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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第三章

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バトミントンの魔女


 アッシュブラウンのショートヘア。三原麗奈のため息は深い。

 意気揚々と演劇部に顔を出したのは今朝の事だ。てっきり演技練習が出来ると思っていた麗奈は、ジョギングから始まる朝練に早くも挫けてしまい、その後の発声練習は持ち前のよく通る声で何とか乗り切ったものの、待ちに待った演技練習では散々な目にあったのだった。後輩たちの失望の視線。申し訳なさと恥ずかしさで涙が止まらなくなった麗奈は、親友の大野木紗夜と副部長の笹原三波に肩を支えながら、やっと朝の部室を後にしたのである。

 火曜日の一限目は数学だった。黒板に並べられた文字は相変わらず呪文のようだ。グラウンドの並木の青葉を窓越しに見下ろした麗奈は「はぁ」とため息をついた。

 ふっと大野木紗夜の息が麗奈のうなじをくすぐる。クラスメイトたちの明るい声。気が付けば午前の授業は終わっていたらしい。まさかまた夢の中にいるのでは、と慌てて時計を見上げた麗奈は、別段変わった様子のない世界にほっと本日何百回目のため息をついた。

 いったい自分は何をすればいいのか。いったい自分は何処へ向かえばいいのか。

 取り敢えず旧校舎裏にでも行こうかな、と麗奈は一人フラフラと教室を後にした。

 昇降口前は生徒の声でごった返していた。その中でも一際目立つ大場亜香里の燃えるような瞳に恐れをなした麗奈は、すごすごと廊下を引き返していった。そのまま当ても無く、とぼとぼと廊下を歩いていた麗奈の耳に低い振動音が響いてくる。ステージの垂れ幕の奥ならば一人になれるかもしれない。そう思い立った麗奈は、夏風に涼しい渡り廊下を抜けると、体育館の中に足を踏み入れた。

「あ、王子!」

 バトミントンの白い羽が宙を舞う。斜陽に照らされた丁子色の床。広い体育館には大小様々なボールが行き交っており、バスケに熱中する上級生の傍らで青いジャージ姿の女生徒たちがバトミントンに汗を流していた。

「お姉ちゃん、珍しいね」

 三原千夏がオレンジ色のラケットを振り上げる。床を跳ねる白い羽。その羽を拾い上げた姫宮玲華は青いタオルで汗を拭うと、体育館の隅に置かれた水筒を手に取った。

「ねぇ千夏ちゃん、ちょっと休憩しよ」

「おっけー。ほら、お姉ちゃんも」

「えっと……」

 千夏に手を引かれた麗奈はおずおずと体育館の隅に腰を下ろした。一人になりたいのだと、千夏の弾けるような笑顔の前では否定的な言葉を出すのが難しい。玲華から水筒を受け取った麗奈は、その冷たい水を口に含むと、体育館を見渡して肩を落とした。

「王子もバトミントンやろうよ」

「え、ううん、僕やったことないし……」

「大丈夫だよ、だって千夏ちゃんでも出来るんだもん」 

「あたしでもってどういう意味?」

「そういう意味でーす」

「もー!」

 千夏の頬がむくりと膨らむ。そんな様子が何だか可笑しく、麗奈は口に含んだお茶を零しそうになった。

「姫宮さんって、バトミントンとかもやるんだ」

「うん、だってあたしバトミントン部だもん」

 玲華の青いラケットが天井に翳される。

 麗奈は驚いてしまった。この姫宮玲華という女生徒に対して何処か神秘的な印象を抱いていたからだ。まさか彼女にそんな庶民的な一面があったとは、まったくこの世は不思議に満ち溢れている、とそんな新鮮な想いに目を丸めた麗奈は、同時に浮かび上がってきた疑問に首を傾げた。

「あれ姫宮さん、そのなんだっけ、王子なんとか部を作りたいってのはどうなったの?」

「王子様研究部のこと?」

「えっと、うん」

「いずれは作るよ」

「へ、へぇ、何だか随分と軽いね」

「うん、だって焦ってもしょうがないし。そんなことよりも王子、バトミントン部に入ってよ」

「バトミントン部に?」

「三年生が抜けてから部員が足りなくて困ってるんだよね」

 そう言った玲華は本当に困ったような表情で両手を合わせた。長い黒髪がさらりと宙を流れる。そんな玲華の様子が何故だか無性に腹立だしく、水筒を床に置いた麗奈は膝を抱えると唇を歪めた。

「姫宮さんってバトミントンが大好きだったんだ」

「好きっていうか、だって部活だし」

「ふーん、そうなんだ。部活だから大切なんだ。じゃあさ、どうして僕なんかに付き纏ったのかな」

「付き纏った?」

「急に話しかけてきて、勝手に家まで付いてきて、学校でも付き纏って、僕をこんな目に遭わせて、それでその後はほったらかしにして──」

 声が大きくなっていく。抑えきれない感情の渦に麗奈はまた涙が溢れそうになった。

 どうして僕を振り回したのか。どうして僕をこんな目に合わせたのか。どうして僕が苦しんでいるのに自分は涼しそうな顔をしているのか。

 麗奈は無性に腹が立って、自分勝手に振る舞う姫宮玲華を許せないと思った。

「バトミントン部って、ぶ、部活って、バトミントンが好きなら、勝手にやってれば良かったじゃん。僕に付き纏って、ぼ、僕を苦しめて、自分だけ涼しそうで……。最悪だよ。全部、全部、全部、姫宮さんのせいなのに。どうして、どうして姫宮さんは、そんな他人事みたいな顔していられるの!」

