■3-2.古傷
庵は夜の匂いに満たされていた。
灯の松脂の臭い、褪せた畳に残る草の香り、己に染みついた煙草と血の腥さ。そして伽羅を焚いたような鳳仙の残り香も。
白檀と麝香を下品にならぬ程度に調合させた甘い匂いであった。その柔らかさの中に、零陵香の辛さで枠と格をつけることも忘れていない。控え目ながらも完成された香気は、己の存在を誇示するかのように俺の周りを漂っている。
――貴方には、会いたい女が彼岸にいるのね――。
鳳仙の言葉が蘇る。
そんな筈はない。だが、即座に否定できなかったことも事実である。
今迄、全く気に留めていなかった胸の内に、膿腐った創があると誹られた心持ちであった。
思い当たる者がいない――訳ではない。
ひとり、いるのだ。
その女の影を認めた途端、再会を望む念に火が点いた。その炎は自嘲と罪悪感を伴い、じりじりと心を蝕んでいく。
この不快な火傷が癒える時こそ、俺の生涯が変わる時なのだろう。
鳳仙といれば、何かが解りそうであった。
やはり、俺は期待しているのだ。
まさか、世を厭い、人を憎む俺がこう思うとは。
俺と鳳仙は似ているのだ。
俺達はこの現世に意味がないことを知っている。意味があると信じて生きることの、途方もない虚しさや侘しさも。人生は、痛苦と退屈の間を絶え間なく彷徨っているだけに過ぎないことを。
だが――。
一条戻橋の上で鳳仙は云った。
俺には致命的な瑕がある、と。
慥かに俺達は似ている。しかし、どこかにひとつ、明確な隔たりがあるのだ。
俺はそれを知りたかった。
鳳仙といれば、いずれ分かる時が来るだろう。
大昔に、人を愛した気持ちに似ていた。尤も、似ているだけで本質は違う。鳳仙を抱いていないことがその証だろう。
だが、それも時間の問題かもしれない。
移り変わりを得手とする俺の興だ。明日にでも――否、今宵にでも、据え膳があるなら乗ってしまうかもしれない。そして、楓や椛が秋に色づくのと同じように、いとも容易く惚れてしまうのかもしれない。
まあ、その時はその時だ。
暫くして、鳳仙が湯殿から戻ってきた。
「まだ起きていたの」
鳳仙は云った。
耳も尾も仕舞い込んでいる姿は、髪の毛が明るいだけの人間にしか見えなかった。
「寝るには早いからな」
「待っててくれたのね」
「残念ながらそういうことになるな」
「何が残念よ。そんなに佳い顔をして」
「うん? 俺は笑っていたか」
「いいえ。けど、上機嫌そう」
慥かに悪い気分ではなかった。湯に浸かっていた時の、得体の知れぬ高揚感から醒め切っていないのかもしれない。頷く俺を余所に、鳳仙は納戸から布団を引っ張り出して敷きにかかる。狭い畳の間はそれだけで一杯になった。
「まだ、私を抱く気にならないの?」
不意に、鳳仙が尋ねる。
見上げれば挑むような笑みを浮かべている。躰を清めたばかりの、蠱惑的な姿であった。
「そんなに魅力に乏しい? それとも怯えているの」
「どちらも違う。お前のような美しい女には初めてだよ」
「ならどうして」
「気が乗らんだけだ。秋の暮れともなれば冷え込む。布団に入れ」
「ひとつ、賭けをしましょうか」
唐突な言葉であった。
「賭け?」
何を賭けろと云うのだ、と問えば、互いの矜持、と鳳仙は短く答えた。
「私の裸体を見て、貴方の瞳が少しでも燃えれば私の勝ち。意の儘になりなさい」
「俺が勝ったらどうする」
「その時は諦めて引き下がりましょう。どう? 貴方には損のない、面白い遊びじゃない?」
「慥かに美味い話だな。しかし解せん。そこまで色に飢えている訳でもあるまい。何故、俺を誘う。妖の沽券というものか」
「それもあるけど――貴方が佳い男だからよ」
