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■3-1.秋の夜、湯殿にて

 熱い湯に浸かりながら空に浮かぶ満月を眺めていた。

 支子色(くちなしいろ)に紅を一滴垂らしたような今宵の月は、形容し難い凄みを湛えている。

 円い円い望月から視軸を下せば、緋色に染まり切った(もみじ)が目に入る。群生した木々は皆一様に、この広くも狭くもない露天の湯殿へ(こうべ)を垂れている。


 夜風に撫でられ、枝の先から一枚の葉が千切れた。ゆらゆらと藻掻くように宙を舞い、湯気の立つ水面へ滑り落ちる。紅色を通り越し、錆色となった朽葉であった。


「中秋の名月はもう過ぎた筈なのだがな」


 中秋はおよそ一月前。今は晩秋である。

 背後の小屋に吊られた行灯と月明りで、暗いとは感じなかった。

 此処は鳳仙の塒から程近い処に在る湯殿である。平生であれば、湯治のため旅籠を訪った者達で賑わっていたのだろうが、今いるのは俺だけであった。大方、鬼が出る噂のせいだろう。尤も、実際にいたのは鬼ではなく狐だったが――。


 美しい妖狐が脳裏に浮かぶ。

 鳳仙と出会ってから既に三日が経っていた。

 人に仇為す妖を討たぬとなった以上、この地に留まる意味はない。だが、即座に去らねばならぬ理由もない。

 湯がこれ程に心地良いのだ。暫く居ても罰は当たらないだろう。

 詰まるところ、これは気紛れなのだ。

 今迄も、この興に従うが儘、この身と妖刀ひとつを引っ提げて至る処を巡ってきた。いつまでも同じ町にいてはならぬと課している訳ではない。長い時では半年あまり、同じ町の空気を吸っていたこともある。


 ただひとつ云えることは、何かが起きたら動くことにしている。

 例えば――俺を狙う連中に追いつかれたり、賊を討った褒美を貰ったり――或いは、気心の通じた友と呼べる男と飲み交わしたり、世話になった屋敷の末娘に惚れられたり――些細なことでは、野良猫に懐かれたりでもすれば「此処にいても仕方ない」と思うことすらある。


 己でも掴みどころのない性分による閃きは、今は寝静まっている。

 三日の内、引鉄(ひきがね)と呼べる出来事はあった。

 二度、鳳仙を捕らえんとする者に挑まれた。一人は浪人、二人目は役人であった。殺しはしなかった。相手の獲物を叩き折れば簡単に退いて行った。

 二人の刺客が、俺の興を擽ることはしなかった。

 俺が、腰を上げるとすれば――。


 鳳仙と月原だ。

 二つの関係が、捻じれ、絡まり、転がりでもすれば、否が応でも動かざるを得ないだろう。

 月原とは、相見えた瞬間から並々ならぬ因縁を感じた。奴もそれを悟ったことだろう。斬り合いは避けられまい。

 鳳仙とは、飽いて別れる時が来るかもしれない。若しくは、旅の供として今後長きに渡る付き合いになるのかもしれない。


 未だ鳳仙を抱いたことはなかった。

 あの女は、時折夜伽をねだる遊女の如し瞳を向けるものの、それに応じたことはただの一度もなかった。色に溺れるのを(おそ)れたからではない。俺が求めているのは、欲望を満たす性交ではなく――。

 俺は、鳳仙の見る世界を知りたかった。

 あの女の言葉ひとつで、今日までの生涯が塗り替わる――そんな予感がしたのだ。


「いいものだな。こうして馬鹿のように月を望むのは」


 思うが儘に喋る。酒を口にしたわけでもないのに、酷く酔ったような心持ちであった。効能ある湯のせいか、或いは疲弊していたせいか――快い微睡(まどろみ)の中に意識が引き込まれていく。

