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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第三章

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本質


「やぁ、三原さんじゃないか」

 そう声を掛けてきたのは生徒会長の足田太志だった。放課後のまだそれほど遅くはない時間帯である。旧校舎裏に現れた彼は既に帰宅の準備を済ませてしまっているようで、ピシッと皺のない制服の袖を捲ったその表情は涼しげだった。

「演劇部はどうしたんだい?」

 爽やかな笑顔だ。

 怖い、と麗奈は身構えた。生徒の存在自体が珍しい旧校舎裏での事である。生徒会長が現れるなど尋常な事態ではないだろう。

 まさか自分が部活に出ているか確認しに来たのだろうか。

 そう考えた麗奈はテスト期間中の自販機前での出来事を思い出して身震いした。眼前に迫るキラキラとした瞳。この足田太志という男もまた荻野新平とは違った意味で恐ろしい。それは姫宮玲華が時折見せるミステリアスな怖さとも、大野木紗夜から感じる根源的な恐怖とも違う、精神的圧迫感からくる恐ろしさだった。

「おや、君は確か吉田くんだね」

 足田太志の視線が麗奈の隣に移る。そろりそろりと鞄を持ち上げた麗奈は、今の内に、と逃げる準備を始めた。

「君も心霊現象研究部の部員だろうに、いくらテストが終わったばかりとはいえ、部活を休むのは宜しく……」

 足田太志の表情が変わった。吉田障子の顔の傷に気が付いたのだ。

「おい吉田くん、その怪我はどうした?」

 吉田障子は答えなかった。少し俯きぎみ背中を丸めたまま、彼は足田太志の顔を見ようともしない。

「あ、あ、あの……!」

 代わりに麗奈が口を開く。この人なら何とかしてくれるかもしれないと、そう麗奈は思ったのだ。その澄み切った瞳の光に縋り付きたいと、その陽気で力強い声に包み込まれたいと、麗奈は勢いよく身を乗り出した。すると、借りてきた猫のように大人しくなっていた吉田障子が声を上げた。

「やめろって」

 苛立ちを隠せないような声だった。麗奈は驚いてしまう。それは先ほどまでの憤怒の暴君が如き態度とも違う、感情を制御出来ない思春期の子供の表情だった。

「じゃあ、俺、もう帰るから」

「おい、待つんだ吉田くん、随分と酷い怪我じゃないか。転んだのか。それとも、まさか誰かと喧嘩したのか。三原さん、いったい何があったんだ」

「え、えっと……」

「だから何でもないってば!」

 不貞腐れたように腰に付いた砂を払った吉田障子の態度はイライラとしたものだった。麗奈と太志は思わず顔を見合わせてしまう。

「なぁ吉田くん」

 立ち去ろうとする吉田障子に向かって太志が声を伸ばした。それは包み込まれるような、温かな大人の声だった。

「君、夏休みは暇だろ。何だったら俺と一緒に演劇部の大会を観に行こうじゃないか。今年も三原さんが素晴らしい演技を披露してくれるんだ」

「ええっ」

 太志の言葉に麗奈の方が驚いてしまう。そんな麗奈を見つめる太志は何やら得意げで、その瞳は何処までも澄み切っていた。

「どうだろう、三原さん。お客さんが増えた方が君も嬉しいだろ?」

「す、少ない方が、嬉しいかな……?」

「あっはっは、またまた、相変わらず君は謙虚だね」

「え、へへ……」

「おーい吉田くん、どうするんだ」

 そのまま立ち去るだろう。そう思っていた麗奈は立ち止まって此方を振り返った吉田障子に驚いてしまう。

「分かった」

 そう小さな声を返した吉田障子は表情が強張っていた。俯きぎみに太志の瞳を見返した彼はすぐに視線を逸らしてしまう。そんな彼に向かって太志は満足そうな笑みを浮かべた。素直じゃない幼馴染に向けられるような、無口な後輩に向けられるような、優しげな微笑みである。

