ヤナギの下の攻防
「くっ……、見張られているわ」
双眼鏡を下ろした睦月花子は親指の爪を噛んだ。茶色い鹿撃ち帽を深く被った鴨川新九郎の厳しい表情。そんな先輩たちの姿を不安そうに見上げた小田信長は、頭に巻いたタオルに手を当てた。
体育館とテニスコートの間。狭い道にしゃがみ込む三人。超自然現象研究部リヴァイヴァルに燃える三つの視線の先の、旧校舎のヤナギの木の下に佇む、艶やかな黒髪の女生徒。
「……あれ? ちょっとお待ちください、部長」
首を傾げた信長は目を細める。女生徒の黒髪が風に流れて揺れた。
「隊長、よ?」
「し、失礼しました、隊長!」
「で、何かしら?」
「その、あの人、たぶん生徒会の刺客では無いです」
「どーしてアンタにそんな事が分かるのよ」
「その、あの人、姫宮玲華……さん、です」
「誰よ、それ?」
「僕の隣のクラスの人で、その……」
「アンタの知り合いなの?」
「い、いえいえいえ! は、話したこともないです!」
「話したことないなら、刺客かも分かんないでしょーが」
「わ、分かります! あの人は、ひ、姫宮さんは、そんな人じゃない!」
火の玉で照らしたように赤く染まる信長の丸い顔。白いシャツから蒸気が昇る。
なんて分かりやすい奴だ。
花子と新九郎はやれやれと顔を見合わせた。
「じゃあ、あの女は、こんな朝っぱらから旧校舎で何してんのよ?」
「わ、分かりません……」
鋭い舌打ち。背筋をピンと伸ばした花子は、シダレヤナギに向かって大股で歩き始める。慌てて後に続く新九郎と信長。
「ちょっとアナタ、姫宮さん? こんなとこで何をしているのかしら?」
朝の風に揺れるヤナギの枝と黒い髪。玲華の背中に声をぶつけた花子はズンと地面を両足で踏みしめると腕を組んだ。振り返る玲華の細い毛先がふわりと膨らむ。飛び跳ねる信長の心臓。ギロリと花子は玲華の瞳を睨み上げた。二人の視線が青空の下に重なる。
「お化けを待ってるの」
玲華の赤い唇が横に広がる。
衝撃。遅れてやってくる鼓動の高鳴り。口をポカンと広げた花子は腕を組んだままに首を傾げる。
「お、お化け? アナタ、何を……」
「ここをお化けが通るから、待ち伏せしてるんだよ」
「お、おば、おば……そ、それって、まさか、シダレヤナギの幽霊のこと、かしら?」
「正解」
玲華はニッコリと微笑んだ。花子の体が膝から崩れ落ちる。玲華の眩い笑顔に目を回した信長の体を支える新九郎の太い腕。
「……姫宮さん、だっけ? 君は本気で、シダレヤナギの幽霊を信じているのかい?」
「信じるって、どういう意味かな?」
新九郎はズレた鹿撃ち帽を被り直した。玲華は微笑んだままに背の高い彼に首を傾げる。
「あ、えっとね……僕ら、超自然現象研究部の部員なんだけど、実は僕らさ、シダレヤナギの幽霊をずっと昔から探してるんだ」
「へぇ」
「その、姫宮さん……もしかして、幽霊について何か知ってたりする?」
「知ってるも何も、毎日会ってるよ」
「な、なんですってー!」
座ったまま飛び上がる女。慌てふためいた花子は、縋り付くように玲華に詰め寄った。
「会ってるって、どういう事よ! ア、アナタ、幽霊が見えるの?」
「見えるよ」
「嘘でしょ! 証拠は、証拠はある? 見せなさい! もし本当なら、うちの部に入ってちょうだい!」
「嫌でーす」
花子の怒気を含んだ荒い息。飛び掛かろうとするかのように、前傾姿勢になった花子の腕を玲華は軽く躱す。新九郎と信長は慌てて花子を引き止めた。
「ねぇ、あなた達、誰だっけ?」
「超自然現象研究部よ! 長い歴史と伝統を兼ねそろえた由緒ある部活動なの、興味あるでしょ?」
「ないでーす」
「な、なんですってー!」
暴れる花子に新九郎と信長の体が振り回される。バランスを崩した三人は玲華の足元に倒れ込んだ。クルクルと回る信長の瞳。花子の肘を顎にもらった新九郎の白目。白い膝に両手を当てて腰を落とした玲華はジッと花子の目を見つめる。
「ねぇ、あなた達、王子って知らない?」
「……は? 何よ急に、王子って。白馬に乗ったイケメンの事?」
「違うよ、クラスメイトの王子様。誰が、彼に王子ってあだ名を付けたのか、探してるの」
「あだ名?」
「そう、あだ名。彼自身が自力で思い出したとは、思えなくってね」
「……意味が分からないのだけれど? 秀吉、王子って誰の事よ?」
「信長です! 知りません!」
立ち上がった信長はサッと敬礼姿勢をとった。花子は困惑したように眉を顰める。やっと意識を取り戻した新九郎はキョロキョロとあたりを見渡した。
「分かんないか、じゃあ、いいや」
興味を無くしたのか、玲華は明後日の方向に視線を逸らした。バッと両腕を広げた花子が、そのほっそりとしたふくらはぎにしがみ付く。
「よくない! アナタには聞かなければいけない事が沢山あるの! 場合によっては、ウチの部に入部して貰うから、覚悟なさい?」
「えー、嫌なんですけど。秀吉くん、助けて」
「の、信長です!」
小柄な信長の跳躍。花子に飛び掛かった信長はその腕を必死に引っ張る。寝転がったまま軽く横に振られた花子の拳が信長の顎を貫いた。
花子の腕から逃れた玲華は、たったと旧校舎の入り口の前に走った。その後を追う花子の足に信長がふらふらと飛びかかる。まだ意識のハッキリしない新九郎は、体操座りしたままテニスコートの柵で鳴く小鳥を眺めた。
「秀吉ー! アンタ、主君を裏切る気なの?」
「信長です! 隊長、いえ……殿! 乱暴はダメです!」
「うるっさいはね! これは戦よ!」
「ダメです! やめてください!」
揉み合う二人。石段に腰掛けて、校庭から旧校舎に繋がる道をジッと眺めていた玲華は、アイフォンで時間を確認した。
「おかしいな」
立ち上がった玲華はヤナギの木を見つめた。信長を絞め落とした花子が玲華の背中に抱き付く。バランスを崩す二人。
「ふっふっふ、もう逃さないわよ?」
フローラルノートの黒髪。漂ってきた甘い香りに思わずうっとりと腕の力を抜きそうになった花子は自分の頬を叩く。その隙に腕から逃れた玲華は、花子を振り返った。
「ねぇ、お殿様?」
「部長とお呼び」
「幽霊に会いたいの?」
「会いたいわ! やっぱり、アンタ何か知ってるのね?」
「うん」
「早く会わせなさい!」
「今夜、学校に来てくれるかな」
「はい?」
「どうも、おかしいんだよね」
「何がよ?」
「もしかしたら、迷っちゃったのかもしれない。早く助けに行かないと」
「……意味がわかんないけど、そうね、幽霊といえば夜よね? 分かったわ、今夜、落ち合いましょう!」
「じゃあ、午前0時にヤナギの前に来てね」
「分かったわ、姫宮さん! いえ、副部長!」
玲華の右手を花子は強く握る。八時のチャイムが校庭に響くと、玲華はヤナギに視線を向けた。アイフォンの通話ボタンを押した彼女は誰かの声を待った。