 今、襲われでもしたらひとたまりもないだろう。

 頭の片隅で他人事のように思う。

 太刀は小屋に置いたままであった。殺される理由を数多(あまた)抱えた者とは思えぬ体たらくであり、まさに腑抜けである。


 ――まあ、それも悪くはない。


 袈裟にでも斬られた日影龍真の骸は、枯葉と共に、ぼんやりと浮くことになるのだ。


 ――まったくもって酔狂である。くだらない。


 肩まで浸かっていた躰を引き上げ、すぐ隣の手頃な岩に腰掛けた。胸を出すだけでも、頭に上った熱は引いていった。

 死にたい訳ではない。かといって生に縋るつもりもない。俺は人というものに呆れ果てているのだ。怒り狂っているのだ。その癖、己も人間なのだから厭になるものである。


 湯気の向こうから、茂みを掻き分ける、かさり、という音がした。

 見れば、藪から一匹の狐が這い出てきた。黄色い毛並みの子狐である。その矮躯(わいく)から微かな妖気が発せられていること、そして瞳に理知の光が宿っていることから察するに、ただの野良ではないのだろう。

 あれはおそらく。


「鳳仙の遣いか」


 俺の呟きを肯定するように、狐は小さく喉を鳴らした。


「どうした。お前も浸かりに来たのか」


 問えば、狐は湯を迂回して小屋へと走る。戸の前で止まり、ついて来いと云わんばかりに此方を向いた。俺を誘う獣が喋れるものかと期待したが、畜生に人の言葉は難しいようである。

 もう少しばかり夢とも現ともつかぬ世界を漂っているつもりであったが、致し方ない。

 鈍々(のろのろ)と腰を上げた俺を非難するように狐が短く咆えた。


「そう急かすな。躰を拭いて、服を着て、太刀を差して、足袋(たび)雪駄(せつた)を履いて――あの女の許に行くのはそれからだ」


 狐が恨めしげに俺を睨む。

 大方、こいつは主の身に危機が迫っていると報せに来たのだろうが、あの女の窮状をまるで想像できなかった。

 鳳仙は妖狐なのだ。それも名高き九尾ときたものである。

 人より遥か永くを生き、獣の如き身のこなしと、類稀なる美貌を武器に、他者を欺くことにも殺すことにも慣れ切った――正真正銘の妖魅(ばけもの)なのだ。

 そんな化生をどうにかできる奴なんて一流の陰陽師か退魔士くらいだろう。都なら兎も角、此処は寂れた宿場である。腕の立つ者なんている筈もない。それでも挑む奴がいるとすれば、余程の自信家か、とびきりの馬鹿である。


 手拭いで躰の水を払ったのち、黒羽二重の着流しに袖を通す。帯を締め、足袋と雪駄を履き、妖刀土蜘蛛を佩けは支度は調う。その僅かな間すら焦れていたのか、狐は俺の足元をぐるぐると回っている。


