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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第二章

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準備万端


 吉田真智子は冷静だった。

 突然現れた三人を温かく迎え入れ、頬を赤く腫らした大野木紗夜の手当てをし、涙を流し続ける三原麗奈の頭を優しく撫でた吉田真智子は落ち着いていた。

 母は常に平静だった。



「あらあら麗奈ちゃん、それは大変だったわね」

「うっ……うっ……」

「大野木さんも、本当に大丈夫なの?」

「はい、大丈夫です」

「千夏ちゃんも、大変だったわね」

「……はい」

 吉田真智子の用意したお茶を三人の女生徒が静かに啜る。頬に絆創膏を貼った大野木紗夜はくつろいだ様子であり、極限まで肩を縮こめた三原千夏は借りてきた猫よりも大人しい。久しぶりに我が家を訪れた三原麗奈はといえば先ほどから一向に嗚咽が止まらず、拭っては溢れ出る涙と鼻水に丸まったティッシュの山が、吉田家のゴミ箱を覆ってしまっていた。

「あれぇ、麗奈ちゃんまだ泣いてんの?」

 私服姿の吉田障子が居間に現れる。猫っ毛のその柔らかな髪には艶があり、家に招いた女子高生三人を放って勝手にシャワーを浴び始めた吉田障子はスッキリとした面持ちとなっていた。そんな彼に微笑む者は大野木紗夜のみであり、彼の母である真智子ですらも彼の行動に憤りを感じているのか、真智子が息子を見る目は異様に冷たかった。

「おい、俺の茶は?」

「自分で用意しなさい」

「チッ」

 真智子が障子を見る目が冷たければ障子が真智子を見る目も冷たい。障子の鋭い舌打ちが居間を走ると、涙が止まった麗奈は代わりに胸が締め付けられるような圧迫感を覚えた。

 け、喧嘩してるのかな……。

 麗奈は母親であった真智子と喧嘩した記憶がなかった。自分が怒りを見せた際は真智子の方がそれを宥めようと優しく微笑んでくれて、真智子が自分に怒りを見せた際も、多少不貞腐れることはあれど、反抗などしたことなかったからだ。麗奈は真智子のことを信頼していた。真智子が自分を愛していることを信じて止まなかった。

 だが、今目の前で冷ややかな視線をぶつけ合う二人の間柄はどうなのか。母と息子であるにも関わらず二人の間に信頼関係は見えない。敵対すらしているように思える。

 麗奈は怖くなった。息子を見つめるそんな母の視線が怖かった。そして、悲しかった。二人に仲良くして欲しいと麗奈は祈るように指をギュッと握り締めた。

「おーい、帰ったぞ」

 障子の父親である吉田健二の帰宅に、張り詰めていた家の空気が僅かに緩くなる。居間に顔を覗かせた健二はテーブルに座った女子高生三人に驚いた顔をした。

「おお? なんだなんだ、随分と華やかじゃないか」

「あら貴方、あたし一人じゃ簡素だとでも言いたいの?」

「わっはっは、お前一人でも華やか過ぎるほどに華やかだよ」

「父さん! コイツら俺が呼んだんだぜ!」

「おいおい障子、わっはっは、一人にしておけよ?」

「へへっ」

 前髪を七三に分けた健二の登場により居間の空気が和むと、ほっと息を吐いた紗夜も吉田家の皆んなと一緒になって笑い始めた。だが、麗奈の胸の圧迫感が消えることはなく、そんな健二の豪快な笑い声に不快感すら覚えてしまうのだった。

 なに、これ……。どうなってるの……。

 父と息子が笑い合う目の前の光景に吐き気を覚えた麗奈は下唇をグッと噛み締めた。

 麗奈は父の事が好きじゃなかった。父との間に血の繋がりがなかったからだ。それを知ったのは小学生の時で、その頃から麗奈は健二の事が大嫌いだった。大嫌いな父を信頼したことなどなく、当然父と笑い合った記憶などはない。父が居間に現れると空気が冷えてしまうのが麗奈にとっての日常だった。

 そんな健二が家族と笑い合っている姿が麗奈にとっては異常だったのだ。もはやこの家は自分の知っている家ではないのだと察した麗奈は寂しくなった。

 もう嫌だ、帰りたい……。でも、何処に……?

「麗奈ちゃん、どうしたよ?」

 俯いた麗奈の苦悩に満ちた表情に吉田障子はスッと目を細めた。麗奈の震える肩に障子の手が乗っかると、カッと頬を熱くした麗奈はその手を振り払った。

「もう帰ります……」

 怒りのこもった麗奈の言葉に真智子は少し慌てた様子で立ち上がった。

「ど、どうしたの? もう少しゆっくりしていきなさいよ?」

「いえ、帰ります……」

「ねぇ麗奈ちゃん、もしも何か嫌なことがあったなら、あたしに話してみて?」

 真智子は微笑んでいた。その微笑みは麗奈がよく知っているものだった。また涙が溢れそうになった麗奈は慌てて視線を落とした。

「なぁ麗奈ちゃん、この家の雰囲気、良いだろ?」

 目を細めたまま吉田障子の唇が横に開く。求められている答えのよく分からない質問である。ただ、そんな障子の態度に不快なものを感じた麗奈は震え続けるローズピンクの唇を縦に開いた。

