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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第二章

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忙しい女


 睦月花子は忙しい女である。

 特に彼女を取り巻く世界が変わってからはそれが顕著となっており、今の花子には立ち止まっている暇などなかった。ヤナギの幽霊及び超自然現象研究部の復興が彼女の最大の目的とも言えたが、その二つよりも優先すべき差し迫った問題を彼女は抱えていたのだ。神道霊法学会との争いなどもはや彼女の眼中にない。何故か不登校となっていた小田信長とバンドに明け暮れる鴨川新九郎を学校に連れ戻すべく、花子と田中太郎は学校の外に向かって走っていた。



「おい花子!」

「睦月さん!」

「あん?」

 今まさに睦月花子の足が学校の外に飛び出ようとしていたその時、彼女の背中に向かって生徒会長の足田太志と将棋部部長の宮藤新一が同時に声を上げた。

「なによ?」

「将棋はどうしたんだよ! 奨励会の入会試験日まであと少しだろ!」

「そうだよ睦月さん! 君の将来が掛かっているんだぞ!」

「うるさいっつのよ! たく、あたしゃ忙しいのよ! 将棋なんてやらないっつってんでしょーが」

「おいおい、おいおいおい……花子! そんなの冗談じゃ済まねーぞ! お前、藤元先生の面目を潰す気か!」

「ああその藤元何某だけど、もう私、そいつから破門されちゃってるから何の問題も無いわ」

「……は?」

「仰々しい破門状が昨日家に届いたのよ。たく、その藤元って奴、ヤクザか何かなんじゃないの?」

「お、お前……」

「んな事より、足田太志! 明日、八田英一って奴とアンタんとこ行くから、覚えときなさいよ!」

「お、おい! ちょっと待て、睦月さん!」

「じゃ、私は忙しいからもう行くわね」

 颯爽と走り出す女。何やら申し訳なさそうに頭を下げた田中太郎がその後に続く。校庭を走り去る花子の後ろ姿を呆然と見送りながら、新一と太志は肩を落とした。



 演劇部は夏の高校演劇地区大会に向けて大忙しだった。昨年の雪辱を果たす為に彼女たちは旧校舎の小さな舞台の上で日々汗を流し続けている。

 だが、そんな彼女たちはある不安要素を抱えていた。

 部長の三原麗奈が脚本を務めた舞台「屋根の上の城」が今年の富士峰高校演劇部の演目だったのだが、その主人公のウサミユウダイ役である三原麗奈本人の調子がどうにもずっとおかしいままで、とてもではないが舞台に立てるような状態ではなかったのだ。大会までの日程はごく僅かであり、彼女たちは主人公役を急遽変更すべきではないかと頭を悩ませていた。



「部長の調子、まだ戻らないんですか?」

 衣装部屋を掃除していた後輩の一人が副部長の笹原美波に声を掛けた。前髪を下ろした大人しそうな一年生だ。男物の白い衣装はないかと部屋を訪れていた美波はその後輩の不安げな表情に肩をすくめた。

「ええ、そうみたいね」

「部長、いったいどうしちゃったんですか?」

「別にいつもの事よ。だから、心配しなくていいわ。ただ、普通なら2、3日で元に戻るんだけど、今回は少し長いわね」

「舞台の方はどうするんですか?」

「部長本人から主人公役を変更するよう指示がきてるの。だけど、あの人以外に主人公役をこなせる人がいないから困っているのよ」

「副部長はどうなんですか?」

「私は無理よ、もう役も決まってるし。もしも代役を作るなら、役のない一年生からと言うことになるのだけれど、でも、流石に一年生に主人公役を任せるわけにはいかないものね」

