不可解な男
夜の学校を抜け出して数日、いや、ヤナギの木の前で姫宮玲華に声をかけられたあの日から約二週間、喧騒に満ち溢れていた長い長い毎日が嘘のように、三原麗奈もとい吉田障子の元には平穏な日々が訪れていた。緊急会議を開くと放課後の理科室に集まったのは先週の事だ。結局、途中でお開きとなった会議は再開されないままである。
「麗奈、千夏ちゃん、おはよー!」
「お、おはよ」
「紗夜先輩、おはようございます!」
「千夏ちゃん、先輩は付けなくていいよ」
青空の下を生徒たちの列が進んでいく。富士峰高校の正門前は相変わらず渋滞していた。週初めのそんな光景にげんなりとさせられた麗奈だったが特に違和感は覚えなかった。玲華と話すようになってから今日までの間、違和感の連続だった麗奈にとってはもはや学生証が無ければ学校に入れないくらい何ということもなかったのだ。
「二人とも週末は大丈夫だったの?」
「はい、お姉様は大丈夫でございましたよ」
「お姉様って、もー」
三原千夏の背筋がピンと伸びると、彼女の茶色いローフォーが正門前のレンガ畳をコツンと叩いた。そんな千夏の敬礼に大野木紗夜は頬を膨らましてみせる。
週末は用事があるからと紗夜が両手を合わせた為に、嫌々ながらも本来の帰るべき場所である三原家に帰った麗奈だったが、麗奈が恐れていたほどに惨めで気まず過ぎるような状況は訪れなかった。人見知りな麗奈こと障子のオドオドとした態度に対して麗奈の両親は「なんだお姫様モードか」と軽く首を傾げてみせたのみだったのだ。むしろ麗奈は気まずさよりも苛立ちを感じたぐらいだった。麗奈が何かアクションを起こす度に、例えばくしゃみなど、父親である三原芳雄がいちいち麗奈をからかってくるのだ。「お姫様のくしゃみだ」「お姫様が風邪を引いてしまうぞ」「ああ我が姫よ、大事はございませぬか?」等々。そんな初対面の中年男に対して初めは曖昧な表情を返すのみだった麗奈も、その芳雄のあまりの執拗さに段々と腹が立っていき、やがて、ぷいっと無視するようになった。だが、それもどうやら何時もの事らしく、そんな麗奈に対して「ああ、お姫様が拗ねてしまった」と芳雄はニヤニヤと肩をすくめてみせるばかりだった。そんな男とのやり取りのおかげか、麗奈こと障子が三原家に慣れるのは意外にも早かったのだ。
「皆んないつも通りにございましたよ」
「ならよかった。でも、千夏ちゃんはいつも通りじゃなさそうね」
「あたしもいつも通りにございましたよ」
「そうでございましたか」
千夏のチグハグな口調を可愛らしく思ったのか、紗夜の口元に微笑みが浮かぶ。やがて前にいた生徒たちが正門の奥に消えると麗奈はポケットから学生証を取り出した。回転扉の暗い銀色。校舎の窓が朝日に明るい。
校庭に足を踏み入れた麗奈はすぐに頬を強張らせた。先に中に入っていた千夏はすでに臨戦態勢である。
「麗奈ちゃーん! マイ・プリンセス! 会いたかったよ!」
猫っ毛をワックスで光らせた吉田障子の登場に、千夏は威嚇する猫のような唸り声を上げた。
「吉田! 先輩には敬語使えって言ってるでしょ!」
もはや完全に敵として認識しているような口調である。そんな怒れる千夏が吐き捨てるように言った「吉田!」という名前に麗奈は複雑な面持ちとなった。
「麗奈ちゃん、週末は楽しめたん? もうすぐ夏休みだし、俺とどっかデート行こーぜ!」
「行かないよ! お姉ちゃんは部活で忙しいの!」
「ちぇ、最近の千夏ちゃん、なんだか冷たいぜ。つか、俺、麗奈ちゃんに聞いてんだけど」
「だから行かないって言ってんじゃん! あんたは明後日の期末テストの心配でもしてなさいよ! だいいち、吉田ごときとお姉ちゃんが釣り合うはずないでしょ!」
「吉田ごとき……」
「まあまあ、千夏ちゃん、そんなに目くじら立てなくてもいいじゃない」
「紗夜先輩は吉田の奴に甘過ぎますよ!」
