魂の行方
「これまた曖昧過ぎる質問じゃの」
戸田和夫は肩をすくめた。
斜陽が体育館の床を丁子色に明るく照らしている。二階の窓の向こうは何処までも広い青空だ。
「人の定義は何かって聞いてるの!」
青いラケットが空を切る。もう、と玲華は腰に手を当てると、背の高い老人を睨み上げた。
「定義じゃと?」
「そう、あたしたち魔女の間での定義だけどね」
「ふむ、人の定義か」
戸田和夫の瞳に少年の煌めきが宿る。したり顔となった玲華は「おほん」と軽く咳払いをした。
「さて問題です。人を定義するものは、肉体か魂、果たしてどちらでしょう?」
「精神じゃな」
「もー、肉体か魂だってば! 精神は生成物みたいなものだから違いまーす!」
「ほぉ、生成物みたいなものとな。何故じゃ?」
「じゃあ逆に聞くけど、精神が人の定義だって言うんなら、まだ精神が未熟な赤ちゃんはどうなるの?」
「未熟じゃろて人じゃろ」
「じゃあ、脳が死んで精神活動を止めちゃった人は?」
「うーむ……」
「例えば、まだお腹の中にいる赤ちゃんは? 脳が発達してなくて、まだ精神が生まれてない赤ちゃんは人じゃないの?」
「ふむ、では、お主らの人の定義とやらは肉体か?」
「ぶっぶー! 正解は魂でした!」
そう赤い唇を尖らせた玲華は胸の前でバッテンを作った。
「魂こそが人か」
戸田和夫は何かを思案するように腕を組んだ。その視線は二階の窓に向けられている。
「うん。だってさ、肉体って曖昧じゃん。お腹の赤ちゃんも何処からが人なのかよく分からないし、例えば五体満足の肉体を人の定義だとした場合、手足が無い人は定義から外れちゃうのかとか、もういっそ脳みそ以外を全て代用品に変えちゃったとして、脳みそだけで生きている人は果たして人として定義されるのかとか。肉体を人の定義とするのは難しいんだよ」
培養液に浮かんだ人の脳みそを想像した八田英一は軽く身震いする。
「そもそも魂とはなんじゃて?」
二階の窓から玲華に視線を戻した和夫は首を傾げた。
「魂は生命体だよ。魂は肉体より先に生まれて、肉体より後に死ぬの」
「魂が死ぬじゃと?」
「そう。死というのは、肉体の死ではなく魂の死を示すの」
玲華の声色が変わっていく。その別人のような低い声に唖然とした英一と千夏は顔を見合わせた。
「じゃが、それならば霊の存在はどうなる?」
「霊は人。死にかけた人」
「ほぉ、霊が人とな。では、お主ら魔女にとっての肉体とはなんじゃ?」
「肉体は器です。私はよくそれを陸地に例えます。魂は肉体という陸地の上で生活を送る生命体なのです」
「陸地のぉ」
「魂は肉体がなければ生きていけません。人が陸地以外では生きていけないのと同じように。もし陸地が無くなれば、人は絶滅してしまうでしょう。人は、海の中では生活できないのです」
「ふーむ、面白い。クールレディよ、魂にとっての肉体の死は、人にとっての陸地の消失に等しいというわけか」
「そうです。ですから、肉体が死んでも、魂はすぐには死にません。海に落ちた人が生に縋るように、肉体を失った魂もまた生に縋るのです」
「じゃが、いずれは死んでしまうの」
「はい。泳ぎの下手な人などはすぐに死んでしまいます。稀に、長い時を泳ぎ続ける人もいますが、やがては死んでしまいます」
「なるほどの、つまり転生者とは、次の陸地に上手く辿り着けた者を指すのか」
「運良く、という言い方が正しいでしょう。陸地は見えぬものであり、また、環境に適応でき得る新しい陸地でなければならないのです」
「新しいとは、つまり赤子か?」
「そうです。そして、環境とは精神のこと。通常、精神の未発達な赤子以外の肉体には転生出来ません。ですので、人の転生は非常に稀なのです」
「じゃが、お主ら魔女には次の陸地が見えておると?」
「はい。そして、私たちは泳ぎ方を知っている」
「あの、先生……」
オレンジ色のラケットが持ち上がる。片手を上げた千夏の態度はおずおずといったものであり、その栗色の瞳は玲華に向けられていた。
「大人になれば、お化けには取り憑かれないんですか?」
「取り憑かれますよ。寄りかかられる、という表現が正しいのかも知れませんが」
「ええ! じゃ、じゃあ、油断してたらお化けに食べられちゃうの?」
「食べられる?」
「だってだって、お化けも、死にたくないよーって、他の人の体を乗っ取ろうとするんでしょ?」
「ああ、ふふ、あはは。そうですね、お化けも生きる為に必死ですからね」
「ひぃ」
「でも、大丈夫です。先ほども言ったように、精神の発達した肉体には誰も転生できないですから。精神というのは、いわば魂の生存環境。魂の誕生と共に肉体が作られ、それに合わせて精神が育っていく、やがて生命と陸地と環境は切っても切れない関係に結ばれ、他者の侵入を拒むようになるのです」