「お、お父さんと仲良いんだね……」

「はぁ?」

 皮肉のつもりだった。心が平凡な三原麗奈にとっては血の繋がっていない親子関係というものが歪なものだったのだ。だが、今度は吉田障子の方が麗奈の言葉の意図を掴めなかったのか、口は半開きのままに彼は視線を斜め上に向けてしまう。

「……麗奈ちゃんは仲良くねーの?」

 僅かな沈黙の後に視線を戻した吉田障子が質問を返す。麗奈は何も答えなかった。何も答えたくなかったからだ。そんな麗奈の様子を見兼ねたのか、ポンッと手を叩いた真智子が麗奈に向かってまた優しげな微笑みを向けた。

「麗奈ちゃん、ケーキ食べる?」

「いらない」

「そっか、ほら障子、冷蔵庫の中のケーキ取ってきて」

 いらないって言ったのに……。

 ムッと麗奈は小さな怒りを覚えた。だが、そんな不貞腐れた麗奈を無視するような真智子の対応には何処か懐かしいものがあった。

「ねぇ麗奈ちゃん」

 麗奈の耳元に真智子が唇を寄せる。チラリと視線を上げた麗奈は、父親の健二がいなくなっている事に気が付いて肩の力を抜いた。

「麗奈ちゃん、妬いてるんでしょ?」

「焼く?」

 真智子の言葉の意味が分からなかった麗奈は、いったい何を焼いているのだろうかと、台所のオーブントースターに視線を送った。そんな麗奈に真智子はパチリと片目を閉じてみせる。

「障子が女の子にモテるから、麗奈ちゃん、怒ってるんでしょ?」

「……は?」

「うふふ。でもね麗奈ちゃん、うちの障子はどうやら麗奈ちゃん一筋みたいだから、安心してね」

 なに言ってんだこの人……。

 したり顔の真智子に唖然とした麗奈はふるふると首を横に振ってみせる。吉田障子が鼻歌まじりに箱に入ったケーキを持ってくると、顔を上げた真智子はそんな彼に向かって鋭い声を上げた。

「障子! アンタね、ホイホイいろんな女の子を家に連れ込むのはもう止めになさいよ!」

「はあ? んなの母さんには関係ねーし、つか、ホイホイ連れ込んでなんかねーし」

「ちょっと前に玲華ちゃんを家に連れ込んでたじゃないの!」

「ええっ!」

 真智子の言葉に麗奈の体が飛び上がる。もしそれが本当だとしたら大変な事だ、と焦った麗奈は全身に冷や汗をかきながらも吉田障子の顔をギロリと睨み付けた。だが、とうの障子は真智子の放った言葉の意味が分からなかったのか、キョトンとした表情で首を傾げていた。

「……俺が玲華ちゃんを?」

「……何をとぼけてんのよ、あんた」

 再び沈黙が部屋を襲った。異変を感じた千夏が顔を上げる。だが、もはや麗奈には定期的に訪れる沈黙などどうでもよかった。

「……ああ、そういやそんな事もあったっけ」

「……そうよ。気をつけなさいよ」

「そ、それ、違うと思います!」

 今度は真智子と障子が麗奈の大声に飛び上がった。麗奈にとって玲華は厄介者以外の何者でもなく、そんな玲華に吉田障子が惚れているなどという勘違いを誰にもされたくなかったのだ。顔を真っ赤にした麗奈が、あたふたと、しどろもどろになって障子と玲華の間柄の説明を始めると、真智子は高らかな笑い声をあげた。

「あはは、もういいって、麗奈ちゃんの言いたい事は分かったから」

 本当に分かったのだろうか、と麗奈の視線は訝しげである。壁に掛かった時計を見上げた障子はそんな麗奈に向かってケーキの箱を持ち上げた。

「なぁもう遅いし、麗奈ちゃんたちさ、このケーキ持って帰ってくれよ」

「え?」

「俺、家まで送るからさ。ほら、あんな事あったばっかだし、暗くなる前に帰んねーとよ」

 吉田障子の言葉に先ほどの恐怖が蘇った麗奈はコクリと首を縦に振った。そんな麗奈に向かって何やら慌てた様子の真智子が携帯を取り出した。

「麗奈ちゃん麗奈ちゃん、ほら、一応番号を交換しておきましょうよ! あたしも、あなたの事が心配だから!」

 コクリと麗奈はまた首を縦に動かす。母親である真智子と繋がりを持てる事が嬉しかったのだ。

 真智子と番号を交換した麗奈は、満面の笑みを浮かべた紗夜と目を虚ろにした千夏と共に吉田家を後にした。三人を送ると言って止まない吉田障子は既に先ほどの怪我は完治している様子であり、吉田家から三原家までの歩いて30分ほどの道のりには紗夜と障子の明るい声が響き続けた。



