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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第三章

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千夏の瞳


 どよめきが朝の旧校舎を走る。

 夏の高校演劇地区大会に向けて日々の練習を欠かさない演劇部の部員たちは、久しぶりに部活に現れた部長の姿に開いた口が塞がらなかった。旧校舎の小さな舞台の上で、地区大会の演目である「屋根の上の城」の主人公ウサミユウダイ役を演じる三原麗奈の姿はまったく堂々としたもので、その霞みのない声は紺碧の夏空を思わせ、天を穿つようなその表現たるや、漆黒の夜空を呑む大炎が如き凄まじさがあった。

「ああ、あああ……!」

「部長ぉ! やっぱ凄すぎますぅ!」

「神や……! 神様が降臨しなさったんや……!」

 部員たちのキャッキャとした声が夏休みの校舎を木霊する。「やっと戻ってきたわね」と副部長の笹原美波は満面の笑みを浮かべており、大野木紗夜もまた優しげに微笑んでいた。

 ただ一人、麗奈の妹である三原千夏の表情のみが暗い。その激しくも何処か淡々とした演技に違和感を覚えていたのだ。そして何より、姉の瞳の光が異様だった。

 昼休憩の時間になると部員たちは額の汗を拭った。弁当箱を片手に、空き教室の窓辺に座った麗奈は心ここに在らずといった様子で、すぐ側で談笑を始めた大野木紗夜と笹原美波の会話には耳を傾けない。意を決した千夏はトコトコと麗奈の元に歩み寄った。

「ねぇ、お姉ちゃん?」

 返事はない。

 教室に吹き込む夏風が麗奈のアッシュブラウンの髪を靡かせる。窓の向こうのシダレヤナギを見つめる麗奈の表情は感情のない人形のようで、そのローズピンクの唇のみが絶え間なく動き続けていた。まるで祈り続けているかのように。終わらぬ願いに囚われ続けているかのように。

「あの人に会わないと……。あの子を救わないと……。あの人に会わないと……。あの子を……」

「お姉ちゃん!」

 千夏は叫んだ。その声に紗夜と美波がビクリと肩を震わせる。気にせず姉の頬を両手で包んだ千夏は、その瞳の奥にジッと目を凝らした。

「だ、抱き締められてる……」

 背筋が凍り付く。それ程までに異様な光景だったのだ。

 それまでは長い髪の女を背負っているように見えた男の子が、逆に長い髪の女から抱き締められていた。それは一見すると、巨大なクモが子供にしがみ付いているようで、溢れんばかりの女の慈愛が男の子を苦しめていた。

「だめだよ! もう離してあげて!」

 千夏はまた叫ぶ。だが、麗奈は呟くのを止めない。カッと頰を赤くした千夏が姉の肩を揺すり始めると、その光景を呆然と眺めていた紗夜と美波が慌てて止めに入った。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

「落ち着いてよ、千夏ちゃん!」

「み、三原さん、どうしちゃったのよ?」

 涙が千夏の頬を伝う。だが、麗奈は虚ろな表情を止めない。

 全部アイツのせいだ。

 そう思った千夏は二人の先輩の腕を振り払うと走り出した。アイツのせいだと、アイツが苦しませているのだと、そんな怒りに頬を赤くした千夏は旧校舎を飛び出した。



 荻野新平は敵か。

 否、敵ではない。

 睦月花子の判断は早かった。敵ではあるまいと、そう瞬時に決断した花子は大きく息を吐いた。

 顔の上半分が潰れた少女の死体が暗闇に横たわる。恐らくは銃撃によるものだろう。だが、それはテレビや漫画で見るヘッドショットとはわけが違った。小柄な少女だったからという理由もあるかもしれない。まるでスイカが叩き潰されたかのように、赤黒い肉片に塗れたその頭は、マグナムの威力の凄まじさを物語っていた。

「アンタ、それ……」

 言葉が詰まる。

 動揺が収まっていなかったのだ。鋼のような肉体と精神を持った花子は、それでもまだ子供だった。それがヤナギの霊であろうという事は肌の色から判断出来る。だが、それでも頭の潰れた少女を目の前にした花子は動揺を隠しきれなかった。

「コイツは怨霊だ」

 新平は左手を斜め下に伸ばした。すると体を硬らせた中間ツグミが腰を落とす。そうして恐る恐る黒い女生徒の死体を抱きかかえたツグミは、フラフラと足をふらつかせながら何とか立ち上がった。だが、だらりと女生徒の頭が前に倒れると、軽い悲鳴をあげたツグミは廊下にへたり込んでしまう。

「ひっ……ひっ……」

 浅い呼吸音が夜の校舎を流れていく。少女の死体を胸に抱いたツグミの表情はなんとも痛々しく、それでも必死に立ち上がろうとする彼女の健気な姿に、花子は憤りが抑えきれなくなった。