鳳仙は云った。何度か耳にした言葉であった。
「何を云うかと思えば」
「貴方は勘違いをしている。私は、今迄誰にも抱かれたことなんてないのよ」
「ほう? 意外だな」
水揚げもまだの生娘には見えんぞ、と云えば、他人を遊女のように云わないで頂戴、と呆れたように鳳仙。
「私は、未だかつて抱かれていない。私が、数多の男を抱いたのよ」
「云い方が違うだけだ。やることは一緒だろうに」
「似て非なるものよ。貴方は、女を抱いたことはあっても、抱かれたことはないでしょう? 今宵は、私が貴方を抱いてあげる」
鳳仙の眼が、火を灯したように炯々(けいけい)と光る。
「いいだろう。その勝負、受けるとしよう」
頷いてやれば、鳳仙は笑った。
いつの間にか、鳳仙の頭には狐の耳が、腰には九本の尾が広がっていた。夕陽を浴びる稲穂の如き金色をしており、触れ難い神聖さを放っていた。
徐に帯が解かれ、濃紺の着物がはらりと落ちる。
鮮やかな緋襦袢が露わになる。
「私を目の前にして澄まし顔でいられた男なんていないわ。貴方のその余裕が消え去るところ、しっかりと見届けてあげる」
「随分と安い挑発だな」
まだ鳳仙は笑っている。
よく笑う女だな、と思った。
こうも眼前で焦らされれば、世の大半の男はこの女を抱きたいと――否、抱かれることを望むのだろう。俺とて、抱かれる想像こそつかぬが、さぞ犯し甲斐のある女だと思っている。
正面から覆い被さり、耳を掴んだまま乱暴に貫くのもいいだろう。背後から太い尻尾を掴み上げ、腰を打ち付ければいい声で鳴いてくれそうである。
嗚呼、そうだ。
力尽くで妖を犯すことが、愉しくない訳がないのだ。
嗜虐的な悦びが鎌首を擡げたが――。
「駄目だな」
「え?」
襦袢を脱ごうとした鳳仙の手が止まった。
「止せ。俺はお前を抱けん。少なくとも、今はな」
「何を云いだすのかと思えば。勝負の途中じゃない」
「己の矜持とやらが大事なら、今ここで止めるんだな」
「それは全て脱いでから云うことよ。云えるものならね」
「抱けと云われれば抱かぬ。抱くなと云われれば抱く。俺はそういう風にできている」
「要するに、天邪鬼ということね。でも、あの鬼は瓜織姫を喰らったわ」
「人喰いと性交は違うだろう」
「足りないものを満たすのよ。同じことよ」
鳳仙の手が動き出す。
忽ち、鳳仙は一糸纏わぬ姿となった。躰の前で手を組み、俺を凝然と見詰めている。
頭の天辺から足の爪先まで、柔らかで丸みを帯びた、女らしい肉体である。
繊細緻密に彫られた仏像の如き神性を放っていたが、その畏れ多い結界に罅を入れているのが、琥珀色の髪に、耳と尻尾、そして薄青の瞳である。聖の中に妖の悍ましさが溶け込むことで、神でも人でもない、狭間の魅力が編み出されているのである。
神聖と鄙俗の、ぎりぎりの均衡の上に鳳仙は存在していた。
宝玉の如し躰を賞味するように見るが――やはり、俺の情炎が燃える気配はない。
「それだけか。他に趣向はないのか」
俺の言葉に、鳳仙は目を見開く。この女の驚いた顔を見るのは初めてであった。
「無いなら諦めることだ」
「ある」
鳳仙は云い放った。そして。
「貴方を崩す奥の手なら、ある」
と苦々しく続けた。
「そうか。それを見届けてから」
寝ることにしよう、とは云えなかった。
鳳仙は、俺の両肩に手を乗せ、顔を近付けた。互いの唇まで、一寸もない距離であった。
その間合いを保ったまま鳳仙は口を開いて。
「見えた」
と、ただ一言呟いた。
「何のつもりだ」
「貴方の空っぽな心を垣間見たのよ」
鳳仙は身を離す。
「一面、墨で塗り潰したように暗かったけれど――ひとり、女が立っていた。それが、貴方が『そうなった』きっかけ?」
