真夜中のラジオ番組
家族に「おやすみなさい」を言って、私は自分の部屋へと向かった。短かった梅雨が明け、連日連夜、冷房無しでは過ごせなくなっている。冷房の効いた部屋をでれば、ジトッと体にまとわりつくような暑さはかなり堪える。自分の部屋にある冷房にタイマーを入れておいて良かった。部屋に入ると感じた涼しい風に、ホッと息をついた。
ベッドにダイブして、電気を消そうとしたとき。ふとカレンダーが目に入った。今日はたしか木曜日のはず。ということは、声優の茅等朝穂の朗読ラジオの日のはずだ。すっかり忘れていた。
すぐに電気を消して、スマホのラジオアプリを起動する。「本日の配信」の欄に、たしかに「かやらあさほの朗読ラジオ」の番組が表示された。イヤホンを耳に装着しながら、つい頬がゆるんでしまう。このラジオは毎週の私の楽しみ。茅等朝穂という声優は、柔らかく落ち着いた声が特徴の女性声優で、その声質を活かしてアニメでは母親役を演じたり、あるいは大人っぽい子どもを演じたりと。その演技のバリエーションが幅広いことで有名なのだ。
今週分の配信をタップすると、幻想的な音楽と共に茅等朝穂の声で「かやらあさほの朗読ラジオ。今夜もあなたに素敵な朗読を」と、毎週の決まりと共にスタートした。
このラジオの内容は主に、リスナーのリクエストに答えた絵本の朗読や、茅等朝穂が好きな小説の紹介。それからリスナーがお題に沿って書いた短編小説を朗読する。私も何度かリクエストをだしたり、短編小説を書いているのだけど、今のところ読まれたのは一度きりだった。きっと、他にもお便りや応募をする人が多いのだろう。
今週は夏が到来したということで、主にホラー縛りで進行すると、茅等は落ち着いた声で告げた。「私、実はホラーが苦手で」と語る彼女に、イヤホン越しで「わかる」と私は思わず相槌を打つ。まして、それを寝る前のラジオで聞くというのだから不安だ。今日は果たしてちゃんと寝られるだろうか。
毎週木曜日、私はこの朗読ラジオを聞きながら寝落ちするのがルーティーンになっている。でも、今回は苦手なホラー。もし寝付けなくなったらどうしよう。明日は1限からだし、しかも必修だ。唯一救いなのがリモート出席が可能なところだけど、続く2限は対面必須だからどのみち学校には行かなくてはいけない。寝られるだろうか。でも、この朗読ラジオは聞きたい!
聞くか、やめるかで葛藤しているうちに、ラジオは進行していく。ラジオの最中に流れているBGMも普段とは違って、おどろおどろしいものになっていた。朗読の雰囲気作りのために音楽にも工夫を入れているところがこの番組の良いところだけど、今日ばかりはその工夫を少し恨んだ。眠れなくなったらどうしてくれるんだ!
緊張のあまり、心臓の鼓動が高鳴っていくのがわかる。私は無意識に深呼吸をしていた。大丈夫。だって茅等の朗読だ。聞き逃すのはもったいないし、好きな声優の声なら怖くないかもしれない。
意を決して、私は茅等朝穂の声に耳を傾けた――。
***
気が付くと、寝ていた。目を覚ましたとき、まだ暗い部屋を見渡して、いつの間にか寝てしまっていたことを悟る。寝る直前まで何をしていただろうかと、時刻を確認するためになんとなく見たスマホを見て、ラジオアプリが起動されていた。時刻は深夜の2時。
いけない、すっかり寝落ちた。でも、苦手なホラーの朗読だったというのによくも寝られたものだと自分の案外な肝の太さに驚けば良いのか、呆れれば良いのか。
さすがにもうラジオも終わってるだろう。再生し直さないと。耳からいつの間にか落ちてしまったイヤホンを手探りで見つけだし、耳にはめ直した直後、流れ込んできたのは茅等朝穂の、柔らかく落ち着いた声。そしておどろおどろしいBGM。耳を疑った。
どうやら再生はまだ続いているらしかった。
どうして、と疑問に思ったけれど。もしかして寝ている最中にスマホの電源が切られて、ラジオも一時停止をしてしまったのかもしれない。なら、今再生されている場所から聞こう。私はまた寝転がって目を閉じた。
茅等朝穂の声が聞こえる――。語られている物語は、リスナーの書いた小説だ。タイトル、『影』。
「こんな話を聞いたことがあるだろうか。ある日、男がいつものように家へと帰り、夕飯と入浴を済ませ、そしてベッドへと入った。何の変哲もないいつも通りの日常。だが、その日はどうにも寝付けなかった。気分転換に音楽でも流すかと、スマホを手に取ったそのとき。玄関のドアが開く音が聞こえた。てっきり同居している家族が外から帰って来たのかと思った」
ガチャリ、と。解錠する音が聞こえたような気がした。一瞬、ビビって。片耳のイヤホンをはずして様子をうかがう。私の部屋は玄関のすぐ真上にある。風のいたずらだろうか。築30年は経っているらしい家だから、そういうこともありうるかしれない。その後、何も音は聞こえなかった。ホッと息をついて、物語の続きを聞く。
「足音は真っすぐ、階段に向かって近寄ってきた。裸足なのだろうか。ひたひた、と静かな足音が聞こえた。そして、その階段を上る、みしみしときしむ音」
ひたひた、みしみし。やたらと臨場感の迫るような朗読だった。もしかして、先ほどの解錠音も、朗読から聞こえた音だったのかもしれない。心臓の鼓動が緊張で早まる。今日の朗読、なんだか過去1番すごくないか?