「アンタの趣味なの?」

 花子の腕に血管が浮かび上がる。微かに重心を移動させた新平は体の力を抜くと、黒色のリボルバーを斜め下に構えた。

「説明してやる暇はない」

「それってヤナギの霊よね。確か山本千代子とかいう」

「知っていたのか。ならば話は早い」

「で、ヤナギの霊の死体を陰気女に抱かせてる理由は何よ」

「見張るためだ。コイツらは目を離すと蘇る」

「蘇る?」

「ああ、だからコイツらは常に目の届く範囲に置いておかねばならんのだ」

 そう言った新平は重心を下げると腰のナイフに手を伸ばした。やれやれと肩を落とした花子は両手を上げてみせる。

「理由は分かったわ。悪かったわね、趣味とか言っちゃって」

「冷静な女だ、悪くない」

「はん。で、なんでアンタはそれを陰気女に運ばせてるのよ?」

「あと二体いるからだ」

「ふーん。四体じゃなくって?」

「四体だと?」

 重心を戻した新平は顎髭に手を当てた。彼の背後では中間ツグミが廊下にへたり込んでおり、どうしても立ち上がることが出来なかった彼女は、少女の死体を胸に抱いたまま懸命に涙を堪えていた。

「あと英子とみどりだっけ、それに四人目と五人目もいるんでしょ?」

「四人目は心配ない。五人目は知らん」

「なによ、じゃあ楽勝じゃないの」

「それはどうかな」

 新平の表情は真剣だった。相変わらずリボルバーを仕舞おうとしない彼は常に臨戦体制である。

 チラリと背後を振り返った新平は「早く立て」と低い声を出した。その声に頷いたツグミは溢れ出る嗚咽を抑えようと息を止める。だが、どれほど必死に唇を結んでも腰は上がってくれない。見かねた花子が、ツグミの腕から少女の死体を抱き上げると、わっと息を吐き出したツグミはわんわんと涙を流し始めた。

「たく、哀れ過ぎて言葉も出てこないわ」

 千代子の死体を胸に抱いた花子は深いため息をついた。それを見た新平はニヤリと頬を緩める。新平の視線が水口誠也に向けられると、廊下で四つん這いになっていた誠也は何を言われるよりも先に「俺には無理でしゅ!」と悲痛な叫び声を上げた。

「この女は戦える」

「無理なもんは無理! お、俺にはカメラがありましゅもん!」

 さながら亀のようである。そんな彼を冷たく見下ろした新平は腰のナイフに指を当てた。

 二人の会話には気にも止めず、空き教室に足を踏み入れた花子はカーテンを引き千切った。流石にこの状態の千代子を皆に見せるのは不味いと思ったからだ。

「つーかアンタ、今からどーするつもりなのよ」

 千代子の死体をカーテンで包んだ花子はそれを肩に担いだ。誠也の首筋をナイフで撫でていた新平は、空き教室から顔を出した花子を振り返ると、腰のホルスターにナイフを仕舞った。

「出口を探す」

「親友はどーすんの?」

「アイツは後回しだ」

「何よそれ、随分と冷たいじゃないの」

「放っておいても大丈夫な奴なんだ。助けを拒むような大馬鹿野郎だからな」

「へぇ、じゃあ一回外に出ようってわけ?」

「ああ、会って話をせねばならぬ人がいる」

 そう言った新平は遠い過去を見つめるように目を細めた。やっと泣き止んだツグミがフラフラと立ち上がると、彼女の頭を軽く撫でた新平は三階の廊下を歩き出した。誠也はといえば亀のように廊下に蹲ったままで、その首根っこを掴んだ花子はズルズルと彼の体を引きずり始める。

「てかアンタ、どーやってここを出るつもりなの?」

「赤い糸を手繰れば出れるらしい」

「赤い糸? 誰に言われたのよ?」

「お前には関係ない」

「たく、アンタねぇ……。まぁいいわ、ならとっととその赤い糸とやらを探そうじゃない」

「それも難しい。随分とここを歩き回ったが、赤い糸らしきものは見つけられなかった」

「ふーん。まぁこんな暗いんじゃ、糸なんてそうそう見つかりっこないわよね」

「そもそも、何か妙だ」

「妙ってなによ?」

「どうにも時間が止まっているような気がする」

「時間ねぇ……」

 空き教室の窓には終わりのない夜空が広がっていた。その動かぬ月に花子はジッと目を細める。

 二年A組の扉の前には人影があった。暗い廊下で腕を組んだ八田英一の表情は不安げで、彼の視線は花子の肩と足元の間で揺れ動いていた。

「やぁ皆んな、無事だったかい?」

「無事よ。因みにコイツは亀になってるだけ」

 花子が水口誠也の体を持ち上げると、英一は僅かに頬を柔らかくした。だが、すぐにまた彼の表情は強張ってしまう。

「これはヤナギの霊の死体よ」

「死体だって……?」

「そうよ。コイツら目を離すと蘇っちゃうらしいから、こうして持ち運ばなきゃならないの」

 英一は思わず口元を押さえた。吐き気が込み上げてきたのだ。花子の肩に担がれた白いカーテンは所々が赤黒く滲んでおり、黒く焦げた小さな靴のみが、まるで歩こうとしているかのように上下に揺れ動いていた。

