ショータイム
富士峰高校の食堂は生徒たちの賑やかな声に溢れていた。
外の光に明るい広間には長テーブルが並んでいる。壁も床も白に統一された空間では生徒たちが運ぶ橙色のトレーの光沢が眩しかった。
二人の男子生徒の楽しげな笑い声が食堂の白い壁を跳ねた。昼休みも終わろうかという時間帯である。教室に戻ろうと食器を片付けていた生徒たちは訝しげな表情をした。高らかな声を響かせるその男子生徒たちのトレーにはまだ温かな料理が溢れていたのだ。
「えー吉田くん、それじゃあダメだよ、ちゃんと攻守のバランスは保たないと!」
「いやいや、攻め一辺倒が俺の持ち味なんだよ」
「もー、それじゃあ勝てないよ? それに呪文系のカードも混ぜないと、慣れてくるとトラップカードの有効性がよく分かるんだよ!」
「へー、マジか」
ピッと手に取った赤褐色のカードをマジマジと見つめた吉田障子は目を丸めた。そんな彼に藤田優斗は満面の笑みを見せる。二人は流行りのカードゲームに熱中していたのだ。
優斗は楽しかった。いつものように教室の隅で憂鬱な昼休みを過ごしていた優斗は、突然自分に声を掛けてくれたこの吉田障子という名の男子生徒に友情に近い好意を感じていた。学校でカードゲームの話が出来ることが嬉しかったのだ。そして、誰かと共に過ごす昼休みという時間が友達のいない優斗にとってはかけがえのないものに思えた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが白い広間を流れる。
時間を忘れて会話に熱中していた優斗はわっと驚いたように顔を上げた。時計を見上げた吉田障子も慌てた様子である。
「しまったー! 昼メシ食い損ねたー!」
「ほ、ほんとだね。昼休みってこんなに短かったんだ」
「チクショー! おい優斗、次はもっと早く食堂来ようぜ!」
「う、うん!」
バタバタと慌ただしく立ち上がった二人はトレーを持ち上げる。そうして返却口に食器を返した吉田障子は、食堂を出ていく上級生の集団を見上げて「あっ!」と大きな声を上げた。
「マジかよ、アカリだ! ファッションモデルの大場亜香里だよ! ヤベェ本物じゃん! マジ可愛いって!」
吉田障子の下品な叫び声が人の疎らな食堂を木霊すると、立ち止まった上級生集団はギロリと目を細めて後ろを振り返った。彼らは心霊現象研究部の部員たちだったのだ。部長の大場亜香里を含めたオカ研のビッグ4が白い広間を見渡すと、食堂に残っていた生徒たちはサッと視線を床に落とした。
「誰だ?」
オカ研副部長亀田正人の低い声が食堂の床を振動させる。視線を落として背中を震わせた生徒たちは嵐が過ぎ去るのをジッと待ち続けた。誰も彼もが心霊現象研究部に目を付けられる事を恐れていたのだ。彼らは生徒たちの恐怖の対象だった。
いや、例外が一人。目を爛々と輝かせた吉田障子がまた下品な声を上げると、彼の隣に立っていた優斗は慌てて彼の背中にしがみ付いた。
「よ、吉田くん、ダメだよ……。ほら、早く謝って……」
「えーなんでだよ? 俺、アカリの大ファンなんだけど?」
「そ、そういうことじゃなくって……! ほら、相手は先輩だし、と、とにかくダメなんだよ……」
「おい」
亀田正人の低い声が吉田障子に降り懸かる。蔑むように目を細めた正人は小柄な下級生を冷たく見下ろすと、その胸ぐらをグイッと掴み上げた。宙に持ち上げられた吉田障子は苦しそうな呻き声を上げる。
「お前、名前は?」
「あ……ぐっ……」
「名前を言え」
「ぐ……は、はなせ……ぐっ……」
必死に足をバタつかせる吉田障子の顔は恐怖と苦しみに赤黒く歪んでいた。そんな彼を前に優斗は足を震わすことしか出来なかった。
「もういいわ」
大場亜香里の涼やかな声に正人は無言で吉田障子から手を離した。床に転がった吉田障子は苦しげな咳を繰り返す。勇気を振り絞った優斗が吉田障子の元に駆け寄ろうとしたその時、長い足を優雅に折り曲げた亜香里が吉田障子の背中を優しくさすり始めた。
「君、大丈夫?」
柔らかな声だった。微かに唇を横に広げた亜香里の表情は天使のように優しげで、そんな彼女の姿に足を止めた優斗は思わず頬を赤く染めてしまった。
「は、はい……」
吉田障子が苦しげな呻き声を漏らす。そんな彼に亜香里はニッコリとした笑みを向けた。
「私、君のこと知ってるよ」
「……え?」
「麗奈さんのファンの子でしょ?」
「あ、は、はい」
「やっぱり。じゃあ誤解されるようなこと言っちゃダメだよ」
「誤解……?」
「私のファンだなんて、麗奈さん、悲しんじゃうよ?」
「あ……」
