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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第三章

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夜の校舎


【Y市・県立富士峰高校の生徒四名、大人七名が行方不明】

 K県警は二十三日、Y市K区の県立富士峰高校の生徒四名、同校の臨時教諭、教育自習性を含む大人七名の行方が分からなくなっている、と発表した。県警は彼らの失踪に何らかのつながりがあることを考慮し、地域住民に情報の提供を呼びかけている。

 また、生活安全総務課によると、四名の生徒たちはいずれも同月十八日の夕方ごろまでは学校に残っていたと──。



 それは突然の出来事だった。

 気が付けば夜闇に包まれていた理科室で、八田英一は呆然と辺りを見渡した。

 夜の静寂。音の無い校舎。広い窓から差し込む月明かりが暗い教室を薄ぼんやりと照らしている。口を開こうとする者は誰一人としておらず、現状を理解出来ぬ者たちの浅い呼吸のみが夜の校舎を流れていった。

 いち早く行動を起こしたのは荻野新平だった。暗闇に目が慣れた彼はすぐに体重を前に移動させると、作業服の内ポケットから拳銃を取り出した。そうして理科室を一瞥した新平は風に流れる木の葉のように音も無く理科室を後にした。

 彼とほぼ同時に睦月花子も動き始める。ただ、花子の動きは幾分かゆったりとしたもので、その場で軽く筋肉を伸ばした彼女は首の骨を鳴らすと、酸素を求める金魚のような顔をした田中太郎の背中を軽く叩いた。その弾けるような音が静寂を吹き飛ばすと、徐々に騒めきが理科室の空気を震わせていった。

「何をぼーっと突っ立てんのよ、憂炎」

「は……?」

「さっさとここから出るわよ」

「いや、ちょっと待て……」

 田中太郎は動けなかった。激しく動揺していたのだ。前の世界では常に最悪を想定して動いていた。学校に近づかなかったのはその為だ。世界が変わり、普通の学生としての生活を送るようになった彼の警戒心は極端に薄れていた。油断である。その事実に彼は心を乱していた。



 中間ツグミは壁際で腕を組んた。迷っていたのだ。荻野新平を追うべきか。八田英一を守るべきか。彼女は迷っていた。

 理科室の黒板の前では、八田英一を囲むようにして四人の学会員たちが立ち竦んでいた。

 八田英一の側近である大野木詩織。そして、学会の幹部候補生である水口誠也、橋下里香、大久保莉音。

 大野木詩織は幹部だった。だが、それは名ばかりで、その容姿と身体を尊師が気に入った為に彼女は幹部に選ばれたのだ。橋下里香と大久保莉音が幹部候補生に選ばれたのも同様の理由であり、その実力を買われて幹部候補生に迎え入れられたのは水口誠也だけであった。ただ、そんな彼もまた若かった。この理解出来ぬ状況を理解しようと、常に冷静であろうとする誠也は決して冷静とは言えなかった。

 荻野新平を除いて、この場で冷静さを保っている大人は幹部候補生の中間ツグミだけのようだった。その為、この場を離れて良いものか、ツグミは迷っていたのだ。

「中間さん、新平さんを追ってくれ!」

 そう八田英一が声を張り上げた。迷いの無い声だ。中間ツグミは思わず目を丸めてしまう。

 英一もまた自身の冷静さに驚いているようだった。そうしてほんの僅かな時間、暗がりで視線を交わしていた二人はこくりと頷き合う。周囲で呆然とする部下たちに英一が声を掛け始めると、理科室の窓際を振り返ったツグミは、この場で最も平静な顔をした女に向かって顎をしゃくった。

