いなくなった人たち
先ず目に入ったのは白い天井だった。
微かな消毒液の匂い。乾いた布団の感触。窓の向こうでは大きなイチョウの木が鮮緑の葉を揺らしており、青い空を透かす細い雲が、枝の隙間をゆっくりと流れていった。
三原麗奈は瞳だけを動かした。どうやらベットの上で寝ているらしい。柔らかな枕の感触が心地良い。白い布団の温もりに心が安らぐ。夢見心地に細い息を吐いた麗奈は、視界の端に揺れる艶やかな黒い髪に視線を動かした。
「お姉ちゃん!」
「千夏ちゃん……?」
「もう、心配したんだからね!」
三原千夏の透き通るような声が麗奈の頬を叩く。長い黒髪の流れが清らかだ。学校の保健室を想像した麗奈はすぐにここが病院の中だということに気が付いた。白衣姿の女性が目に入ったのだ。
「あ、れ……?」
麗奈はまた視線を動かした。ゆっくりと彼方此方に。思考が定まらなかったのだ。いったい何故こんな所で横になっているのか。思い出そうとしても、薄ぼんやりとした記憶の断片が頭の中を流れるばかりで、一向に思考が前に進まない。
「おかえりなさい」
懐かしい声だった。視線を横に動かした麗奈は、今まさに病室を去ろうとする痩せ細った女性の後ろ姿を見る。慌てて体を起こした麗奈は大きく息を吸った。
「お母さっ……」
だが、麗奈はすぐに息を止めた。痩せ細った女性と入れ替わるようにして痩せた男の子が姿を現したのだ。激しい恐怖に息が凍り付く。忌まわしき記憶の断片が麗奈の脳裏に溢れかえってくる。
「麗奈ちゃん、おかえり」
冬の夜空のように冷え切った瞳。病室に現れた吉田障子の口元には笑みが溢れていた。
「ねぇお姉ちゃん、今日はもう休もうよ。終業式だけ出ればいいじゃん」
そう言った千夏は姉の部屋のベッドにごろんと寝転がった。時刻は既に十三時を回っている。今から学校に向かったとしてもほとんど授業は受けられないだろう。それでも学校に行かなければと、そう思った麗奈はさっさと着替えを済ませた。昨夜の夢が現実だったかどうかを確かめなければならなかったからだ。
握り締められたスマートフォンに音はない。睦月花子からも姫宮玲華からも連絡はない。焦燥ばかりが麗奈の胸の内を渦巻く。
「ねぇ千夏ちゃん、理科室の前で倒れてたのって本当に僕一人だったの?」
「うん、らしいよ。忌まわしき吉田の証言だけどね」
「えっ、僕が倒れてるのを見つけたのって、アレだったの?」
「アレって、いひひ、うん、アレだよ」
千夏は何やら可笑しそうに口元を押さえた。
真っ昼間のグラウンドは茹だるような暑さだった。
母親である三原美佐に車で送ってもらった二人は花壇沿いの石畳で額の汗を拭う。学校は六限目の最中であり、サッカーの授業に熱中する男子生徒たち以外の声は聞こえてこなかった。
「おう、三原」
ちょうど校舎に足を踏み入れた麗奈の耳に野太い声が届く。世界史の福山茂男が袖を捲った太い腕を上げると、スニーカーを脱いだ麗奈はペコリと頭を下げた。
「大丈夫だったのか?」
「はい、なんともなかったです。あ、あの先生、今日って姫宮さんたち学校に来てますか?」
「姫宮さんたち?」
「あ、えっと、一年B組の姫宮玲華さんと、二年C組の睦月花子さんと、それと、えっと……た、た、たた……た……さん……と……」
「姫宮と睦月か、アイツら来とったかな。いや、今日はアイツらの授業はやってなくてな」
「そうですか……」
「で、そのタタさんってのはどのクラスの奴だ?」
麗奈は無視した。
「まぁいい。後で調べといてやるから、また帰る前に職員室に顔出せ」
「は、はい。お願いします」
「それとお前ら、水分だけはしっかり取っておけよ」
どうやら麗奈が倒れた原因を熱中症か何かだと思っているらしい。一瞬真剣な表情をしてみせた福山茂雄は、すぐに頬を崩して豪快な笑い声を上げると、片手で顔を仰ぎながら職員室の方へと去って行った。
