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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第二章

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独り舞台


「よく調べたな」

 吉田障子は驚嘆の声を上げた。栗皮色のテーブルに広げられた大学ノートには十三ページに渡って文字が連ねてあり、ページの真ん中にはそれぞれ、グレースケールにコピーされた標的の写真が貼られてある。

「お前、忍び込んだだろ?」

 平日の午後のカフェに客は少ない。喫茶はるのは昨日と変わらず静かだった。砂丘の表面を撫でるかのような滑らかなヴァイオリンの旋律が古風な店内の時間の流れを緩やかにする。キザキの手元に置かれたコーヒーは相変わらず冷めてしまっているようで、その視線は吉田障子が先ほど頼んだコーヒーのマグカップから立ち昇る仄白い線に向けられていた。

「調査費は20万と5800だ。初回割で5800はまけてやる」

「どういう計算だよ」

「9800を21時間だ」

 そうキザキが水面模様のレトロガラスに視線を送ると、吉田障子は思わず口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。退屈な世界に対する倦怠か、はたまた寝不足による疲労か、キザキの前髪に隠れた腫れぼったい瞼は相変わらず暗鬱としていた。

 伊万里焼のコーヒーカップから白い湯気が立ち昇る。

 まだ熱いコーヒーを静かに啜った吉田障子はそれをコトリとテーブルの端に滑らせた。ピアニストが雪色の鍵盤を優しく弾くように、マグカップから指を離した吉田障子は薬指の腹で頬を撫でる。

「なぁキザキ、お前は1000万で人を殺せるか?」

 シン、と店内の空気が動きを止めた。ヴァイオリンの音色が薄暗がりの奥に消えていくと、正面に視線を戻したキザキは冷めたコーヒーを口元に運んだ。

「いいや」

「なら、人を殺す手伝いならどうだ?」

「ああ」

「よし」

 そう頷いた吉田障子は大学ノートを閉じた。キザキはふぅと肩を落とす。

「貴様の依頼では誰も殺らんぞ」

「はは、まだ何も言ってねーだろうが」

「なら、なんだ」

「お前の役を考えてるだけさ」

「いちいち芝居掛かった奴だな」

 腫れぼったい目を見開いたキザキは黄ばんだ歯を剥き出しにした。暫しコーヒーから立ち昇る白い煙を眺めていた吉田障子は頬から指を離すと視線を上げた。

「なぁキザキ、お前って山麓の存在は知ってるか?」

「学会の宿か」

 そうキザキが瞳を斜め上に動かすと、吉田障子の口元に満足げな笑みが浮かび上がった。

「知ってるなら話が早い。お前にはその現場を押さえて欲しい」

「なんだと」

「証拠を集めてくれ、写真や映像でな。数人でいいから客の情報も集めて欲しい、出来れば常連の。それがお前への一つ目の依頼だ」

「ちょっと待て、まさか貴様、学会を強請るつもりか?」

「ああ」

「はっ、やはりただのガキか」

 一瞬、失笑したキザキはすぐに退屈そうに目を半開きにすると窓の外に視線を送った。野良猫が一匹、暗い路地裏を通り過ぎる。

「二つ目が人集めだ。なるべく燻ってる奴らを集めたい」

 吉田障子は気にせず話を続けた。

「そして三つ目が……」

「おい、先ずは金が先だ」

 キザキの腫れぼったい瞼が吉田障子に向けられる。その瞳の奥には明らかな侮蔑の光が宿っていた。

「払えんとは言わせんぞ」

「ああ」

 吉田障子が鞄に入った封筒から大量の札束を取り出すと、キザキは僅かに表情を変えた。だが、瞳の奥の侮蔑の光は消えない。

「なんだ、金持ちのお坊ちゃんだったか。おおよそ、恐れや憂いとは無縁の人生を送って来たのだろうな」

「はあ?」

「学会に手を出すのは止めておけ。俺も貴様のようなガキの巻き添えはごめんだ」

「はは、やっぱりお前って暇人なんだな」

 ニィ、と吉田障子の口が横に大きく裂ける。その瞳は冬の曇り空のように暗く陰鬱で、その唇は感情のない人形のように冷たかった。

 キザキはそっとコーヒーカップに指を添えた。

「暇人だと?」

「お前が俺を調べなかった理由は、俺が何を仕出かしてくれるか楽しみだったからだろ?」

「……」

「そうだよな、あらすじ知っちまったら楽しみが激減するもんな。はは、大丈夫だって、楽しませてやるから。お前は黙って俺の言う通り役を演じてればいいんだよ。そうしたら、最高の舞台をお前の元に届けてやる」