「もういいもん!」

 三原千夏は終始不機嫌だった。三原家に戻った千夏はとうとう我慢の限界に達したようで、家に上げてくれという吉田障子の強引な要求を受け入れてしまった麗奈に対して、怒鳴り声を上げた千夏は家の中へと飛び込んでしまった。

「千夏ちゃん、待って!」

 麗奈の声が勢いよく閉じられた扉にぶつかって消える。肩をすくめた吉田障子がその扉に近づくと、流石にこれは良くないと思った麗奈は彼の腕を掴んで引っ張った。

「やっぱダメ!」

「……麗奈ちゃん、そりゃないぜ。俺、さっき麗奈ちゃんを守る為に腹ぶん殴られたんだけど?」

「そ、そうだけど……。でも、それとこれとは話が違うような……」

「俺ん家に麗奈ちゃんたち招いてあげたんだし。な、ちょっとくらいいいだろ?」

「障子くん、アナタまさかこれが目的だったの?」

 やれやれと大野木紗夜はため息をついた。どうすれば良いのかと麗奈がオロオロとしていると、そんな麗奈に背を向けた吉田障子はまるで自分の家に足を踏み入れるかのような調子で三原家の中へと入っていってしまう。そうしてズンズンと家の中を進んでいく吉田障子に飛び上がった麗奈は慌てて彼の後を追い掛けた。

「お邪魔しまーす」

 階段を上がった吉田障子は何の躊躇もなく麗奈の部屋の扉を押し開けた。驚いた麗奈は彼の後を追って部屋に飛び込むと、桃色のベットに腰掛けた吉田障子に対して訝しげな視線を送った。

「な、なんで部屋が分かったの……?」

「匂い」

 得意げに自分の鼻を指差す吉田障子に呆れ返った麗奈は肩を落とした。

「ふー、疲れた……。あー、なんか全身が痛ぇよ……。なぁ麗奈ちゃん、水を一杯持ってきてくんねぇか?」

「う、うん……」

 ベットの上で項垂れた吉田障子の声は本当に疲れ切っているようだった。そんな彼の身が心配になった麗奈は部屋を飛び出て階段を駆け下りると、まだ玄関で靴を脱いでいる途中だった紗夜を尻目に台所へと向かった。棚から透明なコップを取り出した麗奈は冷蔵庫からウォーターポットを取り出す。滴り落ちる冷水がコップを満たしていく最中、誰かの手が麗奈の肩に触れた。

「ちょっと休んだら治ったよ。麗奈ちゃんの部屋にいたおかげかも」

 満面の笑みの吉田障子に驚いた麗奈はコップを倒してしまう。慌ててタオルで床を拭き始めた麗奈に向かって吉田障子は片目を閉じた。

「なぁ麗奈ちゃん、幸せになろうぜ」

「……え?」

「じゃあ俺、帰るわ」

「ちょ、ちょっと!」

 吉田障子が玄関に向かって歩き始めると、濡れたタオルを掴んだまま麗奈はその背中に手を伸ばした。

「ねぇ君さ、ほんと何しに来たの?」

 吉田障子の態度に不審なものを感じた麗奈は声を低くした。振り返った吉田障子は満面の笑みと共に冬の夜空のような冷え切った瞳を麗奈に向ける。

「別になんでもねーって」

「なんでもって……」

「準備万端さ」

「え?」

「じゃ、麗奈ちゃんまた明日! 愛してるよ、マイプリンセス!」

 そう片手を上げた吉田障子は外へと飛び出していった。やっと靴を脱ぎ終わった紗夜と麗奈は唖然としてその後ろ姿を見送った。



 三原家の夜は普段通りだった。良く笑う母に陽気な冗談を言う父。しおらしい麗奈はいつもの事のようであり、塞ぎ込んだ千夏もいつもの事らしい。

 だが、麗奈にはそんな千夏の様子が心配だった。その為、麗奈は一人もんもんと眠れない夜を過ごしたのだった。

 深夜1時。カチャリと扉が開かれる音に、桃色のベットの上で朝を待っていた麗奈はビクリと体を起こした。

「だ、だれ……?」

「お姉ちゃん」

「千夏ちゃん?」

 寝巻き姿の三原千夏が麗奈の部屋にヌッと足を踏み入れる。薄暗がりの部屋で、ゆらり、ゆらりと体を左右に揺する千夏の様子は普通ではなかった。

「ど、どうしたの?」

「お姉ちゃん」

 のそりとベットに這い上がった千夏の栗色の瞳が麗奈に近づいてくる。少し怖くなった麗奈は毛布を唇の辺りまで持ち上げるとベットの端で身を縮めた。

「ち、千夏ちゃん……?」

「お姉ちゃん」

「は、はい……」

「吉田障子には気を付けて」

「え? あ、うん……」

 麗奈がコクリと顎を動かすと、視線を逸らした千夏はそのまま無言で部屋を出ていってしまった。暫く呆然と扉を見つめていた麗奈の視界がボヤリと不明瞭になっていく。

 えっと……。あれ、何してたんだっけ……?

 一瞬、自分のいる場所が分からなくなった麗奈は薄暗がりの中で壁に掛かった時計を見上げた。


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