□過去 土蜘蛛の館にて
館の最上階に突入して半刻が経つ頃には、板張りの広間は屍体で埋め尽くされていた。
大勢の賊も、私の配下達も、皆物云わぬ骸に成り果てて――その中央に、女が立っていた。
緋色の貴族衣装を纏った年若い娘である。
これが土蜘蛛である。
右手は抜き放たれた太刀を持ち、左手は鞘を鯉口に添えられている。
露台に続く戸は開け放たれ、酸漿色の斜陽が私と女を照らしている。
女は黙したまま、此方に一瞥をくれると。
「誰彼時とはよく云うたものよ」
と云った。
女が口を開いたのは初めてだった。
女との間合いは離れている。右手の太刀を提げただけの自然体でいたが、その姿勢に隙がないのは、幾度も交わした剣戟からも明らかであった。
「……何を云っている」
「いや、なに。妾のかわいい下僕達は屍になってしもうた。死ぬ前までは、皆の顔も名も確と覚えておったのだが――どうしたことか、今となっては何も思い出せぬ」
それが少しばかりおかしくてな、と女は滑稽そうに朱色の唇を釣り上げる。
「お主はどうじゃ。そこいらに転がる屍を見て、其奴が何者であったかを思い出せるか。もしできぬというのなら――それはこの夕陽のせいか。それとも、死して蛻になった者を妾達は忘れるようにできておるのか――。命というものを、在るということを、どうにも掴みかねておるのだ。この惨状を無常のたった一言で済ませるには――どうにも惜しくてな」
女への警戒を払ったまま、短槍で喉を貫かれた近傍の屍体を見遣る。
忍び鎧を着用した娘である。諜報兼世話役として、広く私を支えてくれた者であった。年端もいかぬ顔は苦悶に染まり、口許は血で穢れている。
死因の差こそあれども、皆似たような顔で死んでいる。
「土蜘蛛よ。貴様が手下を思い出せないのは、それは貴様が妖だからだ」
「うん? どういう意味じゃ」
「強大な妖怪が、虚弱な人間を覚えることなどできやしない。だが、私は人だ。貴様に殺された二十の同輩を覚えている」
「なるほど。お主は、妾が下僕達を大事にしておらぬと云うのだな」
「貴様のような妖怪にとって、人間など虫螻蛄も同然だろう。違うか」
「まるで見てきたかのように云う」
「事実、見てきたのだ」
その場に屈み、娘に突き立てられた槍を引き抜き、開いたままの瞼を下ろしてやる。
「私は今まで多くの魑魅魍魎を討ってきた。奴らは強大過ぎる力で人を従えていたが、所詮恐怖で縛り付けた脆い関係だ。そこに恩義などありやしない。窮地に陥った時、誰ひとりとして味方せず、どいつも独りで死んでいった。今の貴様もそうだろう」
女は、含みのある視線を寄越すだけで、答えなかった。
「どうした。図星を突かれたか」
「お主は鏡を見たこともないのか」
「鏡だと」
「己の姿を見るべきだ。返り血塗れの具足に、面頬で顔は隠れておるのに眼だけが狼のようにぎらぎらと光っておる。その刀も血と脂でべったりじゃ。そんな奴が骸に囲われて立ち尽くしておる。妾からすれば、お主の方が余程妖じゃ」
独りで死んでいくのはお主かもしれんぞ、と女は揶揄しにかかる。
「一緒にするな。私には返る場所がある。私を待つ女がいる。お前とは違う」
「そんなことを云ったって、今のお主はひとりじゃないか。妾が妖なら、お主だって同類よ」
「違うな。私は貴様を殺す人間だ」
「同じだ。お主がただの人間なら、もう疾うに殺されているはずじゃ。見ろ、人間だったお主の子分は皆死んでいるではないか」
女は、足下に斃れた男を足蹴にして仰向けにすると、その顔面に沓を履いた足を乗せる。
ぐしゃり、と骨が砕ける音がして――男の顔は簡単に破裂してしまった。
「貴様――」
その男は、幾度も私を守ってくれた副官であった。
「解せぬな。子分を殺されて怒るのか。お主のような化物が」
「人間を舐めるなよ」
冷静でいられたのはここまでであった。
私は人である。
私が私であるために。
死んでいった仲間達のために。
この化物だけは殺さねばならぬ――。
郷里に置いてきた娘の姿が過った。
――龍真様、この護符をお持ちください――。
――あなたが私のことを思い続けてくださる限り、加護を授けてくれるでしょう――。
あの娘は、私の無事を願い、餞に護符をくれたのだ。
懐に仕舞った札が、熱く燃えているような気がした。