学校は普段通りのようだった。
一階の階段前で千夏と別れた麗奈は別段変わった様子のない夏の校舎を見渡した。授業中の静かな廊下に蝉の鳴き声が響いてくる。グラウンドの声は遠く、廊下の窓の向こうでは並木の青葉がそよ風に靡いていた。
理科室を覗いてみよう。
そう廊下の端に視線を移した麗奈は首を傾げた。どうにも壁の色が記憶とは違っているような気がしたのだ。だが、それも些細な違和感で、すぐに窓の外を見上げた麗奈は青い空にため息をついた。
風が涼しそうだ。
窓を開けた麗奈は湿ったような夏の匂いに強烈な懐かしさを覚えた。日陰から見上げる光が眩しい。鮮やか過ぎない色が美しい。
冷たい窓のサッシにもたれ掛かった麗奈は校舎裏の蒼い雑草に目を細めた。何かを忘れてしまっているような気がしたのだ。だが、それが何なのかが思い出せない。いや、思い出す気にならない。そのまま外の匂いに微睡んでいた麗奈は、六限目の終わりを告げるチャイムに合わせて大きなあくびをした。誰かの話し声が背後から聞こえてくる。だが、気にならない。それほど心地の良い風だった。煙と悲鳴に遮られない、静かな青空が心地良かった。
「お姉ちゃん、何やってんの?」
突然、はっきりとした声が麗奈の脳に届く。はっと目を見開いた麗奈は慌てて後ろを振り返ると、授業終わりの廊下を歩く生徒たちの視線にギョッと体を硬直させた。
「大丈夫?」
箒を片手に千夏が不安げな表情をしている。コクコクと顎を動かしてみせた麗奈はゆっくりと廊下の窓を閉じた。機械のような動きである。何やら言いようのない恥ずかしさに首元を赤らめた麗奈は、彼らの視線から逃れようと視線を落とした。自分は姫宮玲華らの安否を確かめに学校に来たのだと、そう本来の目的を思い出した麗奈はそのまま職員室に向かって歩き出した。だが、福山茂男の姿は何処にも見当たらず、仕方なく昇降口の前に戻った麗奈は、掃除中の千夏の肩に手を伸ばした。
「ねぇ千夏ちゃん、姫宮さんって学校に来てた?」
「ううん、今日は来てなかったみたい」
冷たい汗が背中を伝う。同時に左足に鈍い痛みが走った。昨日の夢を思い出したのだ。赤黒い血の色。金属のような不快臭。強烈な寒気。熱が、痛みが、苦しみが、まるで現実のものであったかのように、麗奈の胸の内に残り続けていた。
三階に上がった麗奈は二年C組を覗いた。だが、箒や雑巾を片手に雑談に盛り上がる生徒たちの中に睦月花子と田中太郎の姿はない。焦ったように廊下を走り出した麗奈は四階の生徒会室を目指した。もしかすると生徒会メンバーならば何か知っているかもしれないと考えたのだ。
「あ、あの……」
「やぁ、三原さんじゃないか」
生徒会室の扉は開け放たれていた。広い部屋の奥の窓から吹き込む風が校舎の中へと流れていっている。生徒会メンバーである足田太志と宮田風花、そして、徳山吾郎は古びた部屋の掃除に勤しんでいるようであり、赤茶けた絨毯に掃除機を掛けていた足田太志は三原麗奈の登場に眩いばかりの笑みを浮かべた。
「倒れたという話を聞いて心配してたんだけど、体の方は大丈夫なのか?」
「は、はい」
「そうか、それは良かった。それで、何か用事かい?」
「あの、その……。その、睦月花子さんと、姫宮玲華さんは登校してるかなって……」
「睦月さんと姫宮さん? うーん、いや、先生に聞いてみないとちょっと分からないな。だけど、どうして急に」
「えっと、その……」
麗奈はチラリと生徒会室の奥に視線をやった。窓辺では宮田風花が書類の整理をしており、積まれた段ボールの横で徳山吾郎が大きなあくびをしている。
「なんだね?」
麗奈の視線に気が付いた徳山吾郎は眉を顰めた。そのまま麗奈が扉の前で手をこまねいていると、やれやれと首を振った徳山吾郎は麗奈の側に歩み寄った。
「三原さん、いや、吉田くんか。どうかしたのか?」
「吉田くん?」