「えっと……?」
千夏は目を丸めた。大丈夫だと笑う玲華の説明がよく分からなかったからだ。ベースボールキャップのつばを握り締めた戸田和夫も、思案顔に目を細めていた。
「その説明はちと曖昧じゃの」
「どの辺がでしょうか?」
「赤子とは言っても精神の発達は人それぞれじゃろて、それに、精神が未発達な大人もおる。例えば精神を病んだもの、意識障害により精神を失ったものはどうなる?」
「そうですね、例えば植物状態の人への転生は難しいでしょう。浮いたり沈んだりと、陸地が不安定な状態にありますから。赤子の精神発達は人それぞれだと言われましたが、それに関してはその通りです。転生の有無は、年齢ではなく精神の発達具合により決まるのです」
「お主、先ほど魂は肉体の後に死ぬと申しておったが、魂が先に死んでしまう事はあり得んのか?」
「あり得ます。ただ、それは例外です。通常ではあり得ない為に、そのパターンを説明することは難しいです」
「では、肉体の死とはどの段階を指す?」
「肉体の死に段階があるのですか?」
「例えばコールドスリープというものがある。肉体を氷漬けにして遠い未来に残すという試みじゃ。現代の技術ではちと困難だそうじゃが、近い将来このコールドスリープが一般的となり得るやもしれん。さて、クールレディよ、この氷漬けにされた肉体は果たして肉体の死と言えるのか?」
「言えるのでは、ないでしょうか」
「では、コールドスリープの最中に、魂の方が先に死んでしまうという事か?」
「そうなんでしょうか?」
そう首を傾げた玲華の赤い唇が半開きになる。戸田和夫はやれやれと無精髭を撫でた。
「質問しておるのは我じゃよ。まあよい、魔女の定義とやら、なかなかに面白かったぞ。肉体と共に魂が生まれて、肉体と共に魂も死ぬか。つまり人口の増減は自然な事だったんじゃな」
「肉体より先に生まれて、肉体より後に死ぬ、が正しい表現です」
「転生とやらが例外ならば、似たようなもんじゃろて。ふーむ、じゃがそうなってくると、やはり転生を繰り返すヤナギの霊の異質さが際立ってくるのぉ……」
「異質ではありませんよ。何故なら魔女である私がヤナギの霊なのですから」
「千代子自身に何かあったのか、もしくはここに何かあるのか。やはりヤナギの霊と直接会って聞いてみるより他ないか」
「おほん、おほん。さあ、どうぞ何でも聞いてみてください!」
「あの人とも、もう一度会って話をせなばならんの。十数年ぶりじゃが、我のことを覚えておってくださるじゃろうか」
「ねぇ、聞いてるの? ヤナギの霊なら目の前に居るよ?」
「いいや、先ずは勘違いの有無を確認せんと。早く五人目のヤナギの霊と対話せねば」
「だからここに居るってば! あたしが五人目のヤナギの霊だもん!」
「イングリッシュボーイよ、お主、何か心当たりはないか?」
「むー!」
「え……?」
突然話を振られた八田英一は言葉に詰まった。
「ヤナギの霊に心当たりはないかと聞いておるんじゃ」
「ヤナギの霊、ですか……?」
「あたし、知ってるかも!」
千夏の栗色の瞳が夏空の煌めきを放つ。「なんじゃ?」と腕を組んだ戸田和夫は、何ら期待していない様子だった。
「それ、きっとあたしのお姉ちゃんだよ!」
「か、まさかお主、ムーンレディのことを言うておるのではあるまいな? それならば前に会うて確かめたじゃろて」
「でもお姉ちゃん、いっつも自分のこと王子って言ってるよ? 王子ってヤナギの霊の口癖なんだよね?」
「ふーむ、まぁ、確かにそうじゃが」
「三原麗奈の口癖が王子?」
そう呟いた玲華の表情には先ほどまでの清艶な雰囲気は漂っていない。ただ、赤い唇を閉じた玲華は思案に暮れているようだった。
「玲華先生、お姉ちゃんを知ってるの?」
千夏の黒い髪が横に流れる。真夏の白光がオレンジ色のラケットを煌めかせると、開け放たれた体育館の扉の向こう側が、ガヤガヤと賑やかになっていった。
「うん、王子だからね」
「やっぱりお姉ちゃん、王子だったんだ!」
「お姉ちゃんがじゃないよ、三原麗奈が王子なんだよ」
「それってお姉ちゃんが王子だってことでしょ?」
「ううん、王子が王子なんだよ」
「お主ら、頭大丈夫か?」
そう眉を顰めた戸田和夫の表情は若者言葉に困惑する老人のように不安げであった。同様に、怪訝そうな顔をした英一が口を開く。
「三原麗奈さんがヤナギの霊だって、君たちはそう思ってるんだね?」
「うん!」
「ううん」
女生徒たちの黒髪がそれぞれの方向に流れる。英一は助けを求めるように、戸田和夫の向かって首を捻った。
