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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第三章

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白雪姫


 野球部たちの野太い声が青空を震わせる。その声に負けじとサッカー部たちがグラウンドで汗を煌めかせた。風に揺れるヤナギの青葉。体育館裏はいつも通り日陰に涼しい。放課後の旧校舎は静かだった。

 旧校舎裏の石段に腰掛けた吉田障子はハンカチで口を押さえたまま荒い呼吸を繰り返した。その隣に腰掛けた三原麗奈は恐る恐る鞄を下ろす。吉田障子の目の色が怖かったのだ。浅い呼吸を繰り返す彼の瞳は灼熱の業火にギラついていた。

「だ、大丈夫……?」

 可笑しな話だと麗奈は思った。自分の身体を怖いと思うなど。だが、麗奈にはもはや、目の前の彼が他人だとしか思えなくなっていた。

 独りよがりで自信家な男子生徒。吉田障子が顔を歪めると、三原麗奈はオロオロと自分の鞄から水筒を取り出した。既に下校の準備は万端である。帰る前に姫宮玲華と話がしたいと、麗奈は一年B組に顔を出したのだ。

「ほ、ほら、水だよ!」

 三原麗奈は努めて明るい声を出した。怖くなどないと、照れ臭さなど感じてないと、麗奈はふふんと息を吐いてみせる。

 吉田障子はギラつく瞳を三原麗奈に向けた。彼もまた自分の感情に困惑していたのだ。それは怒りを超えた感情だった。小さな世界を守りたいというささやかな想いではない。何もかも破壊したいという激情。

「おい」

 血に濡れたハンカチの奥から声が漏れる。野良犬の唸り声のような低い音だった。

 麗奈は肩を震わせた。怖かったのだ。だが、麗奈は気張った。何でもないよとでも言うかのように、自分の見知った世界を守ろうと、満面の笑みを浮かべた麗奈は首を横に傾けた。

「う、うん?」

「お前さ、何で笑ってんの」

「え……」

「何を笑ってんだって、聞いてんだよ」

 破壊衝動が抑えられない。吉田障子は浅い呼吸を繰り返した。沸々と血が肉を捩る。これほどか、と吉田障子は自身の心に恐怖を覚えた。これほどの変化か、と吉田障子は自身の体に苦悩した。

 いや、やることは変わらない。むしろ、出来ることが増えた。

 吉田障子は風に流れるシダレヤナギの枝を見つめた。心を落ち着かせようと深い呼吸を意識する。ただ壊す為の破壊ではない。守る為の破壊だ。創造に繋がる破壊でなければ意味がないのだ。舞台の上のストーリーだけは壊してはならない。

 ハンカチを下ろした吉田障子は左頬に薬指を当てた。そして彼は隣の女生徒に視線を送る。この純粋無垢な笑顔を壊したい。変わらぬ世界を信じるこの処女の身体を汚したい。そんな感情を胸の奥底に押し潰した吉田障子は唇を横に広げた。そうして冬の夜空の冷たさを瞳に浮かべた彼は肩をすくめた。

「はは、冗談だって」

「え……?」

「まさか麗奈ちゃん、ちょっとビビってる?」

「ビ、ビビ……?」

「そんな震えんなって、俺は麗奈ちゃん一筋だからよ」

「ビ、ビビってないけど!」

 麗奈のローズピンクの唇がくわっと縦に開かれる。同時に、麗奈はほっと息を吐いた。吉田障子の顔にいつもの表情が戻ったのだ。その澄ましたような表情に、麗奈はやれやれとした微笑みを浮かべた。

「本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だって、キチガイの攻撃なんか効かねーよ」

 そう言うが否や吉田障子は頬を押さえながら呻き声を漏らした。麗奈は慌てて水筒を手渡す。

「と、取り敢えず保健室に行こうよ」

「だから大丈夫だってば」

「ねぇ、どうしてそんなに無理するの。あの人が襲ってきたの、これで二回目だよ。警察に通報しないとダメだよ」

 声の震えを抑えようと麗奈は手を握り締めた。荻野新平の野獣のような眼光を思い出したのだ。

「大丈夫だっつの。つーか誰にも言うんじゃねーぞ」

「負けたのが恥ずかしいから?」

「ちげーよ、言わない事に価値があるからだ」

「価値?」

「そう、だから絶対に警察には通報するな」

 吉田障子の口元に冷たい笑みが浮かび上がる。言葉の意味が理解出来なかった麗奈は「へぇ」と曖昧に首を傾げてみせた。

「ただ、あのキチガイだけは早く何とかしねぇとな」

「う、うん。また襲われたらヤバいもんね」

「俺は大丈夫だよ。ただ、もし麗奈ちゃんが襲われたらってさ」

 その言葉に麗奈はゾッとうなじを逆立てた。

「や、やっぱり警察に……」

「麗奈ちゃん、これ持ってろ」

 そう手渡されたのは手のひらサイズの黒い物体だった。一見するとトランシーバーのようなそれは見た目よりも軽く、黒い本体の先は幅の広いY字型となっている。

「何これ?」

「改造スタンガンだよ」

「は……?」

「護身用の武器さ」

 さも当たり前の事のようにそう言った吉田障子は水筒の水を口に含んだ。危うく渡されたそれを落としそうになった麗奈は、身を屈めるような仕草でスタンガンを膝下に隠すと、辺りを見渡した。

