■2-2.橋姫との邂逅
足が止まった。
高札場の先に、橋が架けられている。
幅は二丈、長さは三丈程度。
橋の両脇には常夜灯が吊られ、丹塗りの欄干を照らしている。
橋の中央に、女が立っていた。
女は薄絹を被っているため、その顔を窺い見ることはできない。
紺瑠璃の着物に、藍白の帯をしていた。袖口からは深緋の襦袢が覗いている。
白い足袋に、紅い鼻緒の草履を履いていた。
手は、躰の前で重ねられている。
女の表情こそ分からなかったが、此方を真直ぐ見ていることだけは分かった。
「日影龍真さま。お会いしとう御座いました――」
女の唇が動いた。薄く引かれた紅が、橙の灯火を受け、やけに艶めかしく光る。
静かでありながらも情に訴えかけるような――色を孕んだ声色であった。
「いかがなさいました。そのように黙りこくって」
女は口許で笑みを作り、小首を傾げてみせる。嫋やかな所作であった。
――いるじゃないか。とびきりの鬼が。
まさか、初日でお目当ての人喰い鬼に遭うことになろうとは――。
まるで宇治の橋姫である。
尤も、此処は都でもなければ、俺は渡辺綱でもない。手にする得物も髭切ではない。
橋姫は、自らの気を内に収めてはいるものの、それでも強大な妖気は隠しようがない。
「俺は一体、いつお前に名乗ったものかと思ってな」
「最前の斬り合い、拝見させていただきました。その時に、貴方の御名を知りました」
そして、類稀なる兵であるということも――と女は微笑する。
「遠方から見ていたのはお前だったのか」
「気配を消したつもりでしたけど、気付いてらしたのね」
「俺は、魑魅魍魎に対する勘だけは鋭いのだ。特に、お前のような桁外れの鬼に対してはな」
「桁外れなんて、酷い人」
媚びた声で女は云う。己が化生であることを、女は否定しなかった。
「鬼よ。俺に何の用だ」
「貴方に、ひとつ頼みごとが御座います。聞き入れていただけますか」
「まさか、命を寄越せと云う訳ではあるまい」
「それでも構いませんが――いいえ。むしろ私は貴方と死合いたい。貴方の美しい首が欲しい。貴方の血を存分に啜りたい。ですが――願いは、別に御座います」
女は笑みを深める。ちらりと覗いた犬歯は狼の如く発達していた。
橋を照らす灯が明滅する。
女は、自身を覆う薄絹を取り払った。品の良い更紗は白蛇の如し手から逃れると、無風の闇の中を泳ぎ、川面へ滑り落ちていった。
「どうか、私をお護りください。貴方のその太刀で――」
女は俺を見詰めていた。
息が止まるかと思う程、美しい貌をしていた。
円い瞳は淡藤色をして、琥珀色をした癖のある長髪は、宵闇に際立っている。
滲み出る血の香を隠そうともせず、橋姫は鄙俗な笑みを浮かべている。
何の冗談だろうか、と思った。
金子の有り余る豪商が端金に見向きしないように、この女にとって用心棒など不要である。仮に女が何者かに襲われたとしても、次の瞬間に、無謀な狼藉者は肉塊に成り果てていることだろう。目の前の化生は、そういう類の鬼なのだ。
錆と黴の饐えた臭い――人の血肉を喰らって生きる妖怪特有の臭いをごまかすように、白檀や麝香、沈香などといった高貴な香りが漂うが――無駄である。
人を殺めた罪は――殺された者の恨みは、その程度で覆い隠せるものではない。
「そんなに怖い顔をしなくたっていいじゃない。取って食おうというわけでもありませんのに」
「それは滲み出る死臭を雪ぎ流してから云う台詞だ」
「貴方、いい鼻を持っているのね。まるで獣のよう」
悪びれもせずに女は云った。
「それで、どうかしら。私の願い、聞き入れていただけますか」
「答える前に、俺からもひとつ訊こう」
「何かしら。焦らされるのは好きじゃないわ」
「この宿場には鬼が出ると云われているのだ。俺はそいつを討ちに来た。お前がその鬼か」
「それは――どうでしょうね」
女は曖昧に笑った。そして続ける。
「もし、私がその鬼だと云ったら、貴方はその太刀を向けてくれるのかしら」
女の瞳に、好戦的な色が宿る。唇に差した紅が、じわり、と彩度を上げた気がした。
「避けられぬものならな。お前はこの町で何人殺した」
「――さあ? 十から先は覚えていないわ」
「俺が止せと云ったら、お前は殺生を止めるか」
「無理よ、そんなの」
案外野暮な人なのね、と女は小さな嘆息をしてみせる。
「無理か」
「だってそうでしょう。私は飢えを満たすために人を喰らう。それが妖というものよ。云わずとも知れたことでしょう」
「知っているとも。知った上での問答だ」
「無駄なことを」
「そうだな。まるで無意味な問いだった。だが」
女に向かって一歩踏み出す。噎せ返るような芳香が強くなり、急激に躰が重くなる。
女の敷いた結界に足を踏み入れたらしい。
「無意味な問いで、互いに死合うという更に無意味なことを避けられるのならば、それに越したことはあるまい。まあ、無駄だったがな」
「無意味、ねえ」
含みを持たせて女は頷いた。
その顔が語っていた。お前の云うことは間違っている、と。
「無意味だろう。違うか」