「戸田さん、千夏さんのお姉ちゃんはご存知でしょうか?」
「知っておるが、なんじゃ? お主もあの娘がヤナギの霊だと疑っておるのか?」
「私個人ではなく、心霊学会が疑っているのです」
「学会がじゃと? ならば何故、お主らは動いておらん?」
戸田和夫の言葉に、英一は虚を衝かれた。確かに少し不自然だと思ったのだ。
「いえ、動いてはおりますよ……? 初めは大掛かりな捜索を致しましたし、私を含めた幹部数人がこの学校に入っております。ただその、我々のことを良く思っていない教師がここには多数おりまして、ですから、その、今はあまり動けない状況にあるのです」
「か、あり得んわい。八田先輩がその程度で躊躇するはずなかろうて。……まさか彼奴、またあの病気を発症しておるのではあるまいな」
「病気ですって?」
「ああ、お主の父親はの、まっこと良くない持病を心に抱えて生きておるんじゃ」
「は、初耳です。いったい父はどんな病を……?」
「チンケな病じゃよ。お主が気にする必要はない」
「ですが、私の父のことですので……」
「よいて。だいたい歳を取ればの、体の衰えと共に病の一つや二つは抱え込むもんじゃて。まぁ彼奴の場合、元気過ぎるがゆえの病なんじゃろうが」
「それは、いったいどういう……?」
「聞かずともよいと言っておるじゃろが!」
戸田和夫の怒鳴り声が体育館に響き渡った。激しい怒りである。その怒気に、体を硬直させた英一は慌てて視線を下げた。
「先生、どうしたの……?」
千夏が声を震わせる。ベースボールキャップを深く被り直した和夫は、ふぅと深く息を吐いた。
「いや、サマーガールよ、突然怒鳴って済まんかった。いやはや、ふっはっは、なんでもないわい」
普段通りの笑みが戸田和夫の口元に浮かび上がる。ほっと頬を緩めた千夏は眩い夏空の笑みを老人に返した。
「ねぇねぇ、話を戻したいんだけど」
「なんじゃて?」
「三原麗奈の口癖が王子って、千夏ちゃんそれ本当なの?」
「うん、本当だよ!」
「ふーん……」
多少の不穏な空気など玲華にとっては何処吹く風らしい。その不満げに突き出された赤い下唇に、戸田和夫は思わず苦笑した。
「なんじゃ、クールガールよ。お主もムーンレディが怪しいと思うておるのか」
「クールレディ!」
「もしもムーンレディが五人目のヤナギの霊ならば、お主が頭のおかしな村娘じゃと、証明されてしまうのぉ」
「されないもん! あたしは三原麗奈が六人目のヤナギの霊じゃないかって疑ってるの!」
「六人目じゃと?」
「そう、ヤナギの霊は二人いる可能性があるの。あたしはずっとそれを探してるの」
「何を馬鹿な。千代子の生まれ変わりが二人もいる筈なかろう」
「うん、普通ならあり得ないよ。でもこの学校には王子もいるからさ、千代子と王子の深い業が、互いの時点を繋げちゃってるんだよ」
「全く意味が分からん。第一、お主はサマーガールと同い年じゃろ。お主の方が年下なんじゃから、たとえ百歩譲っても三原麗奈の方が五人目じゃろて」
「そこはどうでもいいでしょ! とにかく三原麗奈は怪しいの!」
「怪しいも何も、三原麗奈がヤナギの霊でない事は既に我が確認しておる。我の瞳を見つめる彼奴の瞳の動きは、ヤナギの霊のそれでは無かったわ」
「だって今の三原麗奈は、王子なんだもん」
「まーたこの村娘、訳の分からん事を言い始めよった」
「むー! 王子と三原麗奈は入れ替わっちゃってるの!」
「なんじゃて……」
「何故か分かんないけど、二人は入れ替わってるの! だから、今の三原麗奈の器には王子が入ってるの!」
「おいさっきからその王子とやら、いったい誰のことを言っておる?」
「クラスメイトの吉田くんだけど」
「お主、その話……」
その時、鋭い音が扉の外から響いてきた。木を叩き割るような軽快な音だ。どうやら複数の生徒が渡り廊下の木板を歩いているらしい。ガヤガヤとした生徒たちの声が体育館の中を木霊し始めると、英一は肩を跳ね上がらせた。
「と、戸田さん! すぐにお帰り下さい!」
「なんでじゃ?」
「ここは部外者に厳しい学校なんです!」
「ならば、サマーガールの保護者だと説明すればよかろうて」
そう言った戸田和夫は自信ありげに胸を張った。皺だらけの衣服から放たれた異臭が辺りを漂う。
「……たぶん、すぐに警察を呼ばれるかと」
英一は言葉を濁した。その格好で保護者は無理があると、伝えづらかったのだ。
重なり合う生徒たちの声。夏の午後の日差し。
ふっと戸田和夫は笑みを溢した。
そうして「どろん」と指を結んだ和夫は、老人は思えぬような軽快さで身を翻すと、舞台袖の奥へと走り去っていった。




