生徒会書記の焦り
下風に巻き上がった砂塵が校舎裏の金網を抜ける。日中の陽は校舎に遮られず、燦々と照り付ける陽射しから逃れようとケヤキの青葉が体を揺らしていた。
田川明彦は指を震わせた。手渡された15枚の紙切れが異様に重かったのだ。
「気を付けろよ」
目の前の男の行く末を案じた言葉である。それはまた自分自身に向けられた警鐘でもあった。
カチリとライターのレバーを指で弾いた吉田障子の表情は柔らかかった。明彦から手渡されたメモを流し見た吉田障子はそれに火を付ける。ふっと一瞬燃え上がった炎が消えると、僅かに残った黒い破片を風に流した吉田障子は爽やかな笑みを作った。
「なにが?」
「その男をだよ。お前に紹介しといてなんだけどな、絶対に関わりは持ちたくねぇ相手なんだよ、ソイツは」
「へぇ、でも腕は良いんだろ?」
「ああ、一応な」
「ならいいよ、情報ありがとな。また頼むぜ、田川クン」
「もう勘弁してくれ。お前のせいでお経が頭から離れねーんだよ」
「はは」
弁当を持った数人の生徒が昼休みの校舎裏に姿を現した。一瞬青空を見上げた吉田障子はポケットに手を突っ込むと明彦に背を向ける。吉田障子の後ろ姿を見送った明彦はまた「気を付けろよ」と小さく呟いた。
昼時のファミレスは混雑していた。レジ前の列には終わりが見えず、チラリと見渡した限りでは空いた席も見当たらない。黒縁メガネをクイッと持ち上げた徳山吾郎は、彼の手を引く姫宮玲華のほっそりとした首元に息を伸ばした。
「玲華さん、場所を変えようか」
「席は空いてるから、ここで大丈夫だよ」
「おっと、それは本当かい?」
「うん。ねぇ吾郎くん、弁当はよかったの?」
「ああ、日暮れ時にまたお腹が空くからね。はは、僕はこう見えても大食漢なんだ」
「へー」
玲華の嫋やかな髪が僅かな空気の動きにふわりと浮かび上がると、窓辺の席に座っていた学生らしき集団が恨めしそうに吾郎の顔を睨み上げた。ふふん、と意味も無く制服の襟元を直した吾郎は玲華に手を引かれるままに店内の奥へと進んでいった。
「君はいつも外なのかい?」
「ううん、普段は弁当だよ」
「ほぉ、では何故今日は外なんだい?」
「吾郎くんとお話ししたいことがあってね」
「ははは、そうかそうか。いや、僕は学校でも良かったんだがね。噴水の側にお気に入りの場所があるんだ。ちょうど昼時になると桜の木が影を作ってね、涼しくてとても心地が良いんだよ」
「へー」
昼下がりのベンチで笑い合う男女。隣に腰掛けて弁当を広げる玲華の赤い唇を想像した吾郎の口元が自然と緩む。もしそんな姿を他の生徒に見られでもしたら、たちまち学校中の噂になってしまうんだろうな、と吾郎は心の中で一人ニヤニヤとした笑みを浮かべた。
「玲華さん、どうだい。昼食をベンチでというのも悪くないんじゃないか?」
「うん、でもベンチだとちょっと狭いかな」
「狭くはないさ。まぁ距離が近いというのは確かだが、二人で座るには十分な広さだよ」
「でも大勢で会議は出来ないよね?」
「……は?」
「それに今日は外じゃなきゃダメだって部長さんがうるさいんだよ」
ポカンと口を半開きにした吾郎の視界の端に店内奥のテーブルが映った。明るい窓辺の陽を遮る陰鬱な影。六人がけのテーブルで一人、背中を丸めた女生徒がジッとこちらを睨んでいる。その縁なしメガネの奥を漂う憎悪の光にゾッと背中の毛を逆立たせた吾郎はピタリと立ち止まった。吾郎の手をガッチリと握り締めていた玲華の体もつられて止まってしまう。だが、玲華はそれでも前に進もうと「むー」と吾郎の手を引っ張り続けた。
そんな玲華を無視して後ろを振り返った吾郎の瞳に鬼の顔が映る。二人の従者を引き連れた鬼の頬には不敵な笑みが浮かんでいた。