「ちょ……!」

「麗奈ちゃん、それ、肌身離さず持っとけよ」

「な、なん……」

「俺のダチにそういうのが好きな奴がいんだよ。いつも黒いつなぎ着ててな、はは、それはソイツから借りたんだ」

「ど、どうして……?」

「いいか麗奈ちゃん、自分の身は自分で守れ」

 そう言った吉田障子の目はいつになく真剣だった。

 自分の身は自分で守れ。もしかするとその言葉は自分自身の身体を案じた三原麗奈本人の言葉かもしれない。その事に気が付いた麗奈はスタンガンを鞄の奥に隠した。そうして麗奈は、吉田障子の瞳を正面から見返した。

「あ、あの、もしかして何ですけど……」

「なんだよ」

「もしかして、あの、その、あなたが……」

「だから、なんだよ」

「あ、あなたが三原麗奈さん、なんじゃないですか……?」

「はあ?」

 吉田障子の片方の眉が持ち上がる。本当に困惑しているような表情だった。

「そ、そのですね、僕、本当は三原麗奈じゃなくって……。そ、その、ぼ、僕……本当は、その、吉田障子で……」

「へぇ?」

「ぼ、僕、気が付いたら、こ、この身体になってて……。それで、気が付いたら、僕の身体が目の前にいて、それで……」

「ほぉ?」

「そ、その、い、入れ替わってるんじゃないかって、その、う、噂が……」

 徐々に麗奈の声が萎んでいく。あまりにも突拍子のない話に恥ずかしくなってしまったのだ。吉田障子の憐れむような視線が痛い。顔を赤くして下を向いた麗奈は、夢なら早く覚めてくれ、と神に祈り始めた。

「麗奈ちゃん、もしかして疲れてる?」

「つ、憑かれてなんていません!」

「はは、入れ替わってるねぇ」

「ど、どうなんですか……?」

「どうなんですかねぇ」

 そう肩をすくめた吉田障子は何処か惚けたような顔をした。その表情に先程までの困惑の色は見えなかった。

 いったいどういう反応なんだと麗奈の方が困惑してしまう。入れ替わっていないのであれば、はっきりとそう否定すれば良いだろう。また、入れ替わっているであれば、互いに互いの不幸を嘆き合えるではないか。

 何故そんな曖昧な返事をするのか、麗奈には理解出来なかった。

 ──麗奈さんは計算高いんだ。役者なんだよ。その行動には必ず意味があるんだ──

 先日の徳山吾郎の言葉を思い出した麗奈は紺色の鞄に視線を落とした。いったい何故、改造スタンガンなどという危険な物を渡してきたのか。こんなもの扱えるわけがない。防犯ブザーの方がずっとマシである。それに、本当に身の危険が迫っているというのであれば、さっさと警察に通報すればいいだろう。

「おーい、言わねぇと分かんねーぞ」

 黙り込んでしまった麗奈の様子を見兼ねてか、吉田障子は軽く首を傾げてみせた。大人しい後輩に向けられるような視線である。麗奈は少しムッとして、意味もなく鞄に付いた砂を払い落とすと、シダレヤナギの青葉を仰ぎ見た。

「言っても答えないじゃん」

「はは、拗ねんなって、また今度ちゃんと教えてやるからよ」

「意味分かんないよ。入れ替わってないなら入れ替わってないって、早く答えてよ」

「解決策が分かんなきゃ、答えても意味ねーだろ」

「で、でも、一緒に考えたりは出来るよ?」

「何を一緒に考えんだよ。シャワーの浴び方か。それとも、お手洗いの仕方か。百歩譲って身体が入れ替わってたとして、そんな話、異性には絶対にしたくないぜ」

「う……」

「んな事よりも差し迫った問題があんだろ」

「な、なに……?」

「荻野新平とかいう、あのキチガイの件だよ」

 そう言った吉田障子の顔がまた真剣になる。「はぁ?」と麗奈は眉を顰めた。

「ねぇ、もし本気でそれを差し迫った問題だって考えてるならさ、早く警察に通報しようよ」

「だから警察は無しだって、聞き分けのねぇ女だな」

「なら、なんで無しなのか、ちゃんと説明してよ!」

「通報しても警察は動かねぇ可能性があんだよ」

「え?」

「たぶん上で揉み消されちまうからよ」

「そ、そんな……」

 そんな漫画みたいな話があるのか、と麗奈は半信半疑に目を細めた。だが、いくら目を細めた所で、麗奈には確かめようのない話である。

「じゃ、じゃあどうするの……?」

「そうだな、やっぱ話し合いしかねーだろ」

 そう呟いた吉田障子は遠い目をしてみせた。全くもって平和的な解決案である。麗奈はますます困惑してしまい、もしかするとあのスタンガンはプラスチックの玩具だったのではないか、と鞄の中に漁り始めた。