 ほんのりと麗奈の頬が桜色に染まる。

 これは花子さんに相談しなければいけない。そう思い立った麗奈は、何やら足の先が疼くような感覚に胸が熱くなった。



「ねぇしんちゃん、ちょっと妙な話を耳にしたんだけど」

「どうしたよ」

「“正獰会”と“紋天”と“苦露蛆蚓”が手を組んだって噂があるんだ」

「なんだって?」

 鴨川新九郎の金髪が横に揺れた。アップルグリーンのベースケースを背負った長谷部幸平はいつになく深刻そうな表情をしている。

 リハーサルの帰りの事だ。街の一角にあるライブハウスを出た「The・ライト・グリーンキューピッド」のメンバーたちは取り敢えずファミレスにでも寄ろうかと、まだ明るい青空の下を歩いていた。

「しかも裏で手引きしてるのが、あのキザキだって」

「はは、そりゃねーっしょ」

 そう笑った大野蓮也はパープルピンクのギターケースを背負い直すと、噛んでいたガムを道の端に吐き捨てた。山中愛人も大野蓮也に同意するように「愛」のマスクを大きく膨らましてみせる。

「いや、さっき他のバンドの奴らにも聞いてみたんだよ。そしたら、同じような噂を耳にした奴らが何人もいてさ」

「あり得ねーって、キザキとか都市伝説だべ。第一、アイツらが手ぇ組むかよ」

「なんでも、あの野洲孝之助が“正獰会”の総長になったそうなんだ」

「野洲孝之助っていや、翔太郎くんの弟じゃねーか」

 新九郎は少し驚いたような顔をした。野洲翔太郎はかつてこの街を支配していた“愚獰”というチームのリーダーだった男だ。

 野洲孝之助が“正獰会”の総長の座についたというのであれば、三つのチームが手を組む可能性もあるかもしれない。そう考えた新九郎は歩道の真ん中で立ち止まると、細く整えられた眉を顰めた。そんな新九郎の広い肩に大野蓮也が腕を回す。

「別に大丈夫っしょ。所詮は雑魚の集まりよ」

「そうだな。でも、アイツら俺らに恨み持ってるだろうし、ライブ中にでも来られたら厄介だ」

「どうする、しんちゃん。久しぶりにメンバーを集めようか?」

 そう言った幸平はポケットから携帯を取り出した。

「いや、先ずは噂が本当かを俺たちで確かめよう。幸平、奴らが集まりそうな場所は知ってるか?」

 新九郎が太い首を横に振る。携帯を片手に幸平は表情を固くした。

「え、まさかこの五人で乗り込もうって気じゃ……」

「ちょっとアイツらの誰かに話を聞いてみようってだけさ。喧嘩はしねぇから大丈夫だよ」

「でも、危険だよ。“紋天”の早瀬竜司がその場にいたら、きっと問答無用で襲い掛かってくるよ」

「大丈夫だべ。来たら来たで返り討ちにしてやんよ」

 大野蓮也がパープルピンクの髪を振り上げる。「愛」のマスクを外した山中愛人は代わりに「殺」のマスクをポケットから取り出した。

「せめて花子さんに連絡しておかない?」

「部長の手を煩わせる必要はねぇよ。つーか、部長が来たら一瞬で終わっちまうだろうが」

「だな……」

 ドラムの古城静雄は、ふん、と可笑しそうに鼻息を漏らした。新九郎の言葉に思わず幸平も肩の力を抜いて微笑んでしまう。

「まぁ確かに、花子さんの力を借りれば何の問題もないか」

「だぜ、つーかそもそも俺たちは無敵だろ」

「花子さんには負けたけどね」

「あれは人じゃねーからノーカンだべ」

 笑い声が週初めの青空を震わせる。「The・ライト・グリーンキューピッド」のメンバーたちに憂いはなかった。そうして歩き出した五人の影が、落ちていく西日にゆっくりと伸ばされていった。



 吉田障子は髪を掻き分けた。気分が優れなかったのだ。

 荻野新平に殴られた頬がズキズキと痛む。だがそれよりも、先ほど旧校舎裏に現れた足田太志の存在が吉田障子の呼吸を重くしていた。

 寂れた住宅街の一角。雑草の生い茂る公園に集まった三つのチームのメンバーたち。山田春雄が自宅の工場に人を集めたがらなかった為に、集合場所を近所の公園に変えたのだ。別に吉田障子が彼らを集めたわけではない。総会と呼ばれるチームの集まりは頻繁に開催されるものらしい。

 集まったはいいが何かをするわけではないようだ。ただ、めいめいに騒ぐばかりであり、彼らは現状や未来について何一つ考えていないように思えた。そんな彼らに向かって吉田障子は「それでいい」と呟いた。お前たちはそれでいいのだ、と吉田障子は心を冷たくしていった。