「いつまで手を握ってるんですか?」
ふっと耳元にかかる吐息。
その雪原の風のような声にうなじを凍り付かせた吾郎は、ゆっくりと、雪が舞い散るようなペースで首を横に動かしていった。紙一枚の距離である。カチリと吾郎のメガネが宮田風花のメガネにぶつかると、吾郎の絶叫が人の多い店内を木霊した。
「ねぇ徳山吾郎、聞いてるの? 収穫はあったんでしょーね?」
「収穫……?」
「アンタ前に色々と調べたいことがあるとか何とか言ってたでしょーが」
「ああ、うん、いやね……」
昼下がりの紅茶を楽しむ睦月花子の問いかけに徳山吾郎は曖昧な返事をした。
ファミレスの店内は相変わらず賑わしい。昼食という名のパフェを頬張る姫宮玲華の隣で宮田風花がチロチロとコーンポタージュを舐めている。熱いブラックコーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと注いだ田中太郎はそれを優雅に口元へと運んだ。そんな田中太郎と睦月花子の間に座る痩身の男。先ほどから吾郎は骸骨標本のように頬骨を浮かばせた足田太志から目が離せないでいた。
「美味い! 美味いぞ!」
メニューの端から端まで食い尽くしてしまうような勢いである。実際にはそれほど箸が進んでいるというわけでもないが、吾郎はそんな太志の豪快な食べっぷりに若干引いていた。
「で、どーなのよ。なにか分かったの?」
「いや、色々と分かったんだが……。その前に麗奈さんは何処だい?」
「吉田何某が入っちゃってる三原麗奈のこと?」
「ああ、いや……うん、その麗奈さんだよ」
「大野木紗夜とかいう奴が演劇部の部室に連れてっちゃったわよ」
「大野木紗夜?」
「あの二人、なーんか怪しいのよね。もしかしたら憂炎と三角関係かもしれないわ。ちょ、憂炎、どーすんのよアンタ!」
「んだよ、うぜーな」
なにやらテンションの上がったらしい花子が太郎の肩を揺する。うるさそうに首を振った太郎はまたコーヒーを啜った。
「三角関係とはどういう事だ?」
カラン、と吾郎が手に持っていたコップが音を立てる。氷水で乾いた唇を潤した吾郎の面持ちはいつになく真剣だった。
「それがなんと、なんとよ! 徳山吾郎、聞いて驚くことなかれ。実は吉田何某の奴、恋愛対象が男だったのよ!」
よほど興奮しているのか、まだ湯気の立つ熱い紅茶を一気飲みした花子は右隣で口を動かし続ける太志の皿にフォークを突き立てると、彼の悲痛な叫びなど無視して幅の大きなステーキを強引に掻っ攫った。
「恋愛対象が男か……」
「そうよ、そうなのよ! しかも相手は憂炎よ! たく、アンタねぇ、いったいどーするつもりなのよ?」
「うるせぇっつの」
「ふふふ、素直じゃない男ね。しゃーない、私が人肌脱ぐとしますか」
グイッと夏服を肩まで引き上げた花子の瞳にウキウキとした光が瞬いた。対照的に、メガネの位置を直した吾郎の瞳には暗い影が差している。そんな吾郎の様子に花子は片方の眉を吊り上げた。
「何か言いたげね?」
「ああ、早急に確かめねばならない事があるんだ」
「なによ?」
「麗奈さん、いや、吉田くんを僕の前に連れてきてもらいたい。彼本人に聞かないと確証が得られないからね」
「たく、そういう事は先に言っとけっつーの。二度手間じゃないのよ」
「それは僕のセリフさ! まったく、玲華さんと二人きりの昼食を楽しみにしてたというのに、不意打ちもいいところだ」
ふん、と吾郎は腕を組んだ。そんな吾郎に向かって日本刀の剣先が如き鋭い二つの視線が突き刺さる。
「そうだよ、そうだった……! 徳山書記! 今から君を断罪する!」