「毛が付くから止めろ、鬱陶しい」


 狐は牙を剥いた。遅いぞ馬鹿者、と云いたげな面であった。


「まだ都の野良犬の方が凄味があるぞ。まあいい、鳳仙の許に行けと云うんだな」


 俺が戻り道の戸を開ければ、狐はすぐさま飛び出していった。


 では、俺もいくとしようか。

 冷ややかな空気が、(ほて)った躰を締め付けてくれた。

 月は輝き、夜の山道と雖も、歩く分には困らない。

 取り敢えずは鳳仙の庵に向かえばいいだろう。あの狐も、その主もそこに居る筈である。返り討ちにされた賊の屍さえあるのかもしれない。


 赤杉の茂る山の裾に、竹垣に囲われた藁葺の庵がある。これが鳳仙の住処であり、半開きの戸口からは光が漏れ出ている。

 入れば、行灯の乗った文机の上に、一枚の書状が置かれている。

 部屋にいた先刻の狐は、書簡と俺を交互に見遣ったのち、困り果てたように下を向いた。

 畳に上がり、粗摺りの紙を手に取って見れば。


『女は預かった。連れ戻したくば一条戻橋まで来られたし』


 と角張った男文字が並んでいた。差出人の名はない。

 素直に考えれば、鳳仙は何者かに攫われたのだろう。果たして、そいつの標的は俺か鳳仙か。或いはその両方か。

 妖刀を帯から抜き、文机の前に座る。何をするつもりもなかった。傍らの煙草盆に手を伸ばした時、子狐が脇腹に突っ込んできた。今にも噛み付こうかという勢いである。


「待て待て。あいつなら間違いなく無事だ。そう易々とやられる玉じゃない」


 狐は依然として唸っている。


「不服そうだな。あれはただの妖怪じゃない。格が違うのだ。九尾の狐を殺せる奴なんて――おい、そう牙を剥くな。ここはひとつ、あいつを信じてどっしりと構えてやれ」


 尤も、俺にはそんな気など一切ない。鳳仙がどうなろうとも俺には関わりの無いことである。

 煙草盆の火入れを開ければ、湯浴み前に点けた火種はまだ燻っていた。抽斗(ひきだし)から羅宇煙管(らうきせる)を取り、火皿に刻み煙草を詰める。火を点けて、()う。

 香りの良い、美味い煙草であった。

 煙を厭うてか、狐はすぐに距離を取り、隅の座布団の上で丸くなった。


 鳳仙にこの草庵を案内された時、あまりの簡素振りに驚いた。あの女は、豪華絢爛な屋敷で、沢山の侍女に囲まれているのが相応しい。

 月原も云っていた。都に連れ戻せとの命だと。

 元々、鳳仙は都にいたのだろう。名家にでも嫁いで、優雅な暮らしを愉しんでいたのかもしれない。それがどうして、寂れた宿場で、子狐一匹を供にして、餓鬼の真似をしていたのかと疑問に思わないでもないが、詮索はしなかった。


 (はばか)ったのではない。興味がなかったのだ。



 煙草の味と匂いを愉しみながら、不貞寝する狐を見るともなしに眺めていた。呼吸で上下する腹は、野に生きる獣にしては毛並みが整っている。時折、尾と耳が揺れる。浅い眠りにいるようであった。


 不意に、跫がした。土と葉を踏みしめる湿気を孕んだ音であった。

 狐が飛び起き、一つしかない戸を凝視する。

 俺も煙管を咥えたまま、右脇の太刀に手を伸ばす。


 静かに戸が開かれる。

 鳳仙であった。耳と尾を生やしたままの姿であった。

 子狐は主を認めると、一目散に飛びついた。


「――あら、お前はいつまで経っても甘えん坊ね」


 狐を胸元で受け止めた鳳仙は、子をあやす母親の如し柔和な貌をしていたが、頬を朱に染め、荒げた吐息を抑える様子は女そのものである。どうにも輪郭が曖昧であり、まさに人を化かす狐である。妖気と共に血の臭いを振り蒔いているのも原因のひとつなのかもしれない。


