしていれば良いと思いますよ」
「な、んで」
このタイミングで本題に戻るんだ。
惚けた顔にそう書いてあったのを読み取ったのか、ヨミは歌うように応えた。
「シランさんは渋い顔よりも間抜けなくらいが良いと思ったからですよ」
「答えになってない……」
「ふふ。何かあったら私にお知らせ下さい。是非力にならせて貰いますから」
「それだけ?」
「シランさんは知っていても知らなくても無駄に悩みそうですから、なら無闇にリスクを冒す必要はないのですよ」
「なんだって?」
「だからシランさんは幸せに暮らしていれば良いんですよ。ほら、シン君達も図書館の中で待ってます。行ってあげて下さい」
あまりに優しい笑顔。
まだだ。まだ終わっていない。俺の用事はまだ一つ残っている。
「……お前は、お前はどうするんだ?」
「図書館を守ります。それが私の願いで役目ですから」
「それで良いのか?」
「私がやりたいんです。シランさんは気にしなくて良いんですよ。その優しさは二人に──」
「良くない」
グッと眉間に皺が寄ったのが自分でもわかった。それにヨミはきょとんとした顔をする。
「どうしてですか?」
「単刀直入に言うと、俺も日本政府とやらに呼ばれて、今向かっているところだ」
ヨミの顔が凍り付いた。でも俺は続ける。
「頼れる人がいるなら良い、だが」
「大、丈夫です」
苦し紛れな声。急に弱々しい顔になったヨミが、振り絞るように口にする。
「図書館を守るのが、私の仕事ですから」
「見たところ一人だろう、図書館に居るのは。他の人は──」
「大丈夫ですから! 私は大丈夫なんです、強いから、普通じゃないから! 一人で、守れます、大丈夫なんです……」
叫び、俯くヨミ。その上に声をかける。
「強がるな」
「強がってません」
「人に頼るのも必要だ」
「必要ありません」
頑ななヨミの言葉に違和感があった。さっきまでのヨミはそんなことを言うやつだったか? いや。じゃあどうして。
「もしかして、怖いのか?」
びくっと肩を大きく揺らしたヨミが俺を見た。怯えが湛えられたあの赤い瞳で。本当に兎のようだと思わず思った。
「人が、怖いのか?」
「あ」
悲鳴にもならない声が一滴だけ溢れた。見開かれる目には微かに絶望が見えた。
そして漸く俺は自分の愚かさを知った。
知っては、教えてはいけないもの。触れてはいけないものに触れてしまったことを、今更自覚した。
しかし全ては手遅れで。
静寂が場を支配した。