足田太志が首を傾げる。
そんな彼に向かって徳山吾郎は「いや、お気になさらず」と片手を上げた。
「では会長の手前、三原さんと呼ばせてもらうが、何か僕に用事かい?」
「あの、その、と、徳山さんでしたっけ……?」
「僕のことは吾郎先輩と呼びたまえ」
「あ、すいません、吾郎先輩……」
もじもじと麗奈は恐縮したように肩を丸めた。そんな彼女の胸元を見下ろしていた徳山吾郎の口元に淫靡な笑みが浮かび上がる。
「声が小さいな」
「は、はい、吾郎先輩……」
「ふむ、まだ小さいぞ」
「ご、吾郎先輩……!」
「ふーむ、ま……」
「何やってんですか」
極寒の風のような声が吾郎のうなじをくすぐる。全身を硬直させた吾郎は、彼の真後ろに立っているであろう宮田風花の侮蔑の瞳を想像して息を呑んだ。
「い、いや、ほんの冗談だよ。それで三原さん、どうかしたのかね」
「あのぉ……」
麗奈は俯いた。自分が下級生である事を久しぶりに思い知らされたのだ。宮田風花の冷たい表情が、徳山吾郎の尊大な態度が、足田太志の溢れんばかりの自信が、小心者の麗奈には恐ろしかった。
「何か用があって来たのだろう?」
「はい、その……」
「先ほど睦月くん、姫宮くんの名を耳にした気がしたのだが、また彼女たちが何かやらかしたのか?」
「い、いえ、その、吾郎先輩は、その……」
「なんだね?」
「その、ご、吾郎先輩は、あの、変な、変な夢について何か知っていませんか……?」
「夢……?」
「はい、あの、なんというか、夜の学校に迷い込んじゃうみたいな、変な内容の夢なんですけど……」
途端に吾郎の表情が凍り付いてしまう。彼の真後ろ数センチの距離に立っていた宮田風花も表情を固くし、足田太志のみが話の筋を飲み込めず首を捻っていた。
「ゆ、夢か……」
「はい。吾郎先輩はその夢について何か知ってませんか……?」
「知っているといえば知っているが、僕にも詳しくは分からないよ」
「そうですか……」
「しかし、なぜ突然そんな話を」
「実は僕、昨日もその夢を見ちゃって……」
「な、なんだって……?」
「その時、姫宮さんと睦月さんと、た、田中くんと……。あと誰だっけ、えっと、確か新しく来た先生と、田川くんと、あと他にも沢山の人が夢の中に居たんです」
吾郎は絶句した。代わりに宮田風花が会話を続ける。
「それで皆んなはどうなったの?」
「分かりません。さっき目が覚めたら病院に居て、それで、姫宮さんたちが心配だったので学校に来てみたんですけど……」
「そういえば今日は玲華様、学校に来ていなかったような……」
宮田風花は視線を落とした。その表情はいつになく険しい。
「もし、万が一にもまたあの夢に迷い込んでしまったのだとしたら、玲華様は今もまだ吉田くんを探して、あそこを彷徨っている可能性があるということに……」
「い、いや、ちょっと待ちたまえ。吉田くんが外に出た時点で夢が崩壊してしまうという話ではなかったのか?」
「崩壊?」
「吉田くんの夢であるから共に外に出ねばならぬと、前にあの場所で姫宮くんが言っていたではないか!」
そう叫んだ徳山吾郎は黒縁メガネのブリッジに中指を当てた。宮田風花の頬から血の気が引いていく。事情を何も知らない生徒会長の足田太志は軽く首を捻ると息を吐いた。
「よく分からない話だけど、なぁ三原さん、要は睦月さんと姫宮さんと田中くんが学校に登校しているかどうかを知りたいという訳なんだろ?」
「え、あ、はい……」
「それと田川くんって子と、あと新しく来た先生か。うん、放課後に俺が聞いといてやるよ。だから、そろそろ掃除を再開しようぜ」
そう言った太志は掃除機のスイッチを入れた。低いモーター音が赤茶けたウールの絨毯を震わせる。そうして掃除を再開した太志は思い出したように独り言を呟いた。
「ああ、そういえば八田先生、今日は学校に来てなかったな」