「千夏ちゃんならいけるんじゃないですか?」

「千夏ちゃんか……。確かにあの子には光るものがあるわ。でも、可哀想だけれど部長の代わりにはならないわね」

「どうしてですか? 千夏ちゃんは部長の妹ですよ?」

「そうね、でも舞台の上では関係ないの。まあ、千夏ちゃんにも才能はあるのでしょうけど、部長のそれとは比べられないわ」

「部長ってそんなに凄いんですか?」

「凄いなんてもんじゃないわよ。あの人が役にハマり込むと人格そのものが変わってしまうの。あれはそう、まるで口寄せね」

「口寄せ?」

「誰かが乗り移ってるんじゃないかってくらいね、そう思えるほどに部長の演技は凄いのよ」

「へー、じゃあ今の部長もその口寄せの状態なんじゃないですか?」

「ふふ、そうかもしれないわね」

 後輩の見せる何処までも純粋な瞳の光に笹原美波は優しく微笑んだ。



 ひと気のない花壇で千日紅が風に流れる。

 三原麗奈は先ほどから何をするわけでもなく、何を考えるわけでもなく、ただジッとその赤紫色の花の群を眺めていた。何もしたくない時間は旧校舎のヤナギの木を眺めるのが麗奈の習慣だった。だか、麗奈はもう旧校舎には近付きたくなかったのだ。その為、仕方なく麗奈は花壇に咲く花に視線を落としていた。

「ねぇ麗奈、何処か行かない?」

 ふるふると麗奈の首が横に動いた。麗奈を挟んだ左右に座っていた大野木紗夜と三原千夏が顔を見合わせる。

「じゃあお姉ちゃん、もう帰らない?」

 艶やかな麗奈のアッシュブラウンがさらさらと横に流れる。紗夜と千夏はまた目を見合わせた。

「麗奈、図書館行かない?」

 横に動く麗奈の頰。目を見合わせる二人。

「じゃあもう部活に戻ろうよ」

「部活、辞める」

 耳を塞いだ麗奈のローズピンクの唇が縦に開いた。その視線は目の前の花の群に固定されたままである。いったい何度目だろうか、また目を見合わせた紗夜と千夏はため息をついた。

 つい先ほどの事だった。二人と共に、久しぶりというか初めて部活中の演劇部を訪れた麗奈こと吉田障子は、彼女を慕う部員たちの熱意に流されるままに練習に参加させられ、そして、半ば無理やり立たされた舞台の上で動けなくなってしまったのだ。紗夜と千夏に引き摺られてやっと舞台を下りた麗奈だったが、よほど心の傷が深かったのだろうか、演劇部を後にした彼女は旧校舎とグラウンドの間に位置する花壇の前に座り込んだまま動かなくなってしまった。何故だか家には帰りたくないといい、大好きな筈のショッピングにも興味を示さず、普段ならば花より団子といった態度の麗奈が花を眺め続ける始末。いったいどうしたものかと紗夜と千夏は途方に暮れていたのだ。

「おい」

 低い男の声が彼女たちの頭上を通り過ぎた。突然の事である。驚いて視線を右側に向けた紗夜の目に灰色の作業着を着た小柄な男が映った。三十代半ばくらいだろうか、無造作に切り合わせたような短髪と顎を覆う無精髭がその小柄な男に野生的な印象を与えている。目付きは鋭い。そして、その瞳は陰鬱な色に濁っていた。

「おい」

 男がまた低い声を出すと、麗奈の手を握り締めた紗夜はゆっくりと腰を上げた。見覚えのない不審な男に強い警戒心を抱いていたのだ。ザッと男が足を踏み出すと、慌てて立ち上がった紗夜は心ここに在らずの麗奈の腕を強く引っ張った。既に立ち上がっていた千夏の見開かれた瞳に紗夜は気が付かない。

「おい」

「れ、麗奈! 立って!」

「おい、待て」

「こ、来ないで! 誰か! 先生!」

「待て、大野木紗夜。俺はここの用務員だ」

「え?」

「姉から何も聞いてないのか?」

「……お姉ちゃんですって?」

 男の「姉」という言葉に冷静さを取り戻した紗夜の瞳に冷たい光が浮かび上がった。やっと目の前の男に気が付いた麗奈の頬が恐怖に引き攣る。生徒会室で出会ったこの男の事を麗奈は覚えていたのだ。荻野新平の陰鬱な瞳を麗奈は忘れていなかった。