「貴方、何を暢気に煙管なんか(くわ)えているの」


 不躾な視線に気付いたのか、鳳仙が眉を顰める。


「何って、別にいいだろう。美味い葉じゃないか」

「その汚い書き残し、見たでしょう」

「ああ、見たとも。見た上でこうして喫っているのだ。云っておくが、行くまでもないと判断したまでのことだ。事実、こうしてお前は戻ってきた。責められる謂れはない」

「冷たい人ね。気のひとつも揉んでくれないんだから」

「どこに九尾を心配する奴がいるんだ。さっさと湯を浴びてその血腥い躰を清めてこい」

「減らず口ね、貴方って」


 お喋りな男は嫌われるわよ、と云う鳳仙に、お前になら嫌われても構わんよ、と返してやる。


「それより、いいか」

「なに? これから貴方の云う通り、湯浴みに行くから手短にお願い」


 鳳仙はぐずる子狐を下ろし、後手に戸口を閉める。

 薄暗い場所に立つ女は妙に艶めかしく見えた。その躰から発せられる汗と血の臭い、そして行灯の油の臭いが混じり、草庵は鄙陋(ひろう)な空気で満たされていた。

 その空気が解らない子狐は、構ってほしそうに鳳仙の脛に身をなすり付けている。


「お前を襲った男はどうなった」

「どうなったと思う?」


 鳳仙は口角を吊り上げて問い返す。


「殺したのか」

「殺すな、なんて野暮は云いっこなしよ」

「もう云わんさ。ただ、哀れな男もいたものだな」

「哀れ。慥かに、そうでしょうね」


 頷いて、鳳仙は畳の間に腰掛けた。


「でも、食べてやったわ。血も肉も美味しいものじゃなかったけど、私の一部となったのだから光栄でしょうね」


 ぼんやりと人喰い鬼の(うなじ)を眺めていると、振り返った鳳仙と視線が交差した。


「聞いてるの?」

「聞いているとも。流石、九尾ともなれば云うことが違う」

「誉めてるつもり?」

「誉めている。感心もしている」

「ならいいわ」


 そこの風呂敷を取って頂戴、と鳳仙。

 浴衣やら手拭いなどを包んだ浅葱色の風呂敷を隣に置いてやる。


「もうひとついいか」

「今日の貴方はやけに喋るのね」

「その紙切れにある一条戻橋とは何処だ。まさか、都にあるものではないだろうな」

「呆れた。そんなことも知らなかったのね。分からないから来てくれなかったわけ?」

「まさか。知っていようがいまいが、最初(はな)から動くつもりはない」

「貴方が颯爽と駆けつけてくれるものとばかり思っていたのに」

「嘘を吐くな。お前だって俺が来ないと分かっていただろうに。それで、橋は何処にあるのだ」


 鳳仙はこれ見よがしに溜息を吐いて。


「私と貴方が出会ったところよ」


 とだけ云った。


「あそこか。都にあるものと同じ名前であるのは」

「意味なんてないわ。屍人が蘇るとか、幽世(かくりよ)に繋がっているとか、そんな話はないわよ。貴方にとっては残念でしょうけどね」


 鳳仙は、いつの間にか膝に収まっていた子狐を撫でながら云った。


 一条戻橋。


 一条大路の、堀川を渡る橋として架けられたもので、戻橋とも呼ばれる。

 渡辺綱が鬼女の腕を斬り落としたり、雷鳴と共に三善清行(みよしきよつら)が棺から蘇ったりなど多様な伝承が残っている。少し前までは、大火や賊の横暴で右京の衰退著しく、戻橋を渡ることは不吉だと云われていたが――流れてくる噂を聞く限り、都の治安が乱れていることは今も昔も変わらないようである。


 まさか、こんな果ての町にも同名の橋があり、更にはそこで橋姫――否、妖狐に会い一戦交えるとは誰が予想できただろうか。運に見放された己の生涯に心底嫌気が差していたのだが、愛想を尽かすにはまだ早いようである。


「どうしたの。そんな愉快そうに笑って」

「いいや、何でも」


 鳳仙は俺を覗き込む。青と灰の混じった硝子(がらす)の如し瞳で、内心を見透かすような光を放っていた。

 その目をしたまま。


「貴方には、会いたい女が彼岸にいるのね」


 と云った。


 風もないのに行灯の炎が揺れた。俺と鳳仙の黒い影が、狭い居室を逃げ惑う。

 否定も肯定もできず、俺は鳳仙の眼を見詰め返していた。


「――ねえ」


 紅を塗った唇が動き出す。


「私がもし、その女に会う(すべ)を知っているとしたら、貴方はどうする?」

「どうもしない」

「正直に云って。詫びたいことや、伝えきれずにいた想いだってあるんでしょう?」

「そんなものはない。あったとしても既に散った命だ。宿命に逆らったって碌なことになりやしない」


 鳳仙はまだ俺を見ていた。


「何だ。お前からは、俺がそう思っているように見えるのか」

「ええ、とても。だって――貴方の後ろに、斬り殺された女が縋りついて泣いているもの」


 鳳仙は俺の傍らを指差した。当然、何もない空間である。


「趣味の悪い冗談だな。怪談ならば時期外れだ」


 命は自然(じねん)に散るものであり、それが摂理というものである。仮令、どれほど死者に会いたいと(こいねが)ったとしても、その宿命だけは覆せない――。


「そもそも、俺に会いたい女などいない」

「本当に?」

「本当だ」


 いない――筈である。


 鳳仙は、今はそういうことにしてあげる――と含みのある言葉を残し、軽快な足取りで出て行った。膝で眠りこけていた子狐は、部屋の隅に場所を移し、再び寝息を立てている。

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