「学会に強請りが通じると本気で思ってるのか?」

 冷めたコーヒーの水面が波立つ。老女が三人、古風な扉の前の風鈴を鳴らした。キッチンで新聞を広げていた老オーナーは僅かにその重たい視線を持ち上げた。

「揺らしてから強請るんだよ。軽く押してやるだけでいい」

「揺らす?」

「もう皆んな舞台に上がっちまってんだ。俺の独り舞台だがな」

 吉田障子はそう不敵に笑った。

 冷めたコーヒーを啜ったキザキは、吉田障子の手元の大学ノートに視線を落とした。キザキが調べ上げたその十三人は本当に何処にでもいるような、ありふれた少年少女だった。平凡な家庭で育った平凡な子供たち。厳重な警備などは施されていない彼らの家に忍び込むのは安易であり、彼らの個人情報は隠される事なく彼らの部屋に置き去りにされていた。

 ただ一人、祖父が議員である藤田優斗という少年の家にのみ多少の警戒がなされていた。だがそれも、立派な門構えに取り付けられた数台のカメラと数匹の犬が居たというだけで、キザキの障害とはなり得なかった。

「二つ目の人集めとやらだが、もっと具体的にどんな奴らを集めたいのかを言え」

 マグカップをテーブルに置いたキザキは老オーナーに向かって追加のコーヒーを頼んだ。吉田障子は左の頬に薬指を当てる。

「馬鹿で欲深い奴らを十数人。そいつらを纏め上げられるリーダーを数人。そして、そいつらに逆らえない小心者かつ物覚えのいい役者を六人だ」

「注文が多い。猿山の大将と下衆どもならすぐに紹介してやれるが、役者六人は難しい」

「そっちが重要なんだよ」

「ならば実際に猿山の大将と会って尋ねてみればいい、奴等の方が交友関係が広いだろう」

「だな」

 栗皮色のテーブルにコーヒーが運ばれる。その熱いマグカップから立ち昇る白い煙に、キザキは恍惚の表情をした。

「で、三つ目は何だ」

 漆黒に揺らめく蒸気に見惚れていたキザキはそれに手を付けようとはしなかった。代わりに吉田障子が少し緩くなったコーヒーを飲み干してしまう。

「コイツを追い詰めろ」

 そう言った吉田障子は大学ノートの二ページ目を開いた。中央に貼られたグレースケールのコピー紙には陰鬱そうな小太りの男が映し出されている。倉山仁という写真が趣味の男だった。

「コイツは盗撮が趣味の小物でな、俺の奴隷クンなんだよ」

 吉田障子の薬指が倉山仁の顔を撫でる。

「精神的に追い込んでやってくれ。俺が憎くて憎くて、俺を殺したくて殺したくて堪らないと、常にナイフを持ち歩くようになるまで、徹底的にコイツを追い詰めろ」

「難しい。俺は人付き合いが苦手だ」

「お前も俺の奴隷だという役を演じればいい。小心者のコイツはそれだけでお前に親近感を抱くはずだ。そして、コイツの中に残忍で下劣な俺の像を育て上げろ。コイツは三原麗奈という女生徒に叶わぬ恋心を抱いている。それを利用すればいい」

「ふん」

「二つ目の依頼だけは早急に頼むぜ。他は九月くらいまでに仕上げてくれればいい。金は出来次第だ。上手く事が進めば莫大な報酬をお前にくれてやるよ」

 大学ノートを鞄に仕舞った吉田障子はアンティークの壁掛け時計を見上げた。既に二日目のテストは終わりを迎えようかという時間帯である。

「明日、この時間に小坂通り前のファミレスに来い。猿山の大将を連れてきてやる」

 熱いコーヒーを舌に乗せたキザキはレトログラスの外に視線を送った。白磁のカップから白い湯気が立ち昇る。二人の声が止むと、ヴァイオリンの音色がまた古風な店内の時間を動かし始めた。

 鞄を肩に下げた吉田障子は一歩足を前に動かした。その洗練された歩行に音は無い。りん、と風鈴が夏の風に吹かれると、コーヒーの薫りを味わっていたキザキはゆっくりと腫れぼったい瞼を閉じた。




 

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