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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第二章

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消えた女生徒たち


 三原麗奈は怒っていた。

 期末テスト三日目の事である。昨夜の雨に冷やされた草木の露が七色の光を帯びている。

 相変わらず、富士峰高校の正面は渋滞していた。手元の参考書に視線を落とす男子生徒。憧れの異性に視線を送る女生徒。青い空を見上げる者がいれば、蒼い地面を見下ろす者もいる。最終日という事で緊張感が抜け落ちてしまっているのだろうか、頬を強張らせた生徒はほとんど見られなかった。

「こらぁ!」

 ローズピンクの唇を開いた三原麗奈は小さな拳を握り締めた。青い空の向こうに届くような、透き通った声である。俯きがちに校庭のレンガ畳を歩いていた生徒たちは驚いて顔を上げた。そうして、校舎の入り口を見上げた生徒たちは慌てて視線を下げる。キッと目を細めた三原麗奈が拳を振り上げて立っていたのだ。

「お、麗奈ちゃーん!」

 麗奈の視線の先にいた猫っ毛の男子生徒が顔を上げる。女性の音域に近い声である。麗奈と同じようによく通る声を持つ吉田障子の顔には、憂いというものが一切見られなかった。

「麗奈ちゃーん、じゃないよ! どうしてテスト受けてないの!」

「へぇ?」

「テストを休むなんて最悪だよ! どうするつもりなの!」

「どうするつもりって、麗奈ちゃんには関係ない話じゃん」

「か、関係あるよ……! だって……!」

 麗奈の唇がモゴモゴと歪む。いったい自分のこの状況をどう説明すればいいのか分からなかったのだ。

 単に中身が入れ替わっているだけであれば、互いに互いの状況を話し合えるのだが、どうにもそれは疑わしい。もしも本当に入れ替わっているだけなのだとすれば、吉田障子の中に入っている筈の三原麗奈の行動は異常そのものだった。他人の体に入って自分の体に欲情し、そしてそれを周囲に公言しているのである。非現実的状況においての非常識だろう。入れ替わった異性の体にまったく何の違和感も持たず、元の自分の体に欲情する人間など、果たして本当にこの世に存在するのだろうか。

「なぁ、麗奈ちゃん」

 吉田障子は少し困ったような表情で首を横に傾けた。麗奈はキッと目に力を込める。

「麗奈ちゃんの方はどうなんだよ?」

「へ……!」

「テストは順調なのかよ?」

「へ……」

 麗奈の頬がサッと青ざめる。「2」で埋め尽くされた数学の答案用紙を思い出してしまったのだ。知ってる単語を取り敢えず羅列しておいた英語の答案用紙。世界史に至っては白紙である。

 俯きがちに押し黙ってしまった麗奈に、吉田障子がクスリとした笑みをこぼした。それは、麗奈が初めて見るような自然な笑みだった。

「ねぇ君さ、もうテストは諦めなよ」

「へ……?」

「君、麗奈ちゃんさ、部活に集中しろって言ってんの」

「部活……?」

「麗奈ちゃんって演劇部の部長じゃん。良い声持ってんだし、本気で部活に挑んでみろよ」

「む、無理だよ……」

 ふるふると麗奈は頭を振った。アッシュブラウンの艶やかな髪がサラサラと夏空を流れる。

「吉田くーん!」

 聞き覚えのある声が朝の昇降口を抜ける。ハスキーな女性の声である。なぜ皆んな名前を叫ぶのだろうか、と麗奈は肩を落とした。大場亜香里の指の先が吉田障子の背中に触れると、背筋を伸ばした吉田障子は「わっ」と驚いたような声を上げた。

「吉田くん、おはよー!」

「あ、亜香里先輩! お、おはようございます!」

「もー、先輩は付けなくていいってばー」

 そうクスクスと笑った亜香里の視線が、ほんの一瞬、麗奈の栗色の瞳に向けられた。挑むような、憎むような、火花の飛び散るような苛烈な視線だった。麗奈の頬が恐怖に強張ると、満足そうに舌を見せた亜香里は吉田障子の手を握り締めた。そうして、あたふたと頭を振り回す吉田障子の腕を引いた亜香里は最後にもう一度だけ麗奈を一瞥すると、校舎の中へと入っていった。

