□序章 私が私である為に
私が私であるために。
彼奴だけは殺さねばならぬ――。
私を支えていたのは復讐の一念のみであった。
漆黒の鎧に包まれた躰は傷付き、膿み腐り果てていることだろう。
出立の前には二十余りいた麾下は皆斃れ、何時の間にか私は独りになっていた。
妖の討伐に出たのだ。こうなることも予想はしていた。
勅命であった土蜘蛛退治を果たし、故郷へ辿り着いてからも私に安寧は訪れなかった。
――馨。
郷には、婚姻を約束した娘を残していた。
私が生まれた地に戻ったのは、出陣から一年が経った頃、夜半であった。
青白い満月が煌々(こうこう)と光っていた。
殿に土蜘蛛の首を献上する前に、馨の生家に立ち寄ることにした。
そこには馨の両親がいたのだが、肝心の娘がいなかった。
如何なる訳か、年老いた夫婦は此方を見て、怯えとも戸惑いもつかぬ表情を浮かべていた。
まるで、屍人にでも会ったかのような顔である。
そこで、己が面頬を着用したままであったことを認め、兜と共に脱ぐ。改めて名乗り、大役を遂げたこと、娘の顔を見に来たことを伝えた。斯様な時分に訪ったことを詫びた。
狼狽を更に強めた爺は、言い訳でもするかのように口を開いて。
「あの娘は此処にはおらぬ」
と云った。
「居ないとはどういうことだ。こんな夜更けに出払っているのか」
「否、そうではない。そうではなく」
口籠もる爺に、嫌な予感がした。
馨は、生来躰が弱い性質であったのだ。
死地に向かう私を見送る時も、肺病を患っているのにも関わらず、寝床を脱け出して馬上の私に手を振ってくれたのだ。
縋るような眼差し。
控え目に揺れ動く細い腕。
その儚い姿は、今でも私の目に鮮明に焼き付いている。
「まさか、病が祟って」
「否、違う。あの娘は生きておる。それも、幸せにな」
目を合わせようともせず、吐き棄てるように爺は云った。
その爺に「武者様の御気持ちを考えなさいな」と諫めるように婆。
その年寄り共の姿に、再び云いようのない不安が過ぎる。
「失敬。その様子だと、私は歓迎されていないのだな。馨を一目見たら退散させて戴く。何処に居るのだ」
訊いても、二人は唇を堅く引き結んだままであった。何かに耐えるよう、額に脂汗を浮かべながら凝然と俯いている。
傍に置かれた行灯が、皺だらけのふたつの顔を照らしていた。
「御老体。このまま待っていても私は動かん。もう一度訊く。馨は何処だ」
まだ、返事はない。
「翁よ。私は勅命を受けた後、馨と契ったのだ。無事に戻ることが叶ったなら、その身を貰い受けたい、とな。あの娘も頷いてくれた。その話くらいは聞いていた筈」
「何が契りじゃ、忌々しい」
どういう意味だ、と訊けば、そのままの意味じゃ、と爺は答えた。
「知らぬが仏とは善く云うたものじゃ、大間抜けが。いいか、知らぬなら教えてやろう。あいつは殿様にくれてやったわ。妖に殺られてしまえばよかったものを、今になって娘を寄越せとは片腹痛い」
鼻を鳴らした爺が睨む。
「それは、何時の話だ」
「お主が発ってからすぐのことよ。あいつも幸せだろうよ。何せ、儂やお主のような貧乏人には治してやれなかった病も、貰われて一月もしないうちに治まったそうだからな。あいつからも、こんなに幸せなことはないという文が来たぞ」
勝ち誇った、耳障りな声であった。
「嫗。それは真か」
居所をなくした婆に視線を遣る。
婆は暫く黙っていたが、「真で御座います」と小さく頷いた。
「成程な。事情は分かった」
この者達は馨を売ったのだ。
我等討伐隊は殿に嵌められたのだ。
立ち上がる。これ以上、人の形をしただけの醜い化生を目に入れたくなかった。
「何処に行く気だ」
「殿の許に。真意を質さねばならぬ」
「はっ。今更お主の出る幕などないわ」
「それを確かめに行くのだ」
「お止めください。あの娘にはもう、新たな暮らしがあるのです」
婆が脚に縋りつくが、蹴り払う。
「穢い手で私に触れるな」
右手が佩いた太刀の柄に乗った。息を呑んだのは爺だったのか婆だったのか。
二人が何か云う前に斬り捨てた。
兜と面頬を被って屋敷を出る。門の横に繋いでいた黒馬に跳び乗り、城へと駆けた。