飛び上がるようにして立ち上がった太志は握っていた箸ごとテーブルに左手を叩き付けた。その勢いに驚いた吾郎は腕を組んだまま顔を上げる。目の下に青黒いくまを作った男の憤怒の表情に吾郎はゴクリと唾を飲み込んだ。
「楽しみにしてたんですか?」
ふっと吾郎の耳の産毛が極寒の風に揺らぐ。
全身の毛を逆立たせた吾郎は、ゆっくりと、桜が舞い散るようなペースで視線を横に動かしていった。メガネとメガネがぶつかる音。吾郎の絶叫が雑多な店内を木霊する。
「ねぇ憂炎、なーんでこんな奴らにうちの部活潰されちゃったのかしら」
「さぁな」
ズズッとコーヒーを啜った太郎は単語帳に視線を落とした。昼光を透かすパフェグラスがテーブルに三つ。やれやれと腕を組んだ花子はチョコレートパフェを口いっぱいに頬張る玲華に視線を向けた。
「姫宮玲華、放課後にまた緊急会議を開くわよ」
「はかったよ」
「アンタは三原麗奈、じゃなかった吉田何某を連れてきなさい」
「ほうじ? ほっけー」
「おい部長、ちょっと待てよ」
「なによ?」
メガネの位置を直した太郎に花子は首を傾げた。
「放課後は話し合いがあんだろ。つーか新九郎のライブはどうすんだよ?」
「ああ、そうだったわね。じゃあ会議は話し合いの後ね」
「だからよ……」
「アイツらとの話し合いなんてちゃちゃっと済ませちゃうわよ。それからヤナギの幽霊の緊急会議で、会議が終わり次第ライブ会場にカチコミね、秀吉の家は新九郎をギタギタにシバき倒した後よ」
「いやいやいや、忙し過ぎんだろ!」
「なーによアンタ、ビビってんの?」
「ビビるわ! テストは明日だぞ!」
「まさかテストに自信がないの?」
「いや、自信とかの問題じゃねーだろ! なぁ部長、頼むから常識的に考えてくれ」
太郎の表情は深刻である。そんな太郎に花子は「はん」と鼻で息を吐いた。
「アンタこそ一度頭ん中を真っ白にしてみなさいよ」
「はあ?」
「万全じゃない状態で定期テストを受けることの何がいけないのよ。何度も言うけれど、アンタにとっての本番って受験でしょ?」
「そうだけどよ、でもテストだって……」
「別に徹夜しろだなんて言ってないわよ。いいえ、むしろ徹夜するなっつってんの。憂炎、アンタどうせ今日は徹夜して勉強するつもりだったんでしょ?」
「いや、まぁ……」
「徹夜して詰め込みました。はい、テストで良い点取れました。はん、ねぇ憂炎、それの何処が良いのよ? むしろ最悪でしょーが!」
「な、なんでだよ……?」
「本当の実力じゃないからよ! たまたまヤマが当たって取れたような点数の何処に意味があるってのよ! むしろ自分の弱点が分からないことの方が最悪だっつーの!」
「睦月さんの言う通りだ」
パクリとポテトを口に放り投げた太志の顎がもぐもぐと縦に動く。既に断罪は終えた後なのだろうか、吾郎の黒縁メガネはコーンポタージュの淡黄の底に沈んでいた。吾郎本人はといえば、キヒヒと不気味な笑みを浮かべた風花に頭を押さえられている。
「田中くん、明日は無心で挑み給え」
「いや、でも……」
「そうして浮かび上がった弱点こそが大切なんだ。それを夏休みの内に徹底的に取り組むんだよ。そうすれば君はまた一つ上のステップに登る事が出来るだろう」
「は……!」
「なに、点数は気にするな。先ずは実力を伸ばすことだけを考えるんだ」
「わ、分かりました! 明日は無心で挑む事にします!」
他でもない生徒会長の言葉に感動した太郎は深々と頭を下げた。うんうんと顎を縦に動かし続ける太志にボソリと花子は耳打ちする。
「アンタさっき勉強してなかったっけ?」
「そりゃするさ。俺は学年一位を狙ってるんだぜ?」
ふふんと無邪気なウィンクをみせた太志は得意げな様子である。花子は呆れたようにため息をついた。




