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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第二章

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日暮れ前の放課後


 日暮れ前の小坂公園には若者たちが集まっていた。

 白い特攻服に身を包んだ者。特殊警棒を握り締めた黒服の集団。木製のバット振るスキンヘッドの男たち。

 一見無秩序に見える彼らの視線は道路を挟んだ向かいの雑居ビルに向けられていた。その異様な雰囲気に普段は学生で騒がしい小坂公園は静まり返っている。

「そろそろか」

 特攻服集団の先頭に立っていた男が呟く。特殊警棒を握り締めた男の一人がスキンヘッドの大男と頷き合った。

「とっととやっちまおうぜぃ」

 上半身を陽に晒していた長髪の男が滑り台の上から飛び降りると、スキンヘッドの男たちは一斉にバットを止めた。照り付ける夏の陽射し。カッと目を見開いた白い特攻服の男が「行くぞ!」と大地を震わすような怒鳴り声を上げると、恐れを知らぬ若者たちの獰猛な叫び声が青い空に響き渡った。

 “正獰会”

 “紋天”

 “苦露蛆蚓”

 暴走集団“火龍炎”に潰された三つのチームの目指す先は「The・ライト・グリーンキューピット」のライブ会場である。冷たい復讐心を胸に、熱い再興への想いを声に、瞳をギラつかせた彼らはザッと足を踏み出した。彼らを止めるものは何もない。ライブ会場は血の祭りの一歩手前にあるのだ。

 と、いきり立っていた彼らの前に小さな障害が現れた。何やらライブに遅刻したらしい三人の学生がビルの出入り口付近で息を切らしていたのだ。

 アッシュブラウンの美しい女生徒はもはや息も絶え絶えといった様子であり、背の高い男子生徒も彫りの深い顔を酸欠に歪めている。一見すると少年のような小柄な女生徒のみが涼しそうな顔で腕を組んでいた。

「退け」

 白い特攻服の男が冷たい声を出す。ビルの出入り口を塞ぐようにして立つ若者たち。彼らの下卑た視線がアッシュブラウンの女生徒に向けられると、彼女を守るようにして彫りの深い男子生徒が背筋を伸ばした。

「退け」

 白い特攻服の男が小柄な女生徒に手を伸ばす。特殊警棒を片手にヤジを飛ばす男たち。スキンヘッドの男の唸り声がビルの内部に届いた。

「退けと言ってるんだ」

 白い特攻服の男が小柄な女生徒の胸ぐらを掴んだ。するとすぐに男の表情が変わる。聳え立つ岩壁が男の脳裏に浮かび上がったのだ。その小柄な女生徒の体はピクリとも動かなかった。

 ゴキリと何かが砕け散るような音が辺りに響き渡る。「はあん?」と首の骨を鳴らした女生徒は目を細めた。



 躍動する声。汗。毛先を震わす鼓動。

 スカイブルーのライトがミストスクリーンに乱反射する。集まった者たちの熱気が冷房の効き過ぎた会場を埋め尽くした。

「テメェら! まだ熱ぃよな! 冷めてねーよな!」

 鴨川新九郎の歯がマイクに叩き付けられる。絶叫が照明のガラスを振動させる。ピジョンブラッドの眩い光線。長谷部幸平のアシッドグリーンのベースはシトリンの輝かしいオレンジに染め上げられていた。

「いいぜ! 最高だ! おいテメェら、舌の先から熱を出せ! 熱ぃ想いを声にしろ! ライブは終わってねーぞ!」

 絶叫は止まらない。ギターの大野蓮也とキーボードの山中愛人が互いに青い舌を見せ合う。ドラムの古城静雄はスキンヘッドの頭をエメラルドグリーンのライトで煌めかせながら、ふん、鼻から息を吐き出した。

「しゃあオラッ! 次行くぞテメェら!」

 その時、バンッという爆撃のような衝撃音が新九郎の叫びを呑み込んだ。

 暗闇になだれ込む真夏の陽光。声の嵐を巻き込む真夏の熱風。恐怖と興奮の雄叫びが会場の外に逃げ出していくと、突如として現れた外光に向かって集まった者たちは冷めやらぬ熱気を投げ飛ばした。

「新九郎ぉおおお!」

 後光が鬼の顔を影で隠す。表情の見えぬ鬼の声が地下の壁を振動させると、一瞬会場の空気が凍り付いた。

 ほんの刹那の事である。

 夏の白光の美しさに見惚れていた者たちが止めていた息を吐き出すと、口にマイクを突っ込んだ新九郎は絶叫した。

「役者が揃ったぜ!」

 スカイブルーのライトが鬼を照らす。「The・ライト・グリーンキューピッド」のメンバーたちは互いに頷き合った。

「聞け! “ヴァニッシング・ラビット”」

 緑の天使のライブは佳境を迎えた。



「ほんと凄かったです! 最高でした!」

 睦月花子の家に着いてからも三原麗奈の興奮は冷め止まなかった。初めてのライブで味わった高揚感に麗奈の頬は桜色である。そんな麗奈の満面の笑みにバンドメンバーたちも相好を崩す。玄関の扉を開けた花子はやれやれと肩を落とした。