城にはすぐ着いた。
番兵に名乗った途端、番兵は斬り掛かってきた。
やはり私は亡き者になっていたのだ。
ならば、目にものを見せてやろう。
そして、馨を取り戻してみせる。
少数で駆り出され、死んでいった輩達への弔いだ。
私が私であるために。
彼奴だけは殺さねばならぬ――。
そして、現在に至る。
城主、土門嘉鶴の居室。
庭へと繋がる戸は開け放たれ、湿り気を含んだ夜風が流れ込む。
私の周囲には三つの骸が転がっていた。
一人は顔面を、残りの二人は頸を裂かれ、黒い血が白い畳に広がっている。
腰を抜かし、壁に背をついた嘉鶴が私を見上げていた。
熱病に罹ったが如く、躰を震わせている。
来るな、来るな化物――と、喚きながら刀を突き出していた。
雇い入れた用心棒が一瞬にして斬られたのだ。この怯え振りも分からないでもない。
私が斬ったのは三人だけではない。
道中、行く手を阻んだ者は例外なく殺した。
数にして十五。先刻の三人を足したところで十八。
足りない。
死んでいった仲間は二十。
あと二人、足りない。
がちがちと嘉鶴は歯を鳴らした。
煩い。これなら、油蝉や蟋蟀の方がまだ気が利いている。
開放された濡れ縁越しに外を見遣れば、庭の草木が青白い光を浴びていた。
此処からでは見えないが、月が出ているのだろう。
ひぃ、という声で嘉鶴へと向けば、刀を投げ棄て、這いながら逃げようとしている。
肥え太った横腹に蹴りを撃ち込めば、げぇ、という声を漏らして蹲る。
袴は漏らした小水で濡れ、口周りは吐瀉物に塗れている。
――醜いな。穢れている。
こんな者に、私達は嵌められたというのか――。
憎悪に任せ後頭部を踏み潰せば、河豚か蟇が爆ぜるような間抜けな音がした。
狂ったように藻掻いて私の足から脱け出すと、また飽きずに這い回る。
そこで、嘉鶴は己が刀を持っていないことに気付いたようだった。
自分で手放したというのに無様なものである。
「動くな」
嘉鶴が私へ向いた瞬間、呪を掛けてやる。武威を込めただけの、簡素な術であった。
呪術の類は不得手である。馬に跨り、弓や太刀を振っている方が性に合っている。
武芸や法術の覚えがあれば斯様な術など容易に破られるのだろうが、この下郎には無理であろう。案の定、嘉鶴は「何故じゃ、何故動けん」と狼狽するだけであった。
「化物め。儂に何をした」
「私を化物と呼ぶか。欲に駆られ、道を踏み外した貴様の方が余程、鬼魅の悪い化物だ」
「何だと」
「そんな恰好で睨むな。欲深いのも大いに結構だが、程度がある」
「誰に向かって口を利いとる。儂は」
「この地を治める土門嘉鶴という人間の皮を被った、一匹の醜い魍魎だろう」
何か云おうとした嘉鶴の膝に、佩いていた脇差しを突き立てた。
刃の毀れた凶器は強引に膝の骨を貫いた。
嘉鶴は悲鳴を上げようとするが、更に呪を掛けて黙らせる。
叫ぼうとする意思と、それを呑まんとする躰のせいで、嘉鶴の喉は蠕動を繰り返す。
丘に打ち上げられた鯉を思わせる姿であった。
「我が主よ。随分と愉快な恰好じゃないか」
「貴様ぁ。何が目的だ」
息も切れ切れに嘉鶴は問うた。
膝の小刀を抜こうと柄に手を掛けているが、あまりの痛みに力が入らないようであった。
「褒美を貰いに来たのだ」
「褒美、だと?」
嘉鶴は毛虫の如し太い眉を顰めた。
「まだ私が分からないようだな。僅かな手勢だけで、遥か遠方の土蜘蛛を討てと云ったのは貴様だろうに」
尤も、正確に云えば最初に命を下したのは帝なのかもしれないが。
「つち、ぐも? まさか、貴様は」
嘉鶴の顔が驚愕に染まる。その顔面は蒼白を通り越して土気色をしていた。
「云う必要はない。貴様に呼ばれるだけで虫唾が走る。それに、貴様の中では、私達は皆死んだことになっているのだろう。生憎、私だけが生き残ってしまった。労いの言葉くらいは欲しいものだが――まあ、いい。これが貴様の欲した土蜘蛛の首だ。受け取れ」
腰に括り付けていた女の首を放り投げた。
土蜘蛛――賊の頭領であった美しい女の首級は、嘉鶴の腹の上に収まり、意地の悪い笑みを湛えながら、凝然と私を見詰めている。
