■2-1.白い着流しの男
太刀を納めた時には、憎らしい陽も沈み、静かな夜を迎えていた。
今は秋の暮れである。闇が訪れるのも早い。
いや、それとも単に、五人の相手に手間取っただけのことかもしれない。
人を斬るのは初めてではない。命じられたこともあれば、乞われたこともある。やらねば此方が殺されていた場面も多々あった。己の意思で人を斬ったことは、ただの一度だけであった。
その全てにおいて、時が経つのは早かった。
否、早かったと云うには語弊がある。互いの得物を握り締め、殺し合うと肚を決めたあの一瞬において、時間というものは存在しない。須臾が永劫にまで引き延ばされ、いつになったらこの刹那から抜け出せるのかと思うことがままある。その限りなく続く瞬息は、相手を斬った硬い手応えと、温い血を浴びることで霧消していくのだ。
幾年も浸っていた永い夢から引き戻されるに似た感覚であり、それが厭であった。
まだ俺は、この世で生きていかねばならぬのかと絶望する。
また俺は、無駄な殺生を重ねたのかと嫌悪もする。
先刻の斬り合いでもそうだった。
四人、殺したのだ。傍から見た者がいたならば、暫くともかかっていない筈だろう。だが、俺にとっては違う。夢と現の往復を四度繰り返したのだ。
己と世界が乖離する感覚が、俺を大いに疲弊させた。
木賃宿に寄ろうと思っていたが、今日は旅籠でいいだろう。
晩秋の涼やかな風を浴びながら宿場町を歩く。
通りには、問屋に本陣、茶屋に商店が並び、その軒先には提灯が吊られている。暗いには暗いが、歩く分には困らない。
人通りは無い。
遠くで、鈴虫が鳴いている。
――噂通り、だな。
都から遥か北にあるこの宿場には、鬼が出ると専らの噂であり、その鬼は夜な夜な山から下りては、男を殺し女を浚うと云われている。それが事実か否かはさて置いて――宿場の者達は、陽が沈んでからは家屋に籠もり息を潜めているのだ。
この地は、元々湯治を目的とした旅人達で賑わっていたのだが、最早見る影もない。
夕刻を過ぎても出歩く者がいるとすれば、それは妖を恐れぬ命知らずか、妖に対抗できる力を持つ者、若しくは噂を知らぬ余所者だろう。
「そこの御仁。少し、宜しいか」
背後から声を掛けられた。振り向けば、白い着流しを纏った男がいた。齢は俺と同じか少し上だろう。端正な顔立ちである。
「何の用だ」
「いや、何。そう身構えなくとも結構。ひとつばかり訊きたいことがある」
「何だ。云っておくが、怪しい者じゃない」
「四人も殺しておいて怪しくないとは冴えある冗談だな」
男は小さく笑った。
見れば、男の腰には黒鞘の刀が差してあった。脇差しもある。
「見ていたのか」
「そう睨むな。俺はお主の敵ではない。滅多にない奇剣を見たのだ。ひとつくらい褒めたくなるのは武人として当然だろう」
「そんなことで呼び止められるとはな。まあいい。何が聞きたい」
「人を捜しているのだ」
「生憎だが、俺は此処に来たばかりだ。お前がどんな奴を捜しているかは知らんが、見ての通り、人の絶えた処だ。見ても聞いてもいない。折角生きている奴等にも会ったが――斬ってしまった。まさか、連中が尋ね人だったという訳ではあるまいな」
「違う。俺が捜しているのは女だ」
「女?」
俺が怪訝な顔をしたからだろう。
「云っておくが、下衆めいた話ではないぞ」
と男が答える。
「では何だ。その女は人の皮を被った鬼とでも云うのか」
「そのようなものだ。狐を捜している」
「成程。女に化けた狐、か。この宿場には、人を喰らう鬼が出ると聞いているが」
「それとは別だろう。否、同じでも構わんがな。聞いたことはないか」
「無い。その女を見つけてどうするのだ。妖狩りか?」
「捕らえろとの命が下っているのだ。そして都に連れ戻せ、ともな。そこから先は俺の与り知る処ではない」
「雲行きが怪しくなってきたな」
俺は、妖怪退治や用心棒といった武を売る仕事で糊口を凌いでいる。
鬼が出るという噂を元締めから聞き出し、一週間かけてこの町にやって来たのだ。
