魔女の定義
「久しぶりじゃの」
そう微笑んだ老人は白髪の混じった無精髭を親指で撫でた。皺の寄った衣服。赤黒く変色したベースボールキャップ。その帽子のつばが老人の目元に薄い影を落としている。街を徘徊する浮浪者といった体だ。英一は、学校に不法侵入したであろう背の高い老人に対して強い警戒心を抱いた。
「先生!」
ぱあっと千夏の瞳が青い夏空の煌めきを見せる。英一は慌てて千夏の二の腕を掴んだ。
「待つんだ、三原さん!」
「え?」
「こっちに来なさい!」
「せ、先生、どうしたの? あ、もしかして先生が恋してるのって……。きゃっ、そんな、ダメだよ。いひひ、生徒に二股なんて禁断過ぎるよ」
「こ、こんな時に揶揄うんじゃない!」
頬を真っ赤に染めた英一は肩を怒らせた。あたふたとした動作である。老人はやれやれと肩を落とした。
「まるで少年の頃のままじゃな、イングリッシュボーイよ」
英一の動きが止まる。老人の言葉に聞き覚えがあったのだ。遥か昔の記憶。青春の一ページが風に吹かれる。消えかかった思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡ると、英一は、老人の顔を見上げて目を細めた。
「戸田さん……?」
「いかにも」
戸田和夫はベースボールキャップを外した。目元に刻まれた皺。禿げ上がった頭が夏の白光に照らされる。
英一は唇を歪めた。寂しさが胸の奥を渦巻いたのだ。かつての面影は見当たらない。少年時代の英一が憧れた紳士はもういない。そこに立っていたのは、錆びれ草臥れた一人の老人だった。
「戸田さん、お久しぶりです」
「ふはは、イングリッシュボーイよ、大きゅうなったわい」
「はは、もうボーイという歳ではありませんよ」
「何を、まだ20そこそこの若造じゃろて」
「いえ、自分は今年で30になります」
「む、そうだったか……。ふーむ、そうか、我がこの街を離れてから、はや十六年以上の時が経つのか。いやはや、ふっはっは、そうかそうか、それでもお主、まだ我の半分も生きておらぬではないか。まだまだお主はボーイじゃよ」
そう笑った戸田和夫は片目を閉じてみせる。英一は苦笑した。見た目は年老えども、戸田和夫の瞳からは少年の眩い煌めきが消えていなかったのだ。
「あー! あの時の変なホームレスだ!」
姫宮玲華の透き通った声が英一の隣をすり抜ける。青いラケットを前に掲げた玲華は憤っているようだった。
「また会ったな、クールレディよ。それにしても、変なホームレスとは酷い言われようじゃわい」
「ホームレスは侵入禁止! 今すぐここから出て行きなさい!」
「むむ、お主それ、今日びギリギリの発言じゃぞ? そもそもお主に我を追い出す権限などないわ」
「あるもん! この学校はヤナギの霊であるあたしのテリトリーだもん!」
「まーだそんな戯言を抜かしておるのか。何度でも言ってやるがの、お主はヤナギの霊ではないわい」
「むー!」
「ちょ、ちょっとお待ちください」
額の汗を拭った英一が口を挟む。その瞳は激しい動揺に揺らめいていた。
「戸田さん、色々と聞きたいことはあるのですが、その、まず初めに、今の話は本当ですか?」
「何の話じゃったか?」
「彼女が、ヤナギの霊ではないと言う話です」
「ああ、本当じゃよ。此奴は自分をヤナギの霊だと思い込んどる頭のおかしな村娘じゃ」
「むー!」
「そ、そうでしたか……」
戸田和夫の言葉に英一はほっと眉を開いた。
白い羽が舞い上がる。振り上げられる青いラケット。今や玲華の頬は赤い薔薇よりも深い真紅である。「てやぁ」と勢いよく振り下ろされたラケットが何も無い宙を切り裂くと、白い羽は重力に逆らうことなく玲華の頭に落下した。
「ねぇねぇ先生、どうやってここに来たの?」
そう首を傾げた千夏の瞳は夏空よりも眩しい栗色の光を放っていた。
「ふっふっふ、抜け穴じゃよ、サマーガールよ」
「抜け穴ですって?」
英一は目を丸めた。そんな英一に向かって戸田和夫は無邪気なウィンクを飛ばす。
「お父さんには内緒じゃぞ」
「お父さん? いや、まさか僕の父の事ではないですよね?」
「それ以外に誰がおる」
「な、何故でしょうか?」
「何故ってそりゃあ、お主の父が嫌がるからじゃよ。我も抜け穴は埋められたくないでな」
「嫌がる? いえ、貴方と父の確執は当然知っておりますが……」
「確執じゃと? はぁ、やはりお主はまだまだボーイじゃの。主の父は、この学校に我が近付かぬようにと、あの仰々しい門を構えたんじゃろて」