「たく、アンタらまーだ下向いてんの?」

 教室を覗いた花子は肩を落とした。暗い教室の中央付近では、膝を抱えた姫宮玲華がブツブツと何か呟いており、窓辺に腰掛けた田川明彦は不貞腐れたように俯いている。何やら剣呑とした雰囲気である。怪訝そうに眉を顰めた花子は、壁際で体操座りをしていた田中太郎の頭を叩いた。

「おいコラ憂炎、いったい何があったのよ」

「ああ部長か。いや、俺にはよく分かんねー話なんだが、そのだな、田村しょう子っていう名前の人が、生きているだの、生きていないだのと言い合いが始まってな……」

「俺のばあちゃんを勝手に殺すな!」

「嘘だよ! だって王子とあたしは転生を繰り返してるんだもん!」

 玲華と明彦が夜闇を挟んで睨み合う。花子は拳を固めた。取り敢えず二人の頭を小突いておこうと思ったのだ。だがすぐに、黒板前を振り返った花子は床を蹴って走り出した。

「何やってんのよ、アンタ!」

 花子の蹴りが暗闇を切り裂く。すんでのところで頭を下げた新平はナイフを右手に持ち替えると左手にリボルバーを構えた。

「邪魔をするな」

「ざけてんじゃないわよ、コラッ!」

 そう叫んだ花子は千代子の死体を床に放り投げた。そうして銃口を避けようとした花子が腰を落とすと、それを見越していたかのように新平は彼女の軸足を横に払った。だが、花子は止まらない。体勢は崩しつつも両腕を広げた花子はそのまま新平に向かって突進する。揉み合うようにして転がっていった二人が教室の扉を吹き飛ばすと、バケツの水が飛び散ると共に、凍り付いたような静寂が夜の教室に訪れた。

「な、なんだよ……?」

 田中太郎が恐々と顔を上げた。黒板前に駆け寄った八田英一は、扉の前で揉み合う二人に頬を赤らめると、あらん限りの怒鳴り声を出した。

「おい、お前たち!」

 その声に新平は動きを止める。三角締めを決めようとする新平の顔面に拳を振り下ろそうとしていた花子も同様に動きを止めた。

「こんな時にいったい何をやってるんだ!」

「コイツがそこの女の首をかっ切ろうとしてたのよ!」

「なんだって?」

 英一はギョッと目を見開いた。黒板前では大久保莉音が浅い呼吸を繰り返しており、両目を潰された彼女の側では、橋下里香がメソメソと独り言を繰り返していた。

「おい新平、どういう事だ!」

 英一の瞳に憤怒の炎が燃え上がる。もしそれが本当ならただでは済まさない、と英一はそんな初めての激情に涙を滲ませた。

「村田みどりは人形使いだ」

 何やら嬉しげな笑みが新平の口元に浮かび上がる。言葉の意味が理解出来なかった英一は微かに首を傾げた。

「どういう意味だ?」

「あの怪物は人を操る。人を人形に変えるんだ。先ずは目を奪われ、それでも聞かぬ者は口を奪われる。そこの女は既に目を奪われていた。だから人形となって我々に襲い掛かる前に始末しておこうと考えたのだ」

 英一は絶句した。

 そんな英一を尻目に花子は以前の出来事を思い出す。あの時、あの放課後の校舎で、確かに両目が潰されていた宮田風花は何かに操られていた。

「何よそれ、なんでそんな事になっちゃうのよ」

「わけなど知らん。ただ人形となってしまうのは事実だ」

「目を潰して人を操るだなんて、よくもそんな真似を……。そのみどりってヤナギの霊、最低最悪の畜生ね。まるで悪魔よ、そんなの」

「我々からすれば悪魔だろう。だが、あの怪物に悪意はない」

「何処がよ!」

「あれは子供だ。純粋で邪心のない子供だ。子供が虫の羽を千切るのを躊躇わぬように、あの怪物は人の手足を千切るのを躊躇わない。ただそれだけの話だ」

 白銀の刃が月光に煌めく。新平が一歩前に足を出すと、英一は慌てて両腕を広げた。

「待っ……!」

「大丈夫だよ」

 それは静かな声だった。だが、よく通るその声に、新平と英一は暗い教室を振り返る。姫宮玲華の艶やかな黒髪が月明かりにぼんやりとした光を帯びていた。

「みどりはここにはいないから、だからその子は大丈夫だよ」

「誰だお前は?」

 新平は黒色のリボルバーを斜め下に構えた。その瞳には強い警戒の色が浮かんでおり、教室に足を踏み入れた花子はいつでも新平に飛び掛かれるよう腰を低くした。

「あたしはヤナギの霊」

「なんだと……?」

「あたしは山本千代子の生まれ変わりなの」

 そう言った玲華は疲れ切ったように視線を落とした。


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