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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第二章

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赤いボール


 夏の午後は何時迄も茹だるような暑さだった。

 日暮れ前の透き通るような青空。窓の外を見上げる生徒はほとんど居ない。視線を落とした生徒たちの大半は机に薄い影を作っている。

 富士峰高校の一階の端は声で溢れていた。理科室で開かれていた緊急会議は既にお開きとなっている。だが、集まったメンバーたちの話題は尽きず、まだ明るい西日を背景に彼らは息を弾ませていた。

「だーかーら、その力っていったい何なのよ! 具体的に説明しろっつの!」

「超自然現象の一種だってさっきから言ってんだろ! まだ解明されてねーから説明出来ねぇんだよ!」

「ならその力を使って何が出来んのかを説明なさいよ! アンタも一応は伝説のヘボ男に力を認められた男でしょーが!」

「うおい! いくら部長とはいえ師範を馬鹿にするような発言だけは許さねぇぞ! あの人は端倪すべからざる大人物なんだ!」

「モブ女程度に手こずって八田弘ごときにボコられたクソ雑魚ナメクジのどーこが大人物よ! アンタね、いい加減目を覚ましなさい!」

「な、なんだとー!」

 ギロリと目を細めた二人の視線が西日に照らされた理科室でぶつかり合う。睦月花子と田中太郎の怒鳴り合いはとどまる所を知らず、壁に掛かった時計を見上げた徳山吾郎はやれやれと額に手を当てた。

「なぁ玲華さん、明日はテストなんだし、そろそろ帰らんかね?」

「だめでーす! もう一人のあたしを見つけるまでは帰れませーん!」

 そうヒラヒラと手を振った姫宮玲華は透明なビー玉を青い斜陽に翳した。黒い実験台の上にはタロットカードが散らばっており、真剣な表情でガラス玉を覗き込む玲華の隣では、十円玉に人差し指を乗せた宮田風花と三原麗奈がキャッキャと黄色い声を上げながらコックリさんを楽しんでいる。

「もー、何も見えないよぉ……」

 暫し澄んだガラスに瞳を合わせていた玲華はがっくりと肩を落とすと、黒い実験台に上に倒れ込んだ。ころころとビー玉が麗奈の手元に転がっていく。その白い光を追って瞳を動かしていった玲華は、コックリさんに熱中する麗奈の顔を見上げるとため息を付いた。

「ねぇ王子ー、本当にあだ名付けてくれた人のこと覚えてないのー?」

「う、うん、覚えてないよ……」

 チラリと玲華の黒い瞳を見下ろした麗奈は慌てて視線を十円玉に移した。三原千夏の眩い笑顔が麗奈の脳裏に浮かび上がる。初恋の相手であり、妹でもある千夏だけは何としても守り通さなければいけないと決意を固めた麗奈は、ぶんぶんと頭を振ると十円玉から指を離した。そうして麗奈が立ち上がると、宮田風花は怪訝そうな顔をした。

「吉田くん、どうしたの?」

「お手洗い」

 そう呟いた麗奈は視線を落とすとそそくさと理科室を後にした。風鈴ように涼やかな玲華の声が麗奈の後を追いかける。その声から逃げるように足を速めた麗奈は駆け足で保健室の前を通り過ぎた。やがて理科室の喧騒が遠ざかっていくと、ほっと息をついた麗奈は視線を上げた。

 静かな一階の廊下。窓から差し込む光。斜陽に舞う埃が窓の下の影に消えていく。

 あれ、トイレって何処だっけ……?

 麗奈は唇に手を当てた。ローズピンクの口紅が指先に煌めく。

 えっと、何してたんだっけ……?

