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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第二章

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見覚えのない生徒


 自己採点を終え、ノートの上に参考書を重ねた田中太郎は窓の向こうの青空に一息ついた。忙しかった昨夜の憂いは何処へやら、テストはまずまずの出来だったなと太郎はご機嫌だった。

 上を目指す者としては眉を顰める点数かもしれない。それでもサボり魔だった頃の記憶しか持たない太郎にとっては満足のいく結果であり、ここから一歩一歩前に進んで行くのだと、太郎は湧き上がる向上心に胸が打ち震える思いだった。

「やぁ田中くん、こんにちは」

 何か甘いものが飲みたいと自販機の前に立っていた太郎の背中に声が掛かる。後ろを振り返った太郎は慌てて姿勢を正すと深々と一礼をした。

「か、会長、こんちわっす!」

「ああ、調子はどうだい」

「バッチリっす! 初日は悪くない結果に終えられました! それもこれも会長のおかげっす! 本当にありがとうございました!」

 校舎中に響き渡るような声だった。その場に居合わせた生徒たちは思わず目を丸めてしまう。だが、とうの足田太志は特に狼狽えた様子もなく、そんな太郎に向かって片手を上げて見せたのみだった。

「そうか、それは良かったね。俺も頑張らないとな」

「い、いえいえ、会長の足元にも及ばないような点数っすよ。ただ、無心で挑んだおかげで却って吹っ切れられたと言いますか、もし徹夜で挑んたら、もっと悪い結果に終わっていたかもしれないです」

 そう言った太郎は照れ臭そうに頭を掻いた。うんうん、と太志もご機嫌な様子であり、昨日とは打って変わって顔色が良い。そうして暫く自販機の前で二人が雑談を続けていると、偶然その場を通り掛かった臨時教諭の八田英一が太志に向かって晴れやかな笑みをみせた。

「やぁ会長、それに田中くんも、テストはどうだった?」

「こんにちは、八田先生。まぁボチボチと言ったところです」

「はは、会長、またまたご謙遜を。顔に上手くいった書かれているよ」

「いえいえ、単に血色が良いだけですよ。久しぶりにぐっすりと眠ることが出来たので、今日は気分がいいんです」

「そうかそうか、昨日の君は本当に酷い状態だったからね。睦月さんにはしっかりとお礼を言っておくんだよ」

「ええ、彼女には本当に感謝しています」

 参考書を小脇に抱えた数人の生徒が自販機の前を通り過ぎた。

 ニッコリと微笑んだ英一が彼らに挨拶をすると、軽く頭を下げた生徒たちも挨拶を返す。腕を後ろに組んだ英一は教師として完全に富士峰高校に溶け込んでいる様子であり、その自信に満ち溢れた眩い笑顔を太郎はカッコいいと思った。同様に、ブラックコーヒーを片手に英一と言葉を交わす太志の大人っぽい姿にも見惚れ、午後の紅茶の甘い後味に眉を顰めた太郎は自販機に並んだ無糖のコーヒーを仰ぎ見た。

 フッと廊下の空気が一変する。軍隊の行進のような規則正しい足音が陽光に眩しい窓を震わせると、自販機の前に屯していた生徒たちはそそくさとその場を後にした。

「英一様!」

 廊下を遮るようにして並んだ集団の先頭を歩いていた女生徒がハスキーな声を上げた。スラリと背の高い女だ。短い髪が彼女にボーイッシュな印象を与えている。アーモンド型の目が特徴的な美しい女生徒だった。

 太郎は口を半開きにしてしまった。オカ研の部長である大場亜香里に全く見覚えがなかったからだ。こんな美人がこの学校に居たのか、と太郎は驚いていた。

「八田先生」

 少し高めの男子生徒の声が太郎の鼓膜を震わせる。耳の奥に残るような不思議な声色だった。容姿の整った女生徒に目を奪われていた太郎は思わず声を上げそうになってしまう。吉田障子が亜香里の背後に控えるようにして立っていたのだ。

「八田先生、調子はどうすか?」

 吉田障子は目を細めた。その顔に前のような不敵な笑みは浮かんでいない。それが太郎には不気味に思え、突然の吉田障子の登場に英一の頬も引き攣っていた。

「やぁ大場さん、こんばんは」

 この場でただ一人、生徒会長の足田太志のみが、ありふれた日常の延長線上にいるかのような変わらぬ笑みを浮かべ続けていた。やっと太志の存在に気が付いたのか、亜香里は大きな目をくるりと丸める。

「あれあれ? え、会長さん? あ、もしかして休憩中?」

「休憩中?」

「だって会長さんって、いっつも忙しそうなんだもん。こんな所で会うのが何だか新鮮で」

「ははは、そうか、確かに休憩中といえば休憩中だね。おや、その隣の子はオカ研の新入部員かい?」

「ああこの子は……そうね、そんな所かしら?」

 チラリと隣を流し見た亜香里は曖昧に首を傾げた。太志の優しげな瞳が吉田障子に向けられる。すると、途端に仏頂面となった吉田障子はチッと舌打ちをすると斜め下に視線を落としてしまった。その態度に太志は少し驚いたような表情をし、同様に亜香里も怪訝そうに眉を顰めた。