「結局最後まで聞いちゃったじゃないのよ」

「部長のおかげで大成功っす! マジありがとうございました!」

「たく、アンタねぇ」

「新九郎、最高だったぜ」

 田中太郎の言葉に鴨川新九郎は照れ臭そうに頭を掻いた。

「じゃあ、俺たち打ち上げあるんで、そろそろ行きますね」

 そう新九郎が片手を上げると、キョトンと目を丸めた花子は首を傾げた。

「ウチでやればいいじゃないの」

「あ、いや……」

「なによ? 遠慮してんの?」

「遠慮っつうか……」

「うおっ! んだよ姉ちゃん、どんだけ連れてきてんだよ!」

 野太い声だった。玄関を振り返った麗奈の肩がギョッと跳ね上がる。巨人のような大男が家の中から顔を出していたのだ。

 新九郎と太郎が子供に見えてしまう程の巨体だった。二階のベランダに軽々と手が届きそうなその男の手足は丸太のように太い。そんな大型の猛獣のような男と一瞬目が合った麗奈の体が硬直してしまう。同様に、バンドメンバーたちも言葉を失っていた。

「おいおい花子ぉ、随分と賑やかじゃねーかぁ」

 更に野太い声だった。恐る恐る後ろを振り返った麗奈の下半身の力がへなへなと抜けていく。

 無精髭に覆われた熊のような大巨人が睦月家の門を潜ると、新九郎を含むバンドメンバーたちは蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げ去っていった。



 睦月家は明るかった。

 外は夜闇の中だ。満点の星空が明るい家を見下ろしている。

 田中太郎は既に帰宅してしまっていた。それでも麗奈の顔からは笑顔が絶えなかった。気を使う暇がなかったからだ。そして何より、睦月家は安心できた。

 花子の家族は本当に豪快だった。皆、身体が大きく、花子の父親である英雄と弟の一郎は身長がゆうに2メートルを超えてしまっているそうだ。花子の母も姉も海外のモデルのように背が高く、ペットの白い犬までもが大型だった。グレート・ピレニーズという犬種らしい。その柔らかな毛並みに麗奈は夢中となり、ペットが欲しいなぁ、と男だった頃よりも切実な想いに麗奈は胸の奥を熱くした。

 だが、そんな睦月家において何故だか花子の体のみがリスのように小柄だった。顔立ちも少年のように幼げで、麗奈は男友達のような親近感を彼女に覚えていた。

「でも、姉ちゃんが一番重いんだぜ?」

 夕食中の一郎の言葉に麗奈は目を丸めてしまう。花子の手刀が一郎の脳天に振り下ろされると、すうっと意識を失った一郎の体が麗奈を押し潰した。

 花子の部屋は普通だった。和服姿の男性のポスター。簡素なベットに散らばった少女漫画。勉強机の上には将棋盤が置かれている。年頃の乙女の部屋として見れば地味だという形容動詞が適切だろう。だが、麗奈にとっては雰囲気の落ち着いた良い部屋だった。

「ねぇ花子さん」

「ん?」

「将棋やらない?」

 桜色の頬はそのままに麗奈は将棋盤を指差す。「はん」と息を吐いた花子は親指で瓶ビールの蓋を弾いた。

「アンタ、指せんの?」

「うん! 僕、結構強いんだよ!」

 母方の祖父である大宮三郎にその実力を認められている麗奈こと吉田障子の表情は自信に満ち溢れていた。やれやれと花子はビールに口をつける。

「いいわよ」

「わーい!」

「ただし、条件があるわ」

「え? な、なに?」

「私に負けたら憂炎に想いを伝えること」

「ええっ?」

「安心なさい、きっと上手くいくわ。なにせ恋愛相談のエキスパートがここにいるわけだからね」

 そうビールを飲み干した花子は将棋盤を床に置くと、王様の駒のみを自陣にパチリと打ち付けた。そうして花子が次の瓶ビールに手を付けると、ムッと眉を顰めた麗奈は借りたパジャマの袖をまくった。

「いいよ! ただし、想いを伝えるのは別の人だけどね!」

「はあん?」

「だって僕には初恋の人がいるんだもん」

「誰よ?」

「勝ったら教えてあげる」

「はん、まぁいいわ」

 パチンと花子の指が王様を斜め前に出す。ムムッと下唇を噛んだ麗奈は飛車を横に動かしていった。



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