「な、なんですって……? あれはヤナギの霊対策ではなかったのですか……?」
「おいおい、回転扉でどうヤナギの霊を対策するというんじゃ」
「そ、そうですが……」
英一は開いた口が塞がらない様子である。戸田和夫はやれやれとベースボールキャップを被り直した。
「我もこんな歳じゃて、もうここに侵入する事はないと思っとったわ。じゃがの、ちと気掛かりな事が出来てしまってな、どうしてもまたヤナギの霊と会って話しをせねばならぬと、ここに足を踏み入れた次第なんじゃわ」
「ヤ、ヤナギの霊と対話ですか……」
「ああ、そうじゃ。どうにも彼奴ら、盛大な勘違いをし続けておるような気がするんじゃ」
「勘違い……?」
「万が一にもその疑いが正しかったとすれば、もはやこれは取り返しの付かん悲劇じゃて、我もあの人に顔向け出来んようになってしまうわい」
戸田和夫は深いため息をついた。少しずつ傾いていく西日がベースボールキャップのつばを白く照らす。
「聞いてあげてもいいけど?」
青いラケットの先が老人に向けられる。ふん、と腰に手を当てた玲華の表情に先程までの激しい怒りは見えない。秋空が如き感情の移り変わりである。肩を落とした戸田和夫は首を横に振った。
「お主に話した所で誤解は解けんて」
「むー!」
「元よりお主には分からん話じゃよ。山本千代子の機微はヤナギの霊本人に聞くより他ない」
「だーかーら、あたしがヤナギの霊本人だって言ってるでしょ! あたしが山本千代子の生まれ変わりなの!」
「ほぉ、では何故、我の事を覚えておらん?」
「へ?」
「人格は違えど、ヤナギの霊であると言うのならば、鈴木英子の頃の記憶は当然持っておるはずじゃ。だのに何故、英子先輩を慕っておった我の事を覚えておらんのじゃ?」
「そ、それは……、まだ思い出してないからで……」
玲華の赤い唇がモゴモゴと塞がっていく。
「思い出す出さんのと、そういう話じゃなかろうて。……いいや、ちょっと待て、お主、やはり何か変じゃの?」
戸田和夫は怪訝そうな顔をした。そうして「ふーむ」と目を細めた和夫は無精髭を指で撫でた。
「お主、ちと知り過ぎてはおらぬか?」
「だってヤナギの霊だもん!」
「それはもういいわい。それよりお主、どうやってその情報を手に入れた?」
「手に入れたんじゃないもん、思い出したんだもん」
「では、どうやって思い出した?」
「夜の学校に忍び込んだんだよ」
「な、なんじゃと……!?」
「そうして昔の自分を見て回ったの。どーしても四人目の私だけは見つけられなかったけどね」
そう腰に手を当てた玲華は得意げだった。戸田和夫の目が驚愕に見開かれる。その瞳にはキラキラとした少年の煌めきが瞬いていた。
「そうか、お主、魔女じゃな?」
「魔女?」
その言葉に千夏の肩がワクワクと踊り始める。英一は無言で二人の会話を見守った。
「そうだよ」
玲華は少し驚いた顔をした。まさか自分の正体を素で見破る人がいるとは思っていなかったのだ。それも二回会っただけである。玲華は、この背の高い老人を偏屈なホームレスとしか見ていなかった。
「やはりそうか、どうりで我も知らん事実を知っておるわけじゃわい。お主、ヤナギの霊の夢に干渉しおったな?」
「へぇ、ホームレスのくせに魔女の事は知ってるんだ」
「ふん、まだ金があった頃にな、ヨーロッパを渡り歩いた事がある。その時に我は数人の魔女と出会っておるのじゃ」
「あの、魔女とは……?」
おずおずと英一は片手を上げた。内気な生徒のような面持ちである。同じように千夏も片手を上げてみせる。
「魔女とは、そういう力を持った西洋の女性の事じゃよ」
「力?」
「なんでも魂に干渉する力らしい。夢に忍び込んで人を操ったり、精神を衰弱させて人を死に追いやったり、とな」
「夢にですか」
「そうじゃ。サキュバス等の悪魔伝承は全て、魔女から来ているのではないか、と我は考えておる」
「え? 玲華ちゃんってサキュバスだったの?」
「魔女だもん!」
玲華は憤慨した。にひひ、と千夏は楽しげである。
「まぁそんなこんなで彼奴らは、人側から相当恨まれとったそうでな、かつては魔女狩りと幾人もの魔女が殺されたらしい。じゃが彼奴らは己の魂にも干渉出来るらしく、たとえ死んでもまたすぐに生まれ変われるんじゃと。我が会った魔女も、もう千年近く転生を繰り返しておると微笑んでおったよ」