俺の獲物が、この男の目的と一致しないとも云い切れぬ。ここまで来て獲物の取り合いになったら面倒なことこの上ない。
「浮かぬ顔だな。不都合でもあったか」
「いや、此方の話だ。参考までに訊くが、その女はどんな外見をしているのだ」
「答えられんな」
「分からんのか」
「そういう意味ではない」
「ならばどういうことだ。先刻、命と云ったが、緘口でも敷かれているのか」
「それも違う。あの女の容貌について云うことは無駄なのだ。空に浮かぶ雲が、如何なる色や形をしているか定めて云うことはできない。それと同じことよ」
「詰まる処、件の女は化けるのか」
「如何にも」
男は頷いた。
「花魁にも白拍子にも、尼にも公家の娘にも、その女は化けたことがある」
男は云った。その瞳には、どこか執着の色が透けて見える。
この役者の如き男と、化け狐の経緯を訊くのは野暮であろう。さしたる興味もない。互いの獲物がかち合わなければそれでいいのだ。
「俺がその女を見付けたらどうすればいい。妖とは雖も、女性に手荒な真似はできんぞ」
「お主も存外甘い男だな。無理にとは云わんが、俺に報せてくれればそれでいい。これは俺の役目だ。借りを作るのは好きじゃない」
「そうか。話は終いだな。失敬させてもらう」
「待たれよ。お主の名を聞いておらん。俺は月原麟之助という」
月原は云った。剣客らしい尊厳ある眼差しをしていた。
その眼光に、後ろめたさと懐かしさを覚えた。
「日影龍真だ」
「――日影?」
月原は俺の名を反芻すると、何処かで聞いた覚えがある、と顎に手を遣った。
「追われの身だからな。何処かで耳にしても不思議ではないだろう」
俺を斬れば褒美が貰えるかもしれんぞ、と云えば、最初に云った筈だ、お主とやり合うつもりはない、と月原は答える。
「思い出したぞ。五年前、土蜘蛛を単騎で討ち取った男がいると聞いた。それがお主か」
「善く覚えているじゃないか」
慥かに、俺は疾うの昔に土蜘蛛と呼ばれる賊の頭領を討った。だが、俺が殺したのは土蜘蛛だけではない。俺は自らの意思で、奪ったこの太刀を振るって――。
「その話には誇張がある。俺が賊の討伐を拝命したのは事実だが――独りではない。仲間が皆死んで、生き残ったのが俺だけだった。それだけのこと」
「成程。その太刀が妖力を発しているのは、それが土蜘蛛の得物だったということか」
「そういうことだ」
「時に、日影殿。その話には続きがあるな」
「話は終いだ。俺のような人斬りと話せば、お前の格も落ちる」
今度こそ背を向ける。
「何処へ」
「塒を探しに」
「ならば、橋を渡った先にある処がいいだろう。旅籠なら東屋が、木賃宿なら黒河だ。俺の名を出せば、脇本陣にも泊まれよう」
月原の提案に返事はしなかった。行き先は俺の気紛れな興が決めることである。
「日影殿。縁があれば、いずれ」
「縁があれば、な」
歩き出す。
暫く月原の視線を背に感じていたが――不意にその重みが消えた。振り返れば、闇夜に目立つ白い姿は消え失せていた。
――薄気味悪い男だ。
刺客達との斬り合いの最中、何処からか推し測るような視線を向けられていたことには気付いていた。膚に纏わりつく寒気から、視線の主が残忍を好む性質であろうことも察していた。
最初は、この地に棲まう鬼のものかと思っていたが、あれは月原だったのかもしれない。
いずれにせよ。
あの男とは、そう遠くない内に相見えることになろう。
――次会う時は、敵同士だな。
こういう悪い予感は当たる。そんなふうに俺はできているのだ。
奴が先程の死合いを見ていたならば、当然この長太刀の弱点を突いて来るだろう。だとすれば、今度こそ俺は死ぬかもしれない。
いくら死を希っても、人は死期の訪れなくして死ねないものだ。逆も然り。どれだけ生に縋ろうとも死期には敵わない。息絶えるその時まで苦しみ抜いて――無様で、如何ともし難い醜態を晒して――そして漸く、死ぬことができるのだ。
それが剣客の生き様というものだ。
最期に待ち構えている死というものが、善いものか悪いものかは分からない。そこに価値を求めることすら、おそらくは無意味なことなのだろう。