「朝からバチバチじゃないの」

 睦月花子の声が麗奈の耳に届く。どうやら一部始終を見ていたらしい。花子の瞳には少女漫画の修羅場に息を呑む乙女のような好奇の光が揺らめいていた。

「べ、別に何でもないけど……?」

 麗奈はムッとした。花子を睨み付けた麗奈は「ふん」と鼻で息を吐く。先ほどの恐怖心が薄れると、代わりに、モヤモヤと不快な黒い影が麗奈の胸の奥を渦巻いていった。

 それは、麗奈の知らない初めての感情だった。



 徳山吾郎は指を震わせた。

 最終日のテストに全く集中出来なかったのだ。縦に並んだ文章を読み返しては頭を抱える。いったいそれが小説なのか評論なのか、それすらも今の吾郎には判断が付かなかった。

 テストの終わりを告げるチャイムがなると、吾郎はすぐに鞄を持ち上げた。週末である。来週を終えれば夏休みだ。様々な不安に心身を衰弱させた吾郎はとにかく一人で頭を休めたかった。

 いや、二人でもいいか、と吾郎の頭の片隅に姫宮玲華の長い黒髪が浮かび上がる。いいや、やはり一人がいい、と疲れ切って判断の付かない頭を振った吾郎は、ふらふらと体を引き摺りながら教室を後にした。

「やぁ吾郎くん、お疲れだね」

 二階の踊り場で声が掛かる。その声の主が足田太志だと気が付いた吾郎はほっと息を吐いた。特に親交の深い間柄でも無い。だが吾郎は、生徒会長である太志の人柄には信頼を置いていたのだ。

「ああ会長、お疲れ様。ちょっと色々とあってね……」

「テストは上手くいったのか? いや、現代文は君の得意教科だったね」

「はは……」

 吾郎は苦笑いした。そんな吾郎の疲れ切った笑みに太志は眉を顰める。

「大丈夫か?」

「いや、まぁ……」

「テストの事はもう忘れてしまえよ。次を頑張ればいいのさ」

 太志は、吾郎の疲れが期末テストから来ているものだと思い込んでいるようだった。それはそれで会長らしい、と吾郎は肩の力を抜いた。

「会長、ちょっと聞きたい事があるんだが……」

 吾郎の視線が左右に動く。踊り場は下校中の生徒で溢れている。

「なんだ?」

 太志は首を傾げた。女生徒の集団が二人の横を駆け抜ける。ここにいては邪魔だろうと、太志と吾郎は一階に下りた。

「その、だな……」

 モゴモゴと吾郎は手で口を覆い隠してしまう。何か言い出しづらい内容なのか、それとも単に言葉を探しているだけのか、吾郎の視線は明後日の方向を泳いでいた。

 太志は肩を怒らせた。吾郎の意図が読めた気がしたのだ。

「それはダメだ!」

 キッパリとした口調である。一階の窓辺を歩いていた生徒数人が太志を振り返る。吾郎は「は?」と目を丸めた。

「学生の本分を見誤るな! 君が集中すべきは勉学であり、生徒会の仕事だよ!」

「はぁ……?」

「不純異性交遊にかまけてる場合ではないと言ってるんだ!」

 そう言い放った太志はくっと目を伏せた。自己嫌悪に陥ったのだ。彼は学生恋愛に否定的な堅物ではない。むしろこの少子化の社会において、学生恋愛は必要不可欠な事柄だと信じ切っているような男である。

 太志はただ嫉妬していたのだ。それは生まれて初めての感情であり、姫宮玲華と仲の良い徳山吾郎に対する鬱憤とした感情を彼は抑えられなかった。

「すまない、吾郎くん……」

 太志は頭を下げた。事情を知らない吾郎は目を丸めたままである。

「俺は、俺は、最低な男だ……!」

「会長こそ、少しお疲れなんじゃ?」

 ふっと一階の廊下を涼しげな風が流れる。その風を追って視線を上げた吾郎はギョッと全身の筋肉を硬直させた。肌の白い女生徒が廊下の隅に立っていたのだ。

「で、では会長、僕は一足先に帰らせてもらうよ」

 そう言った吾郎は返事を待つ事なく、すぐ目の前の昇降口に足を急がせた。靴を履き替えた吾郎は勢いよく校庭に飛び出る。とにかく吾郎は学校から離れたかった。

 回転扉の前は当然の如く混雑していた。長い列の中央で、吾郎はイライラと髪を掻きむしる。やっと学校の外に出た吾郎はほっと息を吐いた。一瞬の隙である。外で待ち構える鬼の存在に吾郎は気が付かなかった。