馘首してから二月は経っているというのに、少しも腐敗せず、寧ろ今にも喋り出すのではないかと思う程に綺麗な貌をしていた。
「さて、褒美と云いたいところだが」
左腰の太刀を抜いた。
刀身が三尺にも届こうかというこの大刀は、灯の温い光と冷ややかな月光を受け、静かに、それでいて明瞭とその存在を主張していた。
「この通り、その女の業物を戴いたのでな。私の望みは二つだけだ。そう多くない」
「ふたつ」
嘉鶴は、刃と生首に、視線を行き来させている。
過度な恐慌ゆえか、浅く速い呼吸を繰り返している。
「時に、貴様は何のために生きている」
私が問えば、嘉鶴は怪訝な顔をした。
「私は、己が誇りのために生きてきた。だが、貴様はそれを踏み躙った。多くの輩が死んでいった。その報いを受けてもらおう」
「待て、早まるな。違うんじゃ、儂は」
「違う? 違うと云うのか」
「そうじゃ。だから、助けてくれ」
「ならば二つ目だ。馨は何処だ」
救いを見出した嘉鶴が凍り付いた。
「此処に来る道すがら、馨の生家に寄ったのだ。貴様が知っていたかどうかなんて今更何の意味もないが――あの娘とは将来を誓った間柄でな。一目会おうとした訳だ。ところが爺様に、娘は此処に居ない。嫁いだからお前は用無しだ、と云われてしまったのだ」
嘉鶴の目へ、太刀を横に薙いだ。
叫ぼうとした嘉鶴だが、まだ呪が抜けないらしく、両目を抑えて嗚咽を漏らすだけであった。
「貴様が裏で糸を引いていたそうじゃないか。私を殺し、馨を我が物にするために、此度の討伐を企てたのだろう」
「助けてくれ。それは」
「断る。貴様は此処で死ね」
その時、奥の間に続く襖が勢いよく開かれた。
「旦那様っ!」
一人の娘が駆けてきた。
寝間着姿の娘は、痛みに喘ぐ嘉鶴に寄り「お気を慥かになさって」などと云っている。
必死の形相であった。
この闖入者には見覚えがあった。
少しばかり、私の知っている頃と姿形が変わってこそいるが。
あれは出立前、契りを交わした――。
娘が振り返った。泣いていた。
「この狼藉者! 旦那様に何をするのですか!」
その一喝で、差し伸べようとした手が止まった。
最初、娘が何を云っているのか、まるで解らなかった。
「……狼藉者というのは、私のことか」
だから、訊いた。
自分のものとは思えぬ程に、声が震えていた。
「他に誰がいるのです。賊め、名乗りなさい!」
「名乗る前に、答えろ。お前は、この男に嫁いだ女なのか」
「それが何だと云うのですか」
「お前の意思で、この男の許に行ったのか」
「だから、それが何です!」
泪に濡れた眼を見開いて、女は私を睨んだ。
「――そうか。そうだったのか」
何故、と訊こうとして――止めた。
無意味だと悟ってしまったのだ。
――馨。遅くなって済まなかった――。
――助けに来た。私と共に生きてくれ――。
用意していた言葉は、瞬く間に霧消していった。
「名乗るがいい。私が、旦那様の仇を討ってやる!」
娘が懐から短刀を取り出した。鞘を捨て、私に向かって一直線に走り出す。
娘の刃は、私の胸を貫く寸前で止まった。
「まさか、あなたは」
信じられぬものを見たような表情であった。
「黙れ」
今だけは、この血塗れの面頬に感謝した。
自分が怒っているのか嘆いているのか判らなかった。ただ、娘から名前を呼ばれなかったことに対しての安堵だけが慥かにあった。
己の中で、今の今まで積み重ねてきた物が音を立てて崩れていった。
昨日の私には、もう戻れない。
娘の唇が動く前に、躰が動いた。
袈裟に太刀を振り下ろせば、娘は斃れた。
何やら喚く男にも引導を渡してやった。
物云わぬ屍達に背を向け、庭を見た。
月光を浴びようか。
少しでも、身を清めなければ。
歩き出した時。
「――痛快だな。日影龍真よ」
女の声であった。
振り返れば、土蜘蛛が満面の笑みを浮かべていた。
「土蜘蛛。何がそんなにおかしい」
「これを笑わずして何を笑うのだ。覚えておけ、龍真。これが妾を討ったお主の末路だ。お主の生涯、何処まで行っても血塗れじゃ!」
けたたましい女の哄笑が、夜に木霊する。
いつまでも耳に残る叫びであった。