亜香里は微笑み続ける。その細めた目も横に広げた唇も優しげだった。だが、その瞳のずっと奥ではゆらゆらとした黒い光が渦巻いていた。
「君、麗奈さんのことが好きなんでしょ?」
瞳の奥のドス黒い光が強まると亜香里の唇が更に大きく横に広がっていった。吉田障子が曖昧に首を傾げてみせると、亜香里も細い首を傾げ返す。
「どうしたの? 君って麗奈さんのファンなんでしょ?」
「あ……お、俺、麗奈ちゃんの事は好きだけど、でも、それよりも、もっとアカリの……いえ、大場先輩の大ファンで……」
「あらあら、浮気症な子ね」
パッチリとした二重の目を大きく丸めた亜香里の顔に満面の笑みが浮かび上がった。そうしてパチンと吉田障子の額にデコピンをした亜香里はスッと立ち上がると食堂に背を向けた。
「麗奈さんを悲しませちゃダメだぞ」
亜香里の長い足が前に出ると部員たちの足も前に動く。心霊現象研究部が食堂を去ると生徒たちは安堵の息を吐いた。既に五限目の授業中である。食堂を走り去る生徒たちを尻目に、優斗の手を借りてゆっくりと立ち上がった吉田障子は、薬指で頬を撫でながら壁に掛かった時計を見上げた。
富士峰高校の午後は静かだった。
決戦を明日に控えた生徒たちの表情はまちまちだ。テスト前という事で部活もなく、いつもより早い帰宅に生徒たちの制服は眩しい西日に焦がされていた。
一階の理科室の集まった者たちの表情もまちまちだった。臨時教諭の八田英一は額に汗を浮かばせており、教育自習生の大野木詩織は先ほどからずっと俯いたままである。それぞれが食堂の手伝いやらPTAの役員として学校を訪れている三人の幹部候補生たちは緊張で顔を強張らせており、用務員の荻野新平と彼の部下である中間ツグミのみが尊大に胸を逸らしていた。
「お、皆んな集まってんな」
「遅いっつーの、このドアホ!」
やっと理科室に現れた吉田障子に向かって睦月花子は怒鳴り声を上げた。その大声に三原麗奈の肩がビクリと震える。先ほどから麗奈はずっと不安げな様子である。そんな麗奈の震え続ける肩を姫宮玲華が甲斐甲斐しく揉み続けていた。
「こらモブ男! 大野木紗夜は何処にいんのよ!」
「はあ? 紗夜っちまだ来てねーの?」
扉は開けたまま理科室の中に足を踏み入れた吉田障子は驚いたような表情をした。田中太郎が扉を閉めようと立ち上がると、それを制止するように吉田障子は手のひらを前に向ける。
「まだ来てねーのじゃないっつの! こっちは忙しいのよ!」
「分かった分かった、探してくるからちょっと待ってろ」
「待てるか!」
「落ち着けって、紗夜っちがどの辺にいんのかは分かってるからよ。それに殴られた本人がこの場にいねーと、話し合いになんねーだろ?」
ギロリと荻野新平を睨み付けた吉田障子が声を吐き出すと、チッと舌打ちをした花子はイライラと腕を前に振った。
「なら早く探してきなさい」
「分かったってば。おっと、その前に」
片手を上げた吉田障子は太郎の隣をスッと抜けると、肩を震わせ続ける麗奈の側に歩み寄った。そうしてチラリと玲華の顔を流し見た障子は麗奈の腕をポンポンと叩くとニッと白い歯を見せた。
「大丈夫だって麗奈ちゃん、何も心配すんな」
「……うん」
「麗奈ちゃん、頑張れよ」
「……え?」
「ショータイムだ」
また麗奈の腕をポンポンと叩いた障子はポケットからアイフォンを取り出した。吉田障子の暗い瞳を思い出した麗奈はそっと顔を上げる。アイフォンの画面をタップする吉田障子の頬にはまた不気味な笑みが浮かんでいた。そんな彼の表情にゾッと背中を凍らせた麗奈は慌てて視線を落とした。
「じゃあ俺、紗夜っち探してくるからよ。それまでお前ら……」
「お姉ちゃん!」
真夏の日差しのような女生徒の明るい声が廊下から理科室に響き渡った。再び顔を上げた麗奈の瞳に燦々と煌めく三原千夏の眩い栗色の瞳が映る。理科室の中に飛び込んだ千夏は、呆然と立ち竦む吉田障子の横を抜けると、麗奈の側に駆け寄ってその手を掴んだ。
「お姉ちゃん! 立って!」
「ち、千夏ちゃん……?」
「先生が待ってるから、早く立って!」
千夏の勢いに気圧された麗奈は慌てて立ち上がった。アイフォンを片手に固まっていた吉田障子の頬がヒクリと引き攣る。それは麗奈が初めて見るような苦悩の表情だった。
「お、おい千夏ちゃん、なんでここに……」
「お姉ちゃん! 早く!」
千夏に急かされるままに理科室を飛び出した麗奈は廊下を走った。花子の怒鳴り声が麗奈の後を追いかける。
吉田障子は動かなかった。アイフォンをポケットに仕舞った彼は何かを思案するように薬指を頬に当てると、窓の向こうの桜並木にジッと目を細めた。