「おい鬼、英一様を頼んだぞ」

「はあん?」

 睦月花子の返事を待つ事なく、中間ツグミは荻野新平の後を追って暗闇の中へと姿を消した。

「ちょっと待ってよ!」

 姫宮玲華の鈴の音のような声が夜の校舎を走る。彼女の細い腕の中で三原麗奈が呻き声を上げると、下唇を噛んだ玲華は慌てた様子で花子を振り返った。

「部長さん、すぐにあの人たちを連れ戻して」

「なんでよ」

「千代子が来る前に外に出なきゃいけないから」

「んな焦らなくっても大丈夫だっつの。もしまたあのチビが私の前に現れようものなら、今度こそ夜食にしてやるわ」

 そう言葉を吐いた花子は舌を舐めずるような仕草をした。そんな花子に向かって玲華はキッと目を細める。

「冗談で言ってるんじゃないってば、他のヤナギの霊が現れる可能性だってあるんだよ!」

「はん、んなもんまとめて……」

 その時、鋭い女の悲鳴が夜の校舎を震わせた。咄嗟に花子が床を蹴ると、玲華はぎゅっと麗奈の体を抱き締めた。

「ひっ……ひっ……」

 悲鳴を上げたのは幹部候補生の大久保莉音だった。何とか状況を把握しようと理科室を出た彼女は、暗がりに並んでいた物に驚いてしまったのだ。彼女の後を追って廊下に出た水口誠也も息を呑む。視界に入ったのは手縫いの人形だった。目と口を赤い糸で縫われたぬいぐるみが壁際に隙間なく並べられていたのだ。

「何よ、これ?」

 理科室を飛び出た花子はそこに並んでいた大量のぬいぐるみに目を細めた。生後間もない赤子ほどの大きさである。髪が無く服も着ていない手縫いのそれらは、目と口が縫われているといった以外にこれといった特徴がなく、その無味乾燥とした姿が何処か寂しげで、また不気味でもあった。

 花子の後を追って田中太郎が理科室の扉に歩み寄る。すると、やっと意識を取り戻したらしい三原麗奈がキョロキョロと辺りを見渡し始めた。

「ちょっと皆んな、勝手に動かないでよ。憂炎くん、田川くん、皆んなを理科室に連れ戻して」

「え……?」

「は……?」

 田中太郎と田川明彦が同時に首を横に倒す。まだ動揺を続けている田中太郎の強張った表情とは違って、田川明彦はぼんやりとした表情をしていた。まるで夢の中にいるかのような。迷い込んだ者たちの中で田川明彦のみがヤナギの霊の存在を全く知らなかったのだ。そんな彼にとって突然現れた夜の校舎は夢以外の何ものでもなかった。

「あー、ええっと、あはは、これって夢だよな?」

 そう呟いた明彦は思わず自分の言葉に吹き出してしまう。ここが夢の中であるならば、自分は一体誰に向かって質問しているのだろうか。明晰夢とやらか。そんな事を考えた彼は、いやに意識がはっきりとしているな、と自分の置かれた状況に違和感を覚え始めた。

「ターンッ……」という高い音が夜の校舎に響き渡る。

 一同は動きを止めた。音が頭の中を木霊したのだ。それは明るい森の中をイメージさせるような音だった。

 僅かな余韻の後に、寂しくも暖かな秋空のような旋律が流れ始める。それがピアノの音であると気が付いた彼らは暗い天井を見上げた。

 ゆったりと夜闇を流れる旋律。寂寥とした秋の丘を感じさせる音。やがて赤い陽が丘を照らしていくように、ピアノの音階が上がっていくと、その情景の強さに彼らの思考が一瞬止まってしまった。それ程までに美しい高音だったのだ。ただ一人、姫宮玲華のみがその旋律に頬を青ざめさせていた。