「おい、モチヅキ」

 羊の群れに犬が一匹。いつも通りの特攻服姿で、野洲孝之助はその端正な顔を思考に歪めていた。

「これを見ろ」

 手渡されたのは水色のフラットファイルに挟まれた紙の束だ。パラパラと中を流し見た吉田障子は首を傾げる。

「なんだよ、これ」

「心道霊法学会について調べられるだけ調べたんだ」

「はあ?」

「敵の情報は必須だろう」

 そう言った野洲孝之助の眼差しは何処までも真剣だった。吉田障子は思わず吹き出してしまう。この野洲孝之助という男の本質を掴めた気がしたのだ。

 厳格そうに引き締められた表情、視線、身体。隙の見えない純白の特攻服には皺一つない。荒くれどもを一手にまとめ上げ、女性にも手を上げるような男だが、その性格は慎重で潔癖。決断に時間を要するわりに疑り深いというわけではない。計算高いわりにその答えを気にする様子はない。根は臆病ではない。根は大胆でもない。潔癖という以外に彼を示すものはない。いわば本質のない人間。つまり本質を作ろうとしている人間。

 似合わぬことをする男だ、と吉田障子は可笑しくなった。いったい誰の真似事をしているのやら。自分を作ろうと苦悩する野洲孝之助の姿が吉田障子には愉快だった。

「何がおかしい」 

 野洲孝之助は眉を顰めた。怒りの表情である。だが、その瞳に揺れる困惑の色を隠せてはいなかった。

「いや、よく調べたなって」

「お前は調べてなかったのか?」

「弱点以外はな」

「おい、情報は命だぞ。敵の人数、勢力範囲、地理、資産、情報網、作戦。抗争を始めるのであれば敵の全てを知っておかねばならないんだ。まさかお前はそんな事も知らずに、心道霊法学会に無謀な闘いを挑もうとしていたのか」

 野洲孝之助の眉が上がっていく。本物の怒りが浮かび上がってきているようだった。

「なんだよ、まさか野洲クン、自信無くなっちまったのか?」

「自信云々じゃない。ただお前に失望しただけだ」

「はは、まだ始まったばかりだってのに、勝手に失望してんじゃねーよ」

「お前は理想と現実の区別がつかない愚か者だ。信じれば必ず勝つと、ただ無謀なだけだった俺の兄貴と同じ愚か者だ。そんな都合の良い未来は絶対に訪れないんだ」

「兄貴ねぇ」

 吉田障子は左頬に指を当てた。キザキの視線が気になったのだ。二人の会話を見守るキザキの瞳には羊を狙うオオカミの光がチラついていた。

「なぁ野洲クン、情報集めも結構だが、それよりもっと得意な事に精を出してくんねーかな」

「得意な事だと?」

「喧嘩だよ、喧嘩。駅でも居酒屋でもいい、何処か公共の場で心霊学会の奴らと乱闘騒ぎを起こしてくれ」

 そう口を横に広げた吉田障子は拳を振る仕草をした。

「ちょ、ちょっと待て、まさかお前そんな小競り合いで学会を潰すつもりなのか?」

「学会は潰さねぇって、仲良く手を取り合うって話を前にしたじゃねーか」

「じゃあなぜ喧嘩をしろなどと。第一、あいつらが喧嘩に乗ってくれるとは思えん。もし警察が動けば、不利になるのは絶対にこちらだ」

「だろうな、だからなるべく手は出すな。煽りまくって手を出させろ。まぁそんな器用な事が出来るとは思えねーけどよ」

「マスコミは動かんぞ」 

 そう声を出したのはキザキだった。途端に野洲孝之助の表情が強張る。

「そちらの大将が言う通り、騒ぎを起こして不利になるのはコチラだ」

「いいや、今後騒ぎを起こして不利になるのはアチラさ。予想してたよりも舞台の動きが早ぇんだ」

「マスコミは動かん。動くのは警察だけだ」

「動くさ、マスコミは否応なしに動き始める」

「動かんよ、俺たちではマスコミは動かせん」

「ああ、だからマスコミを動かせる人物を動かすんだ」

 その言葉にキザキは腫れぼったい瞼を細めた。そうして、ゆっくりと目を見開いていったキザキの唇が微かに横に開いた。

「そういう事か」




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