 よく通る声が体育館に響き渡る。騒めきがボールの動きを止めると、一瞬、足音の止んだ体育館に夏の静けさが訪れた。

「王子は苦しんでるの?」

 そう首を傾げた姫宮玲華の表情はやはり涼しげだった。罪悪感など微塵も感じていないかのような声色。集まった視線を気にしない彼女は、長い黒髪をさらりと靡かせると、青いラケットのフレームサイドに顎を当てた。

「もう帰る」

 悔しかった。唇の震えが止まらなかった。それでも、麗奈は必死に涙を堪えた。誰の顔も見たくないと、俯きがちに立ち上がった麗奈の腕を玲華が掴む。腕を引っ張られ、バランスを崩した麗奈はそのまま体育館の床にへたれ込んだ。

「苦しんでるの?」

 玲華の漆黒の瞳が、麗奈の栗色の瞳を覗き込む。麗奈の頬を涙が伝うと、麗奈の妹である千夏はオロオロとポケットからハンカチを取り出した。

「答えなさい」

 玲華の黒い瞳に同情はなかった。子を叱る親の厳しさ。麗奈は少し怖くなった。いったいなぜ自分が責められなければいけないのか。訳が分からないと苛立ちながらも、麗奈は、そんな玲華の瞳に何処か懐かしいものを感じた。

「く、苦しいよ……」

「そっか、ごめんね」

 玲華の腕が麗奈の頭を包み込む。甘いフローラルの香り。麗奈は恥ずかしくなった。でも、感情が抑えられず、玲華の体にしがみ付いた麗奈はわんわんと声を上げて泣き始めた。



 昼休みの食堂は生徒たちの声で溢れていた。

 長テーブルの並んだ広間。橙色のトレーの光沢。白い壁が窓から差し込む光に明るい。そんな食堂を賑わす二人の男子生徒の笑い声はもはや日常の光景となりつつあった。

「うわぁ、すっごい。吉田くん、それってすごっく、すっごくレアなカードだよ!」

「おお、やっぱりか。俺もこれが当たった時は思わずヤベェって叫んじまったもん」

 そう叫んだ吉田障子は手に持った一枚のカードを陽光に翳した。ホログラム加工されたドラゴンの炎が紅い煌めきを放つ。

「これで俺も最強になっちまうのか」

「あはは、それはまだまだだと思うよ。でも、凄いなぁ、もしも他のドラゴンカードを集められたら、吉田くん、本当にすっごく強くなると思う」

「へー、他にもドラゴンカードってあるのか」

「あるよ、もし僕が当てたら交換してあげるね」

「お、マジか。頼んだぜ、優斗」

「うん!」

 吉田障子は親指を立てた。そんな彼に向かって藤田優斗は満面の笑みを浮かべた。

 ふっと食堂の空気が重くなる。

 出入り口に影が差したのだ。

 昼食中の生徒たちは慌てて声を顰めた。影を恐れたのだ。ただ一人、友達の手元のカードと彼の言葉に心を奪われていた藤田優斗のみが、その影に気付いていないようだった。

「藤田優斗くん」

 突然名前を呼ばれた優斗は首を傾げる。ハスキーな女性の声だった。誰だろうかと後ろを振り返った優斗の肩がギョッと飛び上がった。スラリと足の長い女生徒が背後に立っていたのだ。

「貴方が藤田優斗くんね」

 凍えるような声だった。夏を終わらせるかのような冷たい声。だが、その瞳の光は対照的だった。優斗は激しい恐怖を覚えた。自分を見下ろす大場亜香里の瞳には灼熱の炎が宿っていたのだ。

「君のお友達をお借りしたいのだけど」

「え……?」

「ちょっとだけ、吉田くんをお借りしてもいいかな」

「あ、は、はい……」

 大場亜香里の口元に笑みが浮かび上がる。額縁の中の花束のような美しい笑みだ。観賞用に生けられた花のような、棺に並べられた花のような、沈黙の美。

 吉田障子はゆっくりと立ち上がった。俯きぎみの彼は大きく唇を歪ませている。それは一見すると笑いを堪えているかのようで、だが、優斗にはそれが苦悩の表情だとすぐに分かった。彼の頬の傷が目に入ったからだ。その傷の意味を考えた藤田優斗は、胸が潰されるような不快感に吐き気を覚えた。

「あ……」

 優斗は立ち上がった。助けなければと思ったのだ。親友を助けなければと優斗は大きく息を吸った。

 だが、声は出てこなかった。



「ねぇ、吉田くん」

「は、はい……」

「君って彼と仲良かったんだ」

「あ、はい。優斗は俺の親友なんで……」

「ふーん、彼の家に行ったことはあるの?」

「あ、あります。アイツの家、めっちゃ広くって……」

「へぇ」

 大場亜香里の瞳に炎が宿る。嫉妬の炎だ。他人の玩具を欲しがる子供の欲望。他人の玩具を壊したがる子供の怒り。

 さぁ、燃やせ。

 吉田障子は堪えた。沸き上がる破壊欲求を。沸々と血管を捻る衝動を。

 さぁ、燃え上がれ。

 吉田障子は必死だった。笑いを堪えるのに必死だった。

 エヴィル・クイーンよ、森に火を放て。

 そう呟いた吉田障子は俯きぎみに肩を震わせた。

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