 軽い目眩を覚えた麗奈は壁に手をつくと、ふらふらと辺りを見渡した。薄暗がりの教室。見覚えない景色。窓の向こうの青い空に音はない。

 額を押さえた麗奈は視線を落とした。深緑色の廊下が瞳に重い。見慣れた校舎の焦げた木目は何処にも見当たらない。

 今居る場所を忘れてしまった麗奈は滲み出る涙を堪えようと目を瞑った。

 自分が誰かが分からなくなった麗奈は溢れ出る嗚咽を堪えようと親指を噛んだ。

 と、とにかく、とにかく、とにかく、あの人に会わないと、あの子を探さないと……。

 赤いボールが一つ、暗い廊下の隅を転がる。ゴロンゴロンと不規則な回転を見せるそれは完全な円形ではなく、チリチリとした薄い影が凹凸のある表面で歪に揺らめいていた。

 鋭い絶叫が人けのない廊下を木霊した。浅い呼吸を繰り返した麗奈は胸を抱くようにして肩を押さえると、腰を捻って走り出した。

 ボールではなかったのだ。赤く揺れるそれは燃え盛る生首だった。

 麗奈は走った。暗い雲が校舎を見下ろす。窓の外は狭い公園だった。赤いもんぺ服の少女がその公園の中央で仰向けに倒れている。それが自分だと気が付いた麗奈はまた悲鳴を上げた。だが、麗奈の声は誰にも届かない。渦巻く炎が校舎を呑み込んだからだ。今や世界は赤い炎に包まれていた。

 麗奈は走った。鋭い悲鳴を上げながら、誰かの影に助けを求めて、麗奈は走り続けた。

 あっと何かに躓いた麗奈の体が仰向けに倒れる。低い振動音が頭上を通り過ぎると、防空頭巾を深く被り直した麗奈は悲鳴を噛み殺した。血と煙の臭気。倒壊と爆撃の振動。熱風が悲鳴を運ぶ。

 少女の泣き声を耳にした麗奈ははっと顔を上げた。辺りを見渡した麗奈は自分が公園の真ん中にいる事に気がつく。泣き叫ぶ少女を抱き抱えた老女が公園の前を通り過ぎると、赤い防空頭巾から両手を離した麗奈は立ち上がった。

 学校に戻ろうと思ったのだ。あの人を探すよりも先に、あの子を助けなければいけないと思ったのだ。

 強い風が麗奈の頰を撫でる。行かなければと思った。だが、足が動かない。

 爆発音が麗奈の鼓膜を揺らす。生きなければと思った。だが、体が動かない。

 麗奈は目を瞑った。あの人を想って、あの子を想って、三人で生きる未来を想って、麗奈はグッと下唇を噛み締めた。

 誰かの手が麗奈の肩に触れる。誰かの声が麗奈の産毛を揺らす。

 あの人だろうか……。

 あの子が王子と呼んだあの人が、私を迎えに来てくれたのだろうか……。

 顔を上げた麗奈はそっと目を開いた。熱い息。温かな声。ゆっくりと後ろを振り返った麗奈の瞳がくるりと丸くなる。情報の錯乱である。鮮やかで曖昧な夢を終わらすモノトーンの現実。眼前に迫る田中太郎の端正な顔に麗奈は首を傾げた。

「……え?」

「おい、マジで大丈夫か?」

「……え?」

「まさか風邪引いてんじゃ?」

 太郎の大きな手が麗奈の額を覆う。カッと頰を真紅に染めた麗奈は「ひゃあ!」と声を上げると、あわわ、といつものように降参するようなポーズを取った。

「だだだ、だ、大丈夫ですので……!」

「いや、大丈夫じゃねーだろ」

 太郎はため息をついた。そんな太郎の隣で睦月花子が何やらニヤニヤとした笑みを浮かべている。

「そーだわ!」

 パチンと指を鳴らした花子はポンッと太郎の背中を叩いた。

「アンタら今日はウチに泊まっていきなさいよ?」

「はあ?」

「こんな危なっかしい吉田何某を一人にしては置けないでしょ? 心霊学会にも狙われてるようだし、ウチに泊まるのが一番安全なのよ!」

「いや、まぁ麗奈さんに関してはそうかもな。俺は絶対に行かねーけどよ」

「ダメよ、アンタも来なさい。今日中にアンタの洗脳を解いてやるわ」

「だから洗脳なんてされてねーってば! 明日はテストだし、今日の夜ぐらいはゆっくりさせてくれよ!」

「無心で挑むっていう足田太志との約束はどーすんのよ?」

「いや、無心では挑むけどよ……」

「たく、煮え切らない男ね。まぁいいわ、もう新九郎のライブは始まっちゃってるし、取り敢えず会場に急ぐわよ! ほら吉田何某、アンタも来なさい!」

 そう言った花子は不敵な笑みを口元に浮かべると大股で歩き始めた。ため息をついた太郎がその後に続く。

 悪夢から覚めたばかりの麗奈は恐々と後ろを振り返ると、慌てて二人の背中を追いかけた。

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