「……まさか心霊学会の方ですか?」

「そうだ」

「……心霊学会の方がここに何のようですか?」

「お前には関係ない」

「……アナタ、自分は用務員だって言ってましたけど、心霊学会の方が用務員ってどういう事ですか?」

「別にどうという事はない。学会員だろうと仕事はせねばならんのだ」

「……ふん」

 紗夜の瞳が侮蔑の色に染まる。紗夜に手を掴まれていた麗奈はそんな彼女の冷たい表情にも強い恐怖を覚えた。目の前の小柄な男と同じくらい大野木紗夜の存在が麗奈には怖かったのだ。

「……じゃあお仕事頑張ってくださいね。ほら麗奈、千夏ちゃんも、もう帰るよ」

「え、あ、うん」

「待てと言ってるんだ」

「……なんなんですか?」

 別人かと思えるほどに紗夜の声が冷たい。荻野新平の表情は陰鬱なままである。

 千夏の身だけは守らないと、と決意を固めた麗奈が後ろを振り返った。だが、その千夏もまた麗奈が知らないような冷たい表情をしているのだ。その異様さに胸の芯まで冷え切ってしまった麗奈の足が震え始める。紗夜に手を掴まれたまま下を向いた麗奈は、恐ろしくも何処か頼りになる姫宮玲華に向かって心の中で助けを求めた。

「三原麗奈、俺はお前に用があるんだ」

「……麗奈は忙しいので。さ、麗奈、行くよ」

「待てと言ってるんだ!」

 低い声で花壇の花を震わせた新平の腕が麗奈に向かって伸びる。悲鳴を上げた麗奈が地面に倒れると、紗夜の怒鳴り声が校舎を木霊した。だが、新平は狼狽えない。地面に倒れた麗奈の胸ぐらを掴んだ新平は、その陰鬱な瞳で麗奈の目の奥を覗き込んだ。

「お前はヤナギの霊なのか? どうなんだ? もしヤナギの霊だというのならば、今すぐ俺をあの場所に送れ」

「え……?」

「早くしろ!」

「あ、あ……」

「麗奈に触んな!」

 怒りに顔を歪ませた紗夜が新平に飛び掛かる。すると新平は地面にしゃがみ込んだまま裏拳で紗夜の頬を殴り飛ばした。花壇に向かって紗夜が倒れ込むと、カッと頬が熱くなった麗奈は腕を振って暴れ始めた。

「は、離せ! 大野木さん、大野木さん! 千夏ちゃん、逃げ……ぐっ……!」

 新平の手が麗奈の口を塞ぐ。凄まじい力だった。上から押さえつけられた麗奈にはもはや抵抗する術がなく、涙で濡れた瞳で下から睨み付ける事しか出来ない。

「うっ……うっ……」

「早くしろ! 早く俺をあの場所に送れ! 三原麗奈!」

「何してんだ、テメェ!」

 甲高い叫び声と共に、一人の男子生徒が新平の体に突進した。ワックスで固めた猫っ毛の天パ。新平を突き飛ばした吉田障子は素早く体勢を立て直すと、地面に倒れていた麗奈を助け起こした。

「麗奈ちゃん! 大丈夫か!」

「あ、う、うん……」

「おいテメェ! このクソ野郎が! 自分が何やったか分かってんだろうな!」

「またお前か」

 新平は既に立ち上がっていた。その瞳に翳りはなく、その体幹もブレていない。吉田障子がまた何かを叫ぼうとしたその時、新平の上半身がフッと前に揺れた。一歩で間合いを詰めた新平の正拳突きが障子の腹を貫く。「コッ」と息を吐いた障子が前屈みに倒れると、また鋭い悲鳴を上げた麗奈が障子に向かって腕を伸ばした。

「どうしたの?」

「なに? まさか喧嘩?」

「なにやってんの?」

 騒ぎを聞き付けた生徒たちの声が花壇に集まってくる。視線のみを周囲に走らせた新平はその陰鬱な表情を変える事なく微かに肩を落とした。作業帽を被り直した新平が二人に背を向けると、その後ろ姿を睨みながら立ち上がった麗奈は、地面に向かって嘔吐を続ける吉田障子の元へと駆け寄った。


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