「おい、お前! なんだよその態度は!」

 ムッと目を吊り上げた太郎が怒鳴り声を上げた。足田太志を信奉する太郎にはその態度が許せなかったのだ。

「会長に向かって失礼な態度とってんじゃねーぞ!」

「あ?」

「お前は一応下級生だろーが!」

「だから?」

 太郎の熱い視線と吉田障子の冷たい視線がぶつかり合う。太志が苦笑いを浮かべると、ため息を吐いた亜香里が吉田障子の頭を小突いた。

「吉田くん、会長に謝りなさい」

「すいません……」

「まったく、あなたが物怖じしないタイプの子だってのは分かっていたけど、先輩に対してそんな態度を続けるようなら、あたし、あなたのこと嫌いになっちゃうかも?」

「そ、そんな……! 俺、ただ心配になっただけで……!」

「何が?」

「あ、亜香里先輩が、取られちゃうんじゃないかって……!」

「へぇ、つまり嫉妬しちゃってたってこと?」

「いや、嫉妬というか……」

 モゴモゴと歯切れの悪い吉田障子に向けられた視線は様々だった。満足げな笑みを浮かべた亜香里に対して心霊現象研究部の部員たちは何やら不満げであり、不思議そうな表情をした足田太志と同様に、腕を組んだ太郎は首を傾げてしまっている。吉田障子の中身が三原麗奈かもしれないという情報を持つ太郎にとっては、彼のその行動の一つ一つが理解し難かったのだ。

 ふぅと息を吐いた吉田障子の視線が八田英一に向けられる。再び頬を引き攣らせた英一はコホンと咳払いをすると吉田障子に向かって首を傾げてみせた。

「やぁ吉田くん、どうかしたのかい?」

「話し合いはいつにしましょうか」

「は、話し合いか……。そ、そうだね……」

 吉田障子の言葉に狼狽した英一の視線が斜め上に泳いでいく。その様子に驚いた亜香里はそっと吉田障子の耳元に唇を寄せた。

「吉田くんって、英一様と知り合いだったの?」

「あ、まぁ、そっすね。実は俺、先生の弱みを握ってて……」

「弱み?」

「そっす、八田先生は俺に逆らえないんすよ……」

「へぇ、悪い子ね」

 ニヤリと亜香里の口元に妖艶な笑みが浮かび上がる。ポリポリと頭を掻いた吉田障子は照れ臭そうな笑みを浮かべた。二人の話し声は蚊の羽音よりも小さい。午後の紅茶のペットボトルをゴミ箱に投げ捨てた太郎はそろそろ帰ろうかと壁の時計を見上げた。

「ねぇ吉田くん、今度あたしにそれ教えてくれない?」

「えっと、その、それはちょっと……」

「お礼にいいことしてあげるから」

「ええっ……!?」

「ねぇ吉田くん、君ってあたしの事が好きなんでしょ?」

「は、はい……」

「じゃあ、約束ね?」

「は、はい……!」

 コクコクと首振り人形のように頭を動かし続ける吉田障子の頬からは真っ白な湯気が立ち昇っていた。フッと最後に生温かい息を吐いた亜香里が唇を離すと、くわっと首を横に動かした吉田障子は亜香里に向かって小さな声を飛ばした。

「もっと色んな情報を仕入れてきましょうか?」

 そう呟いた吉田障子の頬が僅かに痙攣した。眼前の亜香里ですらも気が付かないような些細な表情の変化である。

 足田太志のみがその表情の変化に気が付いていた。だが、彼は特に気にした様子もなく、そんな吉田障子の姿が演劇部部長の三原麗奈と重なるな、と太志は不思議そうに目を丸めたのみだった。

「色んな情報って?」

 亜香里は目を細めた。その瞳の奥に冷たい光が宿る。

 吉田障子はそっと左手の薬指を頬に当てた。羞恥と喜びに頬を赤らめたまま、彼は真剣そうな表情を作って見せる。

 だが、心の奥底の動揺は消えなかった。こんな筈ではなかったと吉田障子は焦っていた。ここで彼と鉢合わせする予想はしていなかったと、吉田障子は激しい動揺が舞台を壊してしまうかもしれないという恐怖を覚えていた。

「それは、その……色んな情報っす……」

「例えば?」

「その……例えば、八田先生の事とか、先生のお父さんの事とか……」

「へぇ」

 亜香里の口元にまた妖艶な笑みが浮かび上がる。そうして暫く細い顎に手を当てていた亜香里はコクリと頷くと吉田障子の耳元に唇を寄せた。

「じゃあ、また、聞かせて貰おうかな」

 亜香里の瞳には吉田障子の姿が映っていなかった。亜香里にとって吉田障子はただの道具に過ぎなかったのだ。

 吉田障子は心の奥底からほっと息を吐いた。もう少し親しい間柄だったならば違和感を持たれていたかもしれない。ほんの些細な惑いが舞台を台無しにしてしまう事もあるのだ。

「八田先生」

 吉田障子の目がまた細くなる。その瞳の奥は冬の夜空のように冷え切っていた。

「テストが終わり次第に、また」

 吉田障子は頭を下げた。英一が額の汗を拭うと、亜香里の頬に満足げな笑みが浮かび上がる。

 スッと亜香里の足が横に動いた。すると部員たちの足も横に動く。軍隊の行軍のような足音がリノリウムの廊下を再び振動させる。その音に学校に残っていた生徒たちは身を縮こませた。

 テスト疲れの脳に酸素を送ろうと太郎は大きな欠伸をした。吉田障子への興味は何処へやら、太郎から見た吉田障子の姿は、憧れの先輩を前に狼狽する思春期の少年そのものだった。

「おい君、吉田くんだったか」

 無言で立ち去ろうとする心霊現象研究部たちの背中に向かって足田太志が声を上げた。

「勉強だけは決してサボるんじゃないぞ」

 そう言った足田太志の瞳の光は何処までも真っ直ぐだった。そんな彼の瞳をチラリと見つめた吉田障子はほんの微かに頭を下げる。そうして前を向いた吉田障子は、亜香里の後に続いて校舎の奥へと去っていった。


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