怒れる千夏とは対照的に紗夜の表情はふんわりと柔らかかった。そんな紗夜の呑気さに千夏の怒りがヒートアップする。麗奈の周りを彷徨き回る吉田障子という名の変態に対して、麗奈本人でなく妹の千夏の我慢が限界に達していたのだ。いったいどのようにして家を調べたのか、週末に吉田障子が三原家を訪れると、激昂した千夏が警察を呼びそうになったくらいだ。それ程までに吉田障子の存在を毛嫌いしている千夏だったが、千夏の先輩であり麗奈の親友でもある紗夜は吉田障子に対して悪い印象を抱いていない様子だった。少しやんちゃな後輩程度に思っているのだろうか、吉田障子を見つめる紗夜の瞳は何処か温かい。そして、話の中心にいるはずの麗奈はといえば、勝手に気ままに動き回る吉田障子という名の自分の体を早くなんとかしなければいけないと思いつつも、夢なら早く覚めてくれないかなと疲れ切った心の中でぼんやりと願い続けるばかりだった。
「おお、さすがは紗夜っち。千夏ちゃんも紗夜っちの器のデカさを見習わねーとさ」
「紗夜先輩でしょ! 先輩には敬語を使いなさいって言ってるの!」
「紗夜っちって、うふふ。別にいいよ、千夏ちゃん」
「よくないですよ! ほら、お姉ちゃん、もう行きましょ!」
ごおっと長い髪を逆立たせた千夏が姉の手を掴む。ぼんやりと立ち竦んでいた麗奈はされるがままに千夏に腕を引かれていった。三人が校舎の中へと姿を消すと、校庭の隅に視線を落とした吉田障子はポケットに手を突っ込んだ。
最近、吉田障子という名の一年生が富士峰高校の生徒たちの間で話題となっていた。それらは別に大した内容のない笑い話ばかりである。だが、そんな吉田障子に対して嫌悪感を露わにするような者はごく僅かだった。
異性に対してだらしない、軽はずみで何処かうわついた、人気者の上級生への好意を隠そうとしない一年生の男の子。嘲笑の的となってもおかしくない吉田障子という男子生徒が他の生徒から反感を買われなかった主な理由は富士峰高校の閉塞感にあった。
生徒たちの誰も彼もが、校舎を闊歩する心霊現象研究部の部員たちを好ましく思っていなかったのだ。だが、元教員が創り上げた心道霊法学会という巨大なバックが存在する限り現教員でさえも彼らには頭が上がらない。そんな彼らに表立って反抗出来る生徒はほとんどいなかった。最大の抵抗勢力とも期待されていた演劇部とその部長の三原麗奈が心道霊法学会に直接目を付けられてしまった現状において、学校の閉塞感はつのるばかりだったのだ。
そんな中で三原麗奈に強い好意を持っているらしい一年生の登場が生徒たちの目に面白おかしく映っていた。更にまたその吉田障子という男の子の様相が滑稽であり、まだ高校デビューを果たしたばかりのような彼の姿が生徒たちの笑いを誘ったのだ。当然そんな一年生の男の子に三原麗奈を落とせる筈がないだろう。だが、そこがまた面白いのだと生徒たちは、数々の試練に立ち向かっていくドンキホーテさながらの男子生徒に夢を見ていたのだった。
そんな吉田障子が演劇部で軽い事件を引き起こした。
「このど変態野郎!」
「早く警察を呼びましょう」
「その前にいっぺんボコボコにしばいてやりましょうよ!」
演劇部の更衣室は騒然としていた。静かな旧校舎を走る甲高い声。女生徒たちの怒りが木造の校舎を振動させる。
「ち、ちげーって! いてっ、ちょ、ちょ、落ち着けよ!」
広い部室の真ん中で正座する男子生徒。その猫っ毛の天パは乱れ、顔には無数の引っ掻き傷が出来ている。体操服姿の女生徒に囲まれた吉田障子は鼻の下をだらしなく伸ばしながらも、女生徒たちの猛攻に対して必死の抵抗を見せていた。
「何が違うのよ! 現行犯逮捕よ! この覗き野郎!」
「いいえ副部長、これは覗きでなく不法侵入です」
「だから、ちげえって! 救助活動の一環だっての!」
「何の救助よ! 下着でも救助しようとしてたっての!」
「猫だよ! いてっ、ちょ、待てって、の、のら猫だよ!」
女生徒たちの蹴りが吉田障子の背中、腹、太ももに入れられる。昼休みだということで千夏、紗夜に連れられて演劇部の部室を訪れていた麗奈はそんな光景に唖然としていた。