「ドビュッシーの亜麻色の髪の乙女」

 そう玲華が呟くと、三原麗奈は「え?」と玲華に向かって首を傾げた。

「みどりが好きだった曲だ」

「みどりって?」

「や、やばいかも」

 玲華は辺りを見渡した。理科室は一階の端にある。追い詰められれば逃げ場はない。

「王子、立って」

「え?」

「早く!」

 鋭い声だった。何事かと太郎が二人を振り返る。

「どうかしたのか?」

「今すぐ逃げる準備をして」

「なんでだよ」

「やばいからだよ。私たち端っこにいるから逃げ場がないの!」

「いや、別に窓から逃げればいいじゃねーか」

 その言葉に玲華は目を丸めてしまう。そうしてポンっと手を叩いた玲華は何やら照れ臭そうに頬を緩めながら親指を立てた。

「そっか、そうだよ、窓から出ればいいだけの話じゃん。さすが憂炎くん、頭いいね」

「はぁ……」

 なんと返事をすれば良いのやら、取り敢えず頭を掻いた太郎はさっそく逃げる準備を始めようと窓に歩み寄った。だが、窓のサッシに指を掛けた太郎の表情が変わる。

「あれ、開かねーぞ?」

 太郎は首を傾げた。固いというわけではない。何やら上手く触れないのである。月明かりにぼんやりと照らされた窓はまるで幻のように掴みどころがなかった。

「もー、鍵締まってんじゃん」

 そう玲華は呆れたように窓の鍵に手を伸ばした。だが、鍵も同様に掴みどころがなく、玲華の細長い爪は宙を引っ掻くばかりである。

「あれ、触れないんだけど……?」

「おいおいおい、どうなってんだ……」

 冷たい汗が太郎の背中を伝う。動揺が急りに、焦りが恐怖に、恐怖が怒りに変わると、理科室の四角い椅子を持ち上げた太郎はそれを窓に叩き付けた。だが、音は鳴り響かない。衝撃も伝わってこない。

 太郎と玲華は目を見合わせた。物寂しいピアノの旋律が二人の間を流れる。理科室を振り返った二人はまた見つめ合うと、ごくりと唾を飲み込んだ。

「わ、渡り廊下だ。あそこなら常に開け放たれてる筈だ」

「そ、そっか。さすが憂炎くん、頭いいね」

 そう頷き合った二人は理科室を見渡した。

 未だ状況を理解出来ていないのだろうか、呆然と床にしゃがみ込んだままの三原麗奈に向かって、八田英一が優しげな声を掛けている。その英一の背後では、今にも倒れそうな程に顔を青白くした大野木詩織がふらふらと足を震わせており、壁際では田川明彦がぶつぶつと何かを呟いていた。理科室に残っていたのは太郎と玲華を含めた五人のみで、後の七人は理科室を出て行ってしまっているようだった。

「とにかく、早くここを離れないと。今みどりが現れたら、私たち終わりだよ」

 そう言うが否や駆け出した玲華は、麗奈の腕を掴むと太郎に向かって手招きをした。そうして八田英一を振り返った玲華は赤い唇を動かす。

「八田先生、早くここを出るよ」

「姫宮さん、まさかここはヤナギの霊の……」

「うん、そうだよ。ここがヤナギの霊の夢の世界。だから早く脱出しないと」

「あ、ああ、分かった」

 八田英一は極めて順従にそう頷いた。姫宮玲華が魔女の生まれ変わりだという話を聞いていた英一は、この理解不能な現状において彼女に頼り切るより他ないと判断したのだ。

「ほら王子、立って」

「田川くん、歩けるかい?」

 玲華の手を借りた麗奈がゆっくりと立ち上がる。田川明彦の体を支えた英一が歩き始めると、英一の袖を両手で掴んでいた大野木詩織は慌ててその後に続いた。

 既に太郎は理科室を出てしまっていたようだ。廊下に足を踏み出した玲華はキョロキョロと周囲の状況を確認した。

 暗い廊下の隅に並んだ手縫いの人形。肩を合わせて震える幹部候補生の女性が二人。窓辺では睦月花子が手に取った人形をしげしげと眺めており、その隣では水口誠也が並んだ人形に向かってデジタルカメラを構えていた。

「ねぇ部長さん、憂炎くんは?」

「憂炎なら隣の美術室よ」

「どうして?」

「なんかアイツ、木剣を用意しなきゃなんねぇ、とか何とか騒いでたわ」

「もう、そんな暇ないってのに。ねぇ部長さん、早く外に出ないと」

「早く外にっつったって、アンタ、あの荻野新平ってやつと、前髪長い陰気女を待たなきゃ外には出れないじゃないのよ」

「そうだけど、とにかくここから離れないと……」

 

 ちょきん──。

 

 それは舌足らずな少女の声だった。

 同時に、何か重たい物が崩れる落ちるような音が夜の校舎に響き渡る。

「うそ……?」

 三原麗奈は呆然と首を傾げた。いったい自分の身に何が起こったのか理解出来なかったのだ。ただ、彼女は廊下に這いつくばったまま、自分の太ももから流れ出る赤い血を呆然と眺めた。

 

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