そう言った戸田和夫は昔を懐かしむように二階の窓を見つめた。英一は暫し呆然としてしまう。あまりにも壮大な話だったのだ。やはり戸田さんは凄い人だ、と心を震わせた英一の瞳に少年の頃の情熱が蘇ってきた。
「そ、それでは、彼女がその、転生した魔女だと……?」
「まぁ、たぶんじゃがの」
「そうだよ!」
老人の声に、玲華の声が覆い被さる。してやったり、と玲華が赤い唇を横に広げると、戸田和夫は軽いため息と共に肩をすくめた。
「うーむ、もしやお主、身体が合ってはおらんのじゃないか?」
「うん?」
キョトンと目を丸めた玲華の細い首が横に倒れる。
「我が会った魔女は皆、西洋の女性じゃった。聞けば、西洋の女性以外には転生しないんじゃとか。これは我の予想じゃが、魂とやらは意外にも繊細で、たとえ人だとて同じ種族の体以外とは合わないんじゃなかろうか。遺伝子が交わっておれば話は別じゃが、お主のそれ、ほぼ純粋な日本人じゃろ?」
「ああ、そうかも」
「はぁ、お主がアホなのは、そのせいじゃったか……」
「はいぃ?」
「頭は悪いし、記憶も曖昧じゃし。なぁクールガールよ、悪いことは言わん、次は西洋の女性の身体を選べ」
「決闘よ!」
青いラケットが白光を浴びる。白い羽が宙を舞う。ふわりと浮かび上がる長い黒髪。苦笑した英一は、まぁまぁ、と二人の間に割って入った。
「ねぇ先生、日本人の魔女はいないの?」
千夏は首を傾げた。白い羽が千夏のオレンジ色のラケットに舞い落ちる。
「うむ、おらんよ。魔女もどきなら目の前におるがの」
「むー!」
「えー!」
二人の女生徒が同時に声を上げた。唸り声である。千夏は残念そうに肩を落とした。
「ふっはっは、そう落胆するなサマーガールよ。日本には巫女がおる」
「巫女?」
千夏の視線が上がる。英一も興味津々といった様子で瞳を輝かせた。
「まぁ巫女も魔女もただの名称に過ぎんのじゃが、なんでも、巫女は魂を呼び寄せる力を持っておるらしい」
「呼び寄せてどうするの?」
「自らの身体に落とすんじゃと。口寄せと呼ばれる力じゃよ。いや、実は我も詳しくは知らんでな。なぜなら、魔女と違って巫女は己の魂に干渉出来んそうで、生まれ変わることがほとんどないじゃとか。一代限りの巫女は非常に数が少のうて、我も本物の巫女は一人しか知らんのう」
「へー!」
再び千夏の瞳に夏空の輝きが宿る。英一の瞳にも少年の煌めきが宿っており、老人の顔を仰ぎ見た英一は更なる謎の解明に胸を躍らせていた。
「いやはや、凄く凄く、はっはっは、本当に凄く壮大な話です。それで戸田さん、その、ヤナギの霊とは一体なんなのでしょうか?」
「曖昧な質問じゃの」
「す、すいません……」
生温かい風が体育館の空気を動かし始める。開け放たれた扉の向こうから生徒たちの声が響いてくると、玲華は、千夏のオレンジ色のラケットに視線を向けた。
「ふーむ、何かと問われれば、山本千代子の生まれ変わりじゃと答えるより他なかろう。じゃが、なぜ千代子が転生を繰り返しておるのかは、まだよく分かっておらん……。いいや、待て待て待て、そうじゃった、その答えはもう目の前にあるんじゃった。さっきも言ったように、ヤナギの霊は盛大な勘違いをしておる可能性があるんじゃ!」
老人の声が大きくなる。五人目のヤナギの霊と対話をする為に、戸田和夫はこの富士峰高校に再び足を踏み入れたのだ。本来の目的を思い出した和夫はベースボールキャップのつばを力強く指で挟んだ。
「え? ヤナギの霊も魔女なの?」
千夏は驚いた表情をした。戸田和夫は呆れたように首を振る。
「サマーガールよ、日本に魔女はおらんと先ほど言うたではないか」
「でも、転生を繰り返してるんでしょ?」
「ふーむふむ、すまん、我の言い方が悪かったようじゃ。そもそも人は皆、遥か太古の昔から転生を繰り返しておるんじゃよ。我にもお主にも、当然ながら前世というものがある。千代子にも千代子以前の前世がある。魔女や千代子と我々の違いはの、前世の記憶があるか否かだけなんじゃて」
「でもでも先生、前に授業で習ったんだけどね、人間ってすっごく数が増えてるんだよ! それってどうしてなの?」
「うーむ……」
戸田和夫は言葉に詰まった。転生を語る上で人口の話題は避けられない。和夫自身、その問題には何度も躓いてきたのだ。
「ホームレス先生、その話間違ってるよ?」
「なんじゃ、クールガールよ」
「クールレディ!」
ふん、と玲華は腰に手を当てた。長い黒髪を照らす光芒。青いラケットが玲華の太ももに跳ね返る。
「ねぇ先生、人って何だと思う?」