「徳山吾郎じゃない」

「は、花子くん……?」

「ちょうど良かったわ、今から私たち、秀吉の家に殴り込みに行くとこだったのよ。アンタも来なさい」

 正確には待ち構えていたわけではない。だが、見つかってしまえばもう逃げることは許されない。睦月花子の強靭な力を前になす術なく、吾郎の体はズルズルと通学路を引き摺られていった。

「ま、待ち給え。秀吉とは、その、小田くんの事か?」

「そうよ。あのバカ、もう二週間ほど部屋に引き篭もっちゃってんのよ」

「いや、秀吉くんは入学してからほとんど学校に来てないって噂だぜ?」

 田中太郎が口を挟む。テストを無事乗り越えられたからだろうか、太郎は晴れやかな表情をしていた。

「たく、なーにやってんのよ、あのバカは」

 花子の額に血管が浮かび上がる。だが、その瞳には後輩に対する慈愛の光が溢れていた。

「バランスか……」

 吾郎は独り言のような声を漏らした。「はあん?」と花子の首が横に倒れる。

「出現する生徒がいれば、消失する生徒も出てくるという話さ」

 吾郎は疲れ切っていた。彼は彼の求める日常という名の夢の片隅で妄想を加速させていた。

「いや、ただの仮説だがね……」

「なーにをまた訳分かんないこと言ってのよ」

「花子くん、それに田中くんも、君たちは大場亜香里の存在を知っていたか?」

 吾郎は口元を手で覆い隠した。言うべきか、否か、悩んでいたのだ。花子と太郎は顔を見合わせる。

「知らなかったけど、それが何よ?」

「違和感は覚えなかったかね?」

「別に、知らない奴なんてこの世に五万といるわけだし。つーか、超自然現象の闇に挑まんとする私たちが、んな事でいちいち頭悩ますかっつの」

 はん、と不敵に笑った花子は腕を組む。吾郎は意を決した。なるべく情報は共有しておいた方が良いと判断したのだ。

「大場亜香里は退学していたんだ。いや、正確にはさせられたと言うべきか。前の世界での話だがね」

「なんでよ?」

「麗奈さんと敵対したからさ。まだ入学したばかりの頃の話だよ」

 太郎は少し驚いた表情をした。だが花子はといえば、興味なさげな欠伸を返したのみである。

「つまんない話ね。それだけなの?」

「いや……」

「なぁ、もしかしてあの大野木紗夜って奴も、前の世界では退学してたんじゃねーか?」

 太郎はスクエアメガネのブリッジに中指を当てた。その言葉に花子も昨日の出来事を思い出す。確かに大野木紗夜も見覚えのない生徒の一人だったのだ。

「そうだったの? でもアイツ、三原麗奈と仲良さそうだったわよ?」

「だから退学を免れたんだろ」

「はあ?」

「つまりあの大野木紗夜って女、こっちの世界では麗奈さんと敵対しなかったんだよ。だから……」

「退学じゃない」

 そう呟いた吾郎の頬は蒼ざめていた。流れ続ける雲の欠片が太陽を覆い隠す。ほんの一瞬、影に包まれた街に涼しげな風が流れた。

「自殺なんだ」

 ゾッと背中の毛を逆立てた太郎は言葉を失ってしまった。

「冬の川に飛び込んだんだ。中学2年生の頃だった。彼女は、大野木さんは、高校生になれなかったんだよ」

「なんでよ?」

 花子は目を細めた。

「そ、それは分からない。遺書が無かったそうで、彼女の死の理由は誰にも分からないんだ。……た、ただ、僕たちは同じ中学校だった。だから僕は彼女の葬儀に参列している。花に囲まれた彼女の姿は、本当にただ眠っているだけのようで……本当に、今にも目を開きそうで……でも、でも、その肌の色だけは真っ白だった。本当に、この世のものとは思えないくらい白くって、本当に、僕は、僕は、彼女がまだ凍ったままなんじゃないかって、心配になってしまった。本当に心配で、心配で、忘れられなくなってしまって、その白い顔を今でも夢に見てしまうんだ」

 風が声を震わせる。雲の影に覆われた街。吾郎の顔に血の気は見えない。太郎は息を呑み込んだ。

「三原麗奈も同じ中学校だったの?」

「ああ……」と、吾郎の蒼白い頰が縦に動く。

 小麦色の肌に浮かび上がった血管。ゴキリと首の骨を鳴らした花子は腕を組んだ。


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