「……何を云っている」
「貴方の虚ろな胸の話。惚けなくてもいいわ」
勝ち誇ったように鳳仙は口許を歪めた。
「それが、貴方の生き様を捻じ曲げた女ね。許嫁かしら」
「……にわかには信じられん。本当に見えるのか」
「当然じゃない。私は九尾よ? そこいらの天狗や鬼が束になっても敵わない歴とした大妖だもの。――嗚呼、良かった。やっと貴方の憎らしい顔が狼狽えるところを拝めたわ」
「人の心を暴くとはまったく恐れ入る。そんなものを見てどうするんだ」
「忘れたの? まだ勝負は終わっていない。私が貴方を抱くのよ」
「まだそんなことを云っているのか」
「虚勢は止して。本当なら縊り殺してやるところだけど――見逃された恩を仇で返すほど愚かじゃないわ。私を散々虚仮にした報いに、恥辱の限り、犯し尽くしてあげる――」
鳳仙の言葉が土壁に吸い込まれると同時に、その身に変化が起きた。
耳と尾が消えた。
御髪が、烏色に変わった。
顔も躰も、轆轤に乗せられた粘土のようにぐにゃりと歪み――。
「――日影、龍真さま。お会いしとう御座いました――」
目の前にいる女は、鳳仙ではなくなっていた。
別の肉体をもつ女が、己が裸であることも知らぬように深々と頭を垂れた。
「馨――」
俺は、この女を知っている。
あの日、俺が斬り殺した女であった。
「――へぇ。このお嬢さん、馨さんというのね」
顔を伏せたままの馨――否、馨に化けた鳳仙は云った。
女は面を上げた。
場にそぐわぬ穏やかな笑みを湛えて――その顔を見ているだけで、悪寒が走った。
「流石の貴方も、これには参ったみたいね。云っておくけど、するまでは戻らないわ」
「……成程な。面白い意趣返しだ。度肝を抜かれるとはこのことだ」
「そう云ってもらえるなら、妖冥利に尽きるわ」
鳳仙は喉を鳴らして笑った。
「ひとつ確認するぞ。似せているのは外見だけか。魂というものが在るかは知らんが――それは呼んでいないのだな」
「ええ。ここにあるのは、貴方の内に棲みつき、貴方を枯らした娘の姿だけ。けど、口寄も貴方が望むのなら」
「いや、それには及ばん」
即答した俺が可笑しかったのか、鳳仙の唇の両端がつり上がる。
「さァ、龍真様。もう詮なきことは云いっこなしにしてくださいな。今宵だけのこの逢瀬、存分に愉しみましょう――」
馨の皮を被った狐が、恍惚を浮かべて云った。
――ぴしり、と己の核なる部分に亀裂が走ったのを感じた。その深い罅から、じわりじわりと墨汁の如し黒い液体が沁み出す――。
大昔の古傷が開いたのだ。
かつて、その黒い憎しみに呑まれ、主君と許嫁を殺したのだ。
俺の掌はその慥かな手応えを覚えている。
――止せよ。馨はそんな風に笑わない。
喉元まで迫り上がった言葉を呑み込んだ。代わりに、立ち上がり鳳仙を見下ろした。
「まァ、急に突っ立っていかがなさいました。――ああ、お口ですれば宜しいのですね」
揶揄するように女は云った。
冷静でいられたのはここまでだった。
「最初に云っておく。他人の心に穢い足で踏み入ったのはお前だ」
女が反応する前に、その頸を諸手で締め上げた。殺すつもりこそないが、僅かでも手加減を誤れば、骨を圧し潰すような――そんな具合の締め方であった。
女の顔が土色になった時に開放してやる。
「これは、何の」
戯れですか、と云おうとした女の躰を蹴り倒す。その音で子狐が飛び起きるが、睨んでやれば、土間の暗がりに逃げ込んでいった。
「鳳仙、感謝するぞ。屍人を犯せる機会をくれたんだからな」
女は恐怖に表情を引き攣らせた。
最期に見た馨の表情と、全く同じ顔であった。