ホラーは苦手だし、好きな声優の声が聞こえているとはいえ。すぐにラジオを切ってしまいたくなる。それでも、聞くまい聞くまいと思っていても続きが気になってしまう。そんな不思議な感覚だった。
「階段を上がる足音が止まった。どこの部屋へ行くつもりだろう。男は息をひそめて相手の出方をうかがった。階段に1番近いのは両親の寝室、続いて弟の部屋、姉の部屋。そして廊下の突き当りが男の部屋となる。
足音は、両親の部屋に向かったようだった。だとしたら仕事が遅くなった父親だろうか。ガチャリ、と開く音。そして一言」
「違うなぁ」
そんな声が聞こえた気がした。しかも二重で。
私はもう一度、イヤホンを片耳からはずした。
茅等朝穂の朗読はなおも続いている。
「足音は続き、次にその隣のドアをガチャリ、と開く音」
それはまるで、現実世界を実況中継しているかのように。そして再び「違うなぁ」という声。茅等朝穂の声ではない。家の者の声でもない。低く夜の闇に溶け込むような暗く、静かな、かろうじて男のものとわかるような、声――。
「それから足音は、3つ目のドアを開けに足音を廊下に響かせた」
いつしか朗読の声も、茅等朝穂のものではなくなっている。彼女の柔らかく落ち着いた声ではなく、夜闇に溶け込むような暗く静かな男の声。ひたひたと、近寄る足音さえも男のものではないかと思った。
「そして3回目のドアが開く。再び『違うなあ』という声」
近づいている、声が。
そして2階にはトイレを除けば部屋は4つだ。両親、弟、姉、最後は私の部屋――。
私は足が震えあがった。足音は近い。こちらにひたひた、ひたひた、と。徐々に近づいてきている。荒い息遣いが自分から発せられているものだとわかった。暗闇にすっかり慣れている目が部屋の唯一の出口である、ドアをとらえている。ノブが、下げられた。
私は瞬間的に駆け出し、死に物狂いでノブをつかんで上に引き上げた。ドンッ、と一瞬ドアへと衝撃が走る。私は必死にそれを押しとどめた。
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ――。狂ったようにドアノブに何度も力をくわえている。そのうち、ドアに激しく突進を繰り返した。押されてドアから離れてしまわないようにするのが精いっぱいだ。
「あっ」
だが、何度も執拗に上げ下げを繰り返されてきたドアノブは、いよいよその強さに耐えきれなくなった。ガチャン、と憐れな音を響かせてノブがはずれた。
反射的に、尻餅をつく。
壊れたドアの隙間に手らしきものが挟まれいるのが見えた。暗いゆえに色まではわからない。その手がドアを鷲づかんだかと思うと、次の瞬間――。
「うわあああああああああっっ」
気が付くと私はベッドの上にいた。激しい運動のあとかのように、びっしょりと汗までかいていた。
ハッハッ、と乱れた呼吸を必死に整えながら、思わず両耳に手をやり、続いて部屋のドアへと目を向けた。ドアは閉まっていた。暗闇に慣れている目は、ノブも壊れていないことを視認する。耳からは何も聞こえない。というよりは、イヤホンが両耳ともはずれていた。
「なんだ、夢オチか……」
安心した途端、体から力が抜けた。寝相が悪かったのか、床に落ちてしまったスマホの画面は茅等朝穂の朗読ラジオの再生が終了していることを告げていた。
私は落胆と安心と、色々な感情をぐちゃぐちゃにされたような気がしながらも、何気なく窓へと目を向けた。閉じていたはずのカーテンがわずかに開いている。よろよろと立ち上がり、カーテンを直そうとしたところで。
視界に映ったのは、黒い影のような人型である。目も鼻も暗闇に覆われていてわからなかったが、唯一判別できる口だけが裂けるように、こちらに向かって笑いかけていた。