「なぁ麗奈ちゃん、麗奈ちゃんの方からお願いしてくんねーか?」

「えっと、誰に……?」

「八田英一先生にだよ」

「どうして?」

「荻野新平の上司だからさ。狂犬もご主人様には逆らえねぇんだ。それと、万が一の為に睦月花子と姫宮玲華にも助けを求めてくれ、あの二人が側にいねぇと不安で話し合いになんねーよ」

「わ、分かったよ」

「頼んだぜ麗奈ちゃん、そんで一緒に幸せになろうぜ」

 弾けるような笑みである。一緒に幸せになろうなどと、まるでプロポーズではないか。気恥ずかしさと共に何やら怒りに似た不快な感情を覚えた麗奈は視線を落とした。そんな麗奈に、吉田障子は一瞬怪訝そうな顔をする。

「どうかしたか?」

「別に……」

「別にじゃねーよ。言わなきゃ分かんねーって、さっきも言ったじゃねーか」

「何でもないってば。ただ、凄いなって思っただけです」

「凄い?」

「プレイボーイだなって。ねぇ、どうしてそんなに自信満々なの?」

 シダレヤナギの細い枝が地面を撫でる。見知った光景である。ただ、以前とは状況が違う。今の麗奈は華やかな女性の身であり、そして隣に座った自分の身も、かつての陰気な自分ではないのだ。

 吉田障子は左頬に指を当てた。そうして真顔となった彼はゆっくりと息を吐いた。

「演じてるだけさ」

「演じてる?」

「そう、麗奈ちゃんみてーな世間知らずの処女ならよ、軽い演技でコロッと騙せちまうんだ」

「へ、へー、じゃあ、あの有名な大場亜香里さんも、君の演技で騙しちゃってるってわけですか」

「麗奈ちゃん、もしかして怒ってる?」

「怒ってません。ただ、あんな美人を掴まえられるなんて凄いなって思っただけ!」

 そう言葉を吐き捨てた麗奈は奥歯を噛み締めた。いったい何故こんなに腹が立つのか。男の頃には覚えのないその感情を言葉にするのは難しかった。そんな麗奈に向かって吉田障子はやれやれと肩を落とした。

「別に掴まえちゃいねーって」

「で、でも、興味は持たれてるよね」

「ああ、そう誘導したからよ」

「誘導?」

「あの女は異様に嫉妬深いのさ。だからすぐ他人の物を欲しがるんだ」

「えっと……」

「特に嫌いな奴の物なんかは根こそぎ奪っちまう。たとえ嫌いな奴が弱っていようとも、あの女は容赦しねぇ。むしろ嬉々として強奪しちまうのさ」

「そ、その嫌いな奴って、もしかして僕のことだったり……」

 大場亜香里の燃え上がるような瞳を思い出した麗奈は軽く身震いする。束の間、腹を抱えて笑った吉田障子はそのまま話を続けた。

「あれは理想的な女だぜ。あれほどいい女は中々いねぇよ」

「へぇ……」

「なぁ麗奈ちゃん、白雪姫って知ってるか?」

 そう尋ねた吉田障子はまた左頬に指を当てた。

「知ってるけど」

「大場亜香里はな、俺にとっての白雪姫なのさ」

「へ、へぇ……」

 それはそれは随分とお熱な事で、と心の中で言葉を吐き捨てた麗奈は石段の隅に生えていた雑草を抜き始めた。

「あの女は小人たちへの贈り物になるんだ」

「へ?」

「そして、醜い王子を誘き寄せる花にもなる」

「えっと……」 

「それだけじゃねぇぞ、なんとあの女は邪悪な魔女にもなれるんだ」

「邪悪って……?」

「嫉妬に狂って毒リンゴを渡すだけの小物じゃねぇ、あの女は森に火を放つエヴィル・クイーンだ。本当に邪悪で魅力的な女なんだよ!」

 そう語る吉田障子の瞳にはキラキラとした冬の星々が瞬いていた。いったい何を言っているのか、麗奈には全く理解出来ない話である。ただ、そんな彼の無邪気な様子が可笑しくなり、引き抜いた雑草を地面に置いた麗奈は、クスリと小さな笑みをこぼした。


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