本当にアレがいつも独りだった僕なのだろうか……。
まるで別世界の光景である。もはや他人としか思えない自分の姿に、怒りを通り越して尊敬の念すら覚えてしまった麗奈は諦めたように肩を落とした。
「言い訳が苦しい」
「嘘つき変態野郎ですね」
「もうやっちゃいましょうよ!」
「ま、まじだって! ほんとに猫が……!」
その時、ニャー、という小さな声が女生徒たちの産毛を揺らした。視線を動かした女生徒たちの怒鳴り声が止む。瞬間、柔らかなため息が更衣室を包み込んだ。脱ぎ捨てられていた制服の下から小さな白猫がよちよちと這い出て来たのだ。
「うっそぉ、やーん、まじかわぁ」
「ほんとぉ、何処から入ったのかしら?」
「まだ子猫ですね。親猫とはぐれたのかな」
「ほら言ったじゃん! 猫を救助しようとしてただけだって!」
子猫の鳴き声に吉田障子の声が被さると和やかだった女生徒たちの表情が再び一転する。眉を吊り上げた演劇部副部長の笹原三波は床で正座する男子生徒を睨み下ろした。
「そもそも救助って何? まさか貴方、私達が子猫を食べちゃうとでも思ったの?」
「んなことするもんですかい!」
「そうですよ! もう早くこいつをやっちゃいましょうよ!」
「いやいやいや、誰にも気づかれずに餓死しちまったら可哀想だろ! そうならないようにって、善意の気持ちでここに来たんだよ!」
「へー、そんなこと言って君、本当は覗きがバレた時の保険として子猫を連れ込んだんじゃないの?」
「……ヘ?」
「あ、こいつ今、ギクッて顔しましたよ!」
再び女生徒たちの足が宙を切った。だが、ギンッと目に力を込めた障子の鋭い声に女生徒たちの動きが止まる。
「ちょ待てよ!」
バシンッと自分の太ももを叩いて立ち上がった障子は自分を取り囲む女生徒たちの目を一人一人睨んでいった。その凄まじい怒気に気圧された女生徒たちの足が後ろに下がった。
「な、何よ……」
「お前ら、本気で俺が覗きなんてすると思ってんの?」
「いや、現にしてんじゃん」
「この俺がそんなチンケな真似を本当にすると思ってんの?」
「全校生徒の総意だよ」
「なぁ麗奈ちゃん、君は俺がそんな男じゃねーってことくらい分かってるよな?」
「気安く部長に話しかけんなぁ!」
女生徒たちのローキックに障子のバランスが崩れる。だが、それでも彼は視線を下げなかった。もはや事の成り行きを見守ることしか出来なかった麗奈は、このまま吉田障子が警察の御世話になるとして、それならそれでもう別に構わないかなと脱力したままに自暴自棄になっていた。
「いいかお前ら! よーく聞けよ!」
「うっさい、この変態め!」
「覗きなんてチンケな真似、俺は絶対にやらねぇ!」
「この……!」
「パンツ見たかったら直接頼む! 下着欲しかったら土下座する! 俺は、俺はそういう男だ!」
吉田障子の絶叫に女生徒たちのローキックの連打が止まる。一理あるのでは、と困惑した女生徒たちは互いに目を見合わせた。
「ふ、やっと俺が覗きに来たんじゃないってことを分かってくれたよーだな」
「いや、結局変態じゃん」
「法で罰せられるべき変態野郎だよ」
引っ掻き傷だらけの顔を尊大に振り上げた障子に女生徒たちの腕が下がる。子猫の鳴き声は止まない。呆れたままに口を半開きにしていた女生徒たちの視線は徐々に足下へと落ちていった。
「ねー、そんな変態よりさ、この猫ちゃんどうしましょうか」
「部室で飼っちゃうとか?」
「いいねー! 皆んなで世話しよう!」
「え、でも親猫が探してるかもしれませんよ?」
女生徒たちの視線が離れると、微かに肩を下げた障子の視線が素早く左右に動いた。ロッカーの上。部屋の隅の段ボール箱。コンセント。蛍光灯。サッと更衣室を見渡した障子は、呆然と立ちすくんでいた麗奈に向かってニッと無邪気な笑みを見せた。
「というわけでさ、麗奈ちゃんのパンツ見してよ」
演劇部の猛攻が再び障子に襲い掛かる。