「でも退屈は凌げる。『この世に意味のあるものなんて、何ひとつありやしない』だったかしら。貴方の台詞」
「驚いたな。見るだけじゃなく聞いてもいたのか」
「始まりから終わりまで、ずっとね。だから私は知ってるわ。貴方の考えがある意味では正しく、またある意味では誤っていると。貴方には――そう、致命的な瑕があるのよ」
「瑕だと」
「貴方は己の瑕にまるで気付いていない。私から見れば、哀れよ」
「戯言のつもりか」
「戯言なんかじゃない。貴方にだって、私が嘘を云ってないことくらい分かるでしょう? 永くを生きて、退屈を持て余した私だから分かること」
言葉とは裏腹に、女の言葉に侮蔑や憐憫はなかった。肚の底から此方を心遣うような顔をしており――血腥い顔で微笑むその態度が気に入らなかった。
「だから何だというのだ。今から、俺がお前を斬ることに変わりはない」
「それこそ無駄よ。ここはもう私の結界の裡。貴方はもう最前のように動けないわ。嬲り殺しにされるだけよ。だから――どう?」
一瞬にして、女が眼前に迫っていた。
上目遣いで俺を覗き込む。
「私を護ってくださらない? 怖い人に追われているのよ」
「何から護れと云うのだ。お前ひとりでも狩りはできよう」
「厭よ、冷たい人ね。私は貴方がいいの」
女は、悪戯を成功させた童女のような顔をして、ちろりと舌を出した。赤い蛞蝓のような舌である。まるで、人の血を啜ったあとのように。
「もちろん、無償とは云わないわ。私の命を救う度――この躰、お好きになさって結構よ。悪い条件ではないでしょう」
「流石、橋姫は云うことが違う。お前が少しだけ欲しくなった」
「橋姫だなんて止して頂戴。男に捨てられた哀れな女じゃないの。鉄輪も人形も無いし、私はそんなに安い女じゃないわ。私は貴方のものにはならない。貴方が私のものになるのよ」
「俺がお前のものに? とんだ悪趣味だ」
「そんなことないわ。こんなに佳い御顔と眼をしているもの。何より、貴方の暗く濁った心が私を惹き付ける。私は、貴方が欲しい。ねえ、共に来てくださらない?」
甘い声に、蕩けるような魅力を女は持っていた。人の娘には、どう足掻いても醸すことのできない、洗練と退廃の混じった訳の分からない色香であった。
「名前を訊こう。お前は俺を知っているようだが、俺はお前を知らない。まさか本当に橋姫というつもりもあるまい」
「だから違うわ。今は――鳳仙と名乗っているわ。好きに呼んで頂戴。私もそうするから」
「鳳仙か」
随分大仰な名である。この女に触れたら、手酷い目に遭いそうであった。美女と引き換えに我が身を亡ぼすとなっては割に合わない。何より、据えられた膳など願い下げである。
そうだ。俺の性根は疾うの昔に捩じ切れているのだ。
気が付けば、俺は笑っていた。
「何がそんなにおかしいの?」
「鳳仙。お前は俺を意の儘にしているつもりだろうが、生憎、俺にそんな気はない。それなのに諂うお前が滑稽で仕方なかった。だから笑った」
「貴方、本当につれない人ね。せっかく名前で呼んでくれたと思ったのに」
「その腥い口を閉じろ。よく聞け。慥かに俺は世に背を向け、男を殺し女を犯すような救い難い悪党だ。だが、そんな悪党でも、血と恨みに塗れたお前のような妖は抱けんよ。いいや、抱けと云われて従うほど飢えておらん。お前を抱くくらいなら、癩の生娘に挿れた方がまだ犯し甲斐があるというものだ」
「龍真――」
鳳仙は、俺の名を呟いた。
常人より大きな双眸を見開き、般若の如く睨み付ける。
「いい貌だな、鳳仙。俺はそっちの方が好きだ。鬼には鬼らしい表情というものがある」
「私を愚弄するのね、貴方は」
「先に侮ったのはお前だろうに」
「どこまでも飄々として、本当に憎いったらありゃしない。でも」
貴方はそれでいいのかしら、と怒気を滲ませながら鳳仙は問うた。
「貴方が私のものにならないなら、私達に残された路はひとつよ」
「お前も諄いな。退屈凌ぎになると云ったのはお前だ」
「その余興で死ぬのは貴方よ。貴方を殺したいけど――でも、惜しい」
その態度に嘘偽りはないのだろう。理由こそ分からないが、この女は俺を求めている。
だが――。
「人間ぶるのは止せ。お前は醜い鬼だ」
「――え?」
鳳仙の頬は朱に染まり、その吐息は荒い。瞳孔は拡がり、虹彩を呑み込んでいた。
薄笑いのまま半開きになった口の端からは涎が垂れ、顎に伝っている。
右手を、輪郭の良い貌に伸ばし、指でその唾液を拭い取ってやる。人差し指と親指を触れてから離せば、透明な雫が糸を引いて――重力に逆らえず橋板に落ちていった。
「まるで餌を取り上げられた獣だよ、お前は」
鳳仙は俯いていた。茶と金を混ぜたような量のある髪に遮られ、その表情は見えない。
「お前は俺の血を欲している。俺はお前を退治したい。ならば、することはひとつだ」
「龍真、覚えておくわ。貴方が救いようのない馬鹿だったということを」
「それは俺の首を取ってから云う台詞だ」
「それもそうね」
橋姫は顔を上げた。怒りも笑いもしていなかった。俺も鳳仙も、漸く殺し合う決意を固めたのだ。今までの詮なき遣り取りは、